月雪ミヤコの恋愛録 作:一等星の夜
──月雪ミヤコがいなくなった。
いなくなったと言えば、語弊があるかもしれない。
月雪ミヤコがシャーレを出て行った。
買い出しや急用、弾薬の補給といった、一時的なものではない。
彼女は荷物をまとめて、RABBIT小隊が待つ子ウサギ公園へと帰って行ったのだ。
べつに、ケンカをしたわけでもなければ、おそらく嫌われてしまったわけでもないと思う。たぶん、きっと、めいびー。
唐突な別れに困惑した私は理由を求めた。
彼女はまるで愛おしいものでも見つめるような瞳を私に向けて、「気づいてしまったからです」と、要領を得ない答えを返した。
私は再びどういうことかと訊ねた。
「傍にいればきっと私は、抑えきれなくて、伝えてしまうから」と。
やはり要領を得なかった。
「ここは居心地がよすぎるので、つい立ち止まってしまいそうになるんです」
「だから、お世話になりました。また、必ず会いに来ます」、そう言って、彼女は出て行った。
私もつい、忘れてしまっていた。
彼女がここにきた理由は、SRTのためだったのだ。
────任務ですので、致し方なく。
初めて彼女がシャーレへとやってきた日、不服そうにため息をつきながらそんなことを言ったのを思い出した。
結局私は彼女になにもしてやれなくて。自分の無力さが情けなくて、すっかり広くなってしまった執務室でひとり、大きなため息をこぼした。
べつに、二度と会えなくなったわけではない。
すぐにでも会いに行ける距離だし、会いに来るなとも言われていない。
ではなぜ私はこんなにも落ち込んでいるのだろうか。
そんなことはわかりきっている。
もうすでに、月雪ミヤコは私の生活の一部だったのだ。
月雪ミヤコはいて当たり前で、いてくれなければ困る。いつしか、そう思っていた。
だから私は、ぽっかりと空いてしまった彼女の席に視線をやって、もう一度ため息をこぼしてから、口の
「……君の存在が、大きすぎる」
とりあえず、今日も今日とて大量に積み上げられた仕事は一体誰が手伝ってくれるのだろうかと、私は苦笑した。
× × ×
到底ひとりでは処理しきれない量の仕事に追われていた昼下がり、唐突に一件のメッセージを受信した。
『便利屋68の情報網をなめてもらっては困るのだけど。うさ耳の彼女は元気かしら? 便利屋の経営顧問としての自覚が足りていないように感じるわ』
と、なぜだかオコな様子のメッセージが届いた。
うさ耳の彼女とやらは絶賛帰省中なのだが……というか、なんで知ってるんだ。
おそろしいな、便利屋68の情報網。
『とにかく、一度便利屋の事務所まで来てちょうだい』
『これ』
『既読ついてるわよね?』
『先生?』
返事はせずに、私はタブレットの画面を閉じて、ハンディファンを手にして執務室をあとにした。
9月というのは暦上では秋に属するらしいのだが、真っ赤なうそだ。どう考えても真夏。
ハンディファンひとつあったところで、たいして変わらない。無いよりかはマシ、その程度のレベルだ。
それくらい、暑かった。
結果、汗だくになりながら、ようやくたどり着いた便利屋68の事務所の扉をノックすると、課長の鬼方カヨコが迎えてくれた。
「暑そうだね」と、汗だくの私を見て引き気味に。すぐに中へと入れてもらって、氷の入ったお茶をもらい、ソファへと腰かけた。
「アルもムツキもハルカも、それぞれ仕事で出かけてるから」
テーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろしたカヨコは、「で、どうしたの? 依頼? 先生なら特別に安くしておくよ」と言葉を繋げて、揶揄うような流し目をこちらへ向けてきた。
「たしかに、カヨコが引き受けてくれるならそっちのほうがいいかもしれないな……」
「……冗談のつもりだったんだけど」
「いや実はね、」
眉を八の字に曲げて困ったような表情を浮かべるカヨコに構わず、私は続けた。
私と月雪ミヤコが同棲していたこと。そうなるに至った経緯。そしてつい今朝方、月雪ミヤコが出て行ったこと。それから、アルから送られてきたメッセージの内容まで、事細かに。
カヨコは茶化したり、驚いたりといった反応は見せず、ただ淡々とだまって聞いていてくれた。
「そっか。うん、先生の事情はわかった」
やがて私が話し終えると、カヨコは呆れたようにため息をついてから、仕方ないなとでも言いたげに苦笑した。
「それで、私にどんな依頼?」
「とりあえずアルから守ってもらえると──」
言いかけた言葉が途切れてしまうほど、いたずらに、上目遣いで私の瞳の奥を覗き込んでふっと笑ったカヨコに、動揺してしまった。
「守ってほしいんだ?」
「……いや、」
「かわいいとこあるね」
「──……」
正直、カヨコのようなクールで、綺麗で、かわいくて。大人びた年下の女の子に揶揄われるのは、嫌いではない。むしろ好きと言っても過言ではないまである。
ムツキとはまた違った良さがあるのだ。
カヨコはこう、なんというか、近寄りがたい雰囲気はたしかにあるのだが実は猫が大好きで、猫に話しかけたりするようなかわいらしい部分があって、一見他人に興味がなさそうで冷たそうな印象を受けるがそんなことはなく、優しくて仲間思いでそういったところが外見とのギャップがあって、こう、なんというか、とにかくカヨコはとてもかわいいのだ。
ムツキは言わずもがな、いたずら好きな性格であることから、生意気で挑発的で大人を小馬鹿にするようなタイプだと思われがちだが、その実正反対で、浅黄ムツキは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ。
「カヨコのほうがかわいいでしょ」
「……そういうこと、まじめな
──と、話が逸れてしまったが、手の甲で口もとを隠して不意打ちに戸惑っているカヨコを眺めながら、私はグラスの中の冷えたお茶を呷った。
「話を戻すけど、今日は誤解を解きにきたんだよ。ほら、アルはなんか勘違いしてるっぽいし──」
「ふふ。ぷんすか怒ってたよ」
愛おしいものを思い出すような表情で、カヨコはくすくすと笑った。
しかしすぐにまじめな顔つきに戻り、カヨコはじっと私の瞳の奥を覗き込んできた。
「ひとつ訊いておくけど」
「うん」
「本当に、ただの生徒なんだよね」
「もちろん。私と月雪さんはただの先生と生徒だよ」
私が答えると、カヨコはまたふっと笑って、「そっか」と、どこか満足げだった。
「私からアルに話してあげてもいいけど、もうすぐ帰ってくると──」
「カヨコ! 聞いてちょうだい!」
カヨコの言葉を遮って、勢いよく開かれたドアからはぷんすかと怒ったアルが部屋の中の様子も確認せず、大声をあげていた。
「先生ってばさっきメッセージを送ったのに返事も、してくれな……い、のだけど…………って先生!?」
「お邪魔してるよ、アル」
「く、来るなら言ってほしいのだけど!? そうとわかっていればこんなボロボロの格好じゃなくて……ああもう! 着替えてくるから、待っていてちょうだい!」
言って、アルは隣の部屋に駆け込んだ。
今日のお仕事は少し手こずったのだろうか。
頬や服には汚れがついていて、髪型も少し崩れていた。
「べつに気にしなくていいのにね。どんなアルもかわいいんだから」
「……はあ。そういうとこだよね、先生は」
あはは、と呑気に笑った私とは対照的に、カヨコは呆れたようにため息をついていた。
× × ×
「──というわけで、べつに私と月雪さんは付き合ってないし好き合ってもないんだよ」
カヨコに話したように、アルにも本当のことを話した。
次第に彼女のふくらんでいた頬はゆるんでいき、話し終える頃にはにこにこと上機嫌になっていた。
「そういう事情があったのね! やっぱり先生は私が見込んだ通りだったわ!」
「誤解が解けてよかったよ」
「……それはそうと、ごめんなさい先生。私としたことが、誤った情報に踊らされてしまったみたいね」
一変して、アルはしゅんと俯いて謝罪の言葉を漏らした。
「いやいや、わかってくれたらそれで充分だよ」
「──でも、」
握った拳を顎先にあてて、アルはちらと上目遣いをこちらへ向けた。
「同棲は、その……あまりよくないのではないかしら?」
「……」
少し気恥ずかしそうに、申し訳なさそうに控えめに問いかけてくる。
隣でカヨコはうんうんと大きく頷いていた。
いやしかし、こういったかわいらしい反応をいただけたのはずいぶんと久しぶりな気がする。
もちろん月雪ミヤコやヒマリやトキがかわいくないだとかそういう話ではない。
ただ、彼女らはやはり私よりも優位に立っていることが多く、こう、なんというか。
アルは怒っても怖くないし、むしろ怒ってるとかわいい。怒ってなくてもかわいい。
見た目とのギャップというか。カヨコは自分のことを怖い顔だというが、その印象を与える最たる理由は切れ長の
カヨコの良さは先ほど語ったので割愛するが、アルは見た目だけなら相当迫力がある。
なのに実態はどうだろうか。1にかわいくて2にかわいい。3、4もかわいくて5もかわいいのではなかろうか。
私の語彙力、表現力が皆無なおかげでかわいい以外の言葉を絞り出せないが、結論アルはかわいい。
「責めているわけではないのよ!? ただ、その子だけ特別みたいで……うまく言葉にできなくてもどかしいのだけど、その、モヤモヤするのよ……」
無言の私を見て怒っているとでも勘違いしたのか、アルは慌てた様子で言葉を繋げて、かと思えばきゅっと胸もとを押さえてもにょもにょとなにごとかをつぶやいていた。
これ、動画におさめて街ですれ違う人全員に見せてあげたい。「見てください! これ、うちのアルちゃんですよ! かわいいでしょう!」と。
「せ、先生……?」
などと真剣な眼差しでアルのことをじっと見つめながら気持ちの悪いことを考えていた私を見て、アルは先ほどよりも怯えた様子で私を見つめ返している。
「……いや、まあアルの言う通りです、はい」
「そ、そうよね?」
「でも──彼女はもう、」
一度言葉を区切り、私は視線を落とした。
「出て行ってしまったから」
「……」
「……」
そういえば、さきほどカヨコとムツキとアルの良いところを語ったのだが、ではハルカのことを語らないというのはおかしな話だろう。
いや決して文脈度外視でただただハルカのかわいさを語りたいだなんてこれっぽっちも思ってはいない。
語りたいのではない。語らなければいけないのだ。
お前がハルカのなにを知っているのだと非難されるかもしれないが、たしかに私は伊草ハルカのことを1から10まで知っているわけではない。
むしろ知らないことの方が多いだろう。
だがしかし、それがハルカのかわいさのほんの一部分でしかないとしても、私はたしかにハルカのかわいさを知っている。
まず、ハルカをデートに誘うとしよう。
そしたら彼女は必ず「自分なんかが先生とデートだなんて」と、そういったふうなことを言って断る空気を作るだろう。
けれど次に、「自分なんかが先生の誘いを断るなんて」と、ジレンマに苛まれるだろう。
はい、ここハルカのかわいいポイントです。
こう、なんというか、うまく言葉にできなくてもどかしいのだが、本当にかわいいのだ。
あと意外と声が低いのもかわいいし、笑顔がへたくそなところもかわいいし、でも本当にかわいく笑うことができるのもかわいいし、とにかく伊草ハルカはかわいい。
──と、ずいぶん話が逸れてしまったので私は一体なんの話をしていたのか思い出すことができないのだが、落としていた視線をあげると、心配そうに私の様子を窺っている2人と目が合った。
「ええと、つまり私はハルカのかわいさを知り尽くしているわけではないが、彼女がかわいいという事実についてはしっかりと理解しているという話で──」
「なんの話!?」
「……先生、変なものでも食べたの?」
アルは大きく口を開けて、カヨコは引き気味に……いやドン引きしている。
たしか、話題は月雪ミヤコの話で、同棲していたことを追及されていて、本当は月雪ミヤコは出て行ってなんていなくて、今からでもシャーレに帰ればいつもの席に彼女は座っていて、「遅かったですね。これだけの仕事を放っておいて、一体どこに行っていたのですか」なんてジト目で問い詰めてきて、それから……それから──
「私は、」
────そうか、私はもうすでに、月雪ミヤコに会いたくなっているのか。
月雪ミヤコのことばかりを考えて、心ここに在らず、というやつだったのか。
「私は、だめな大人です……」
「ちょっと!? 先生の情緒はどうなっているの!?」
アルはオロオロしながらも、しおれた私をなんとか元気づけようと、「大丈夫よ!」とか、「先生は立派だわ!」とか、もったいないお言葉をくれながら、私の背中をさすってくれた。
カヨコはなにも言わず、お茶のおかわりを入れてくれた。
──仕事なんて、あろうがなかろうがどっちでもよかったんだ。
彼女が優秀だからとか、いてくれた方が助かるだとか、そんなことはどうでもよくて。
暇で暇で暇で、息をするくらいしかやることがなかったとして、当番なんて存在が必要なかったとして、それでも……。
──それでも私は、月雪ミヤコに傍にいてほしかったのだ。