月雪ミヤコの恋愛録 作:一等星の夜
「いいね。すごくいい。特にこのシーン」
「どこですか」
シャーレオフィスからそう離れていないこじんまりとしたカフェで、昼食をとりつつ暖をとることにした。
昨夜降っていた雪は、朝起きたときにはすでにやんでいた。
わかっていたことではあるが、積もりもしないくせに、寒さばかりを残してどこかへと行ってしまった雪雲にほんの少し苛立ったが、すぐにそれどころではなくなった。
11時を少しすぎた頃、依然として調子の悪かった暖房器具が、ついに音を出さなくなった。
初めこそ上着を着て執務を進めていたのだが、しまいには部屋の中で吐いた息が白く凍りついたのを見て、耐えられなくなった。
私が彼女に声をかけようとそちらを向くと、彼女も同感だったのか、同じタイミングで目が合った。
ちょうど昼時だったこともあり、近くのカフェで修理業者が来るまで時間を潰すことにした。
幸いなことに、今日来て直してくれるということだったので、最終手段としてミレニアムサイエンススクールのエンジニア部に頼るという選択肢が消えてホッとした。
それからカフェに入って昼食をとり終えて、どうしようかと辺りを見渡したが、昼時だというのに私たち以外の客は皆無だったことに気づいて、もう少し居座ることにした。
珈琲とケーキを頼んで、月雪ミヤコが持ち出していた小説を一冊借りた。
恋愛小説だった。
「ほらここ。星空を見上げたヒロインが『……すき』ってこぼしたところ。そのあとの──」
ほんの少しばかり興奮していた私の言葉に重なって、カランカランと店のドアにつけられた鈴の音が鳴った。
店主の「いらっしゃいませ」という声が聞こえてきたことから、どうやら客が入って来たらしい。
よかった。先ほどから客が私たちしかいないせいで、見守るようなあたたかい瞳を向けてくる店主とちらちらと目が合って気まずかったのだ。
「そのあとの、『私は、星を見上げるのが好き』って揶揄ったところ。そんでさ、肩透かしを食らった主人公にもう一度、」
すぐうしろで、椅子を引く音が聞こえた。
どうやら、入って来た客はがら
なぜわざわざ……と思ったが、深く考えないことにして、言葉を続けた。
「『……好きよ』。で、一拍おいて『星が』っていうところ。これだよ、こういうのでいいんだよ、こういうので」
なぜでしょうか、あなたに語られると妙に不快感がありますねと、私にジト目を向けた月雪ミヤコは、珈琲に口をつけてひとつ息を吐いた。
私も同じように珈琲を口に運ぼうとカップを持ち上げたのと同時に、うしろに座っていた客が突然私たち──私に向けて話しかけてきた。
「〝一等星の夜〟。203貢4段落目から8段落目にあるヒロインのセリフですね」
「……」
聞き覚えのある声だった。
振り向かずともわかった。無数にある小説の、数文字程度のセリフだけでそれが何ページの何段落目に記されているのかを記憶している者なんて、キヴォトス広しといえど、私はたったひとりしか知らない。
とはいえ、一応振り返っておく。
彼女はこちらに背を向けたままだった。顔は見えない。うしろ姿ははっきりと見覚えのあるものだった。
「……奇遇だね、ノア」
「こんにちは、先生」
こちらを振り返って応えた彼女は、私だけでなく月雪ミヤコにも笑顔を向けていた。
「そちらのかわいらしい生徒さんも、こんにちは。ミレニアムサイエンススクール所属、セミナーの書記、生塩ノアです」
「……ご丁寧にありがとうございます。SRT特殊学園所属、RABBIT小隊、小隊長の月雪ミヤコです」
私を挟んで、ノアと月雪ミヤコは挨拶を交わした。
しかしどうでもいいことではあるが、こうして間近でふたりを見比べてみると、なんだか姉妹のように見えなくもないなと、本当にどうでもいいことを考えた。
髪の色も、瞳の色まで似ている。
それから、どちらも〝透き通るような綺麗な声〟だという共通点もある。
「……それで、ノアはどうして
「いえ、本当に偶然です。ここには時々来るんです。ここは珈琲がとても素晴らしいと思いませんか?」
言って、ノアは背もたれにかけていた上着を掴んで立ち上がると、私の隣の椅子に腰を下ろした。
「え、ノアさん?」
「ふふ」
何事かと焦る私に笑みだけを返して、ノアはなにも答えなかった。
「私、実は聞いたんです。いつも女の子を取っ替え引っ替えな先生が、最近はひとりの女の子をずっと傍においていると」
私たちの正面に座る月雪ミヤコを興味深そうにじっと見つめて、ノアはなにかを分析するようにうんうんと頷いている。
そんな彼女の視線に居心地の悪さを感じているのか、月雪ミヤコはいつもより少し低い声で「なにか?」とノアを睨めつけた。
「いえ。なるほど、たしかに先生の好きそうなタイプですね」
「ちょっと?」
とんでもないことを言い出した。
ただでさえ私と月雪ミヤコの関係は良好とは言い難いのに、そんな誤解を植え付けられてしまっては余計に距離が離れてしまう。
「……」
ガタッと大袈裟に椅子を引く音が聞こえてそちらを向くと、案の定月雪ミヤコはドン引きしていた。
両手で自分の身体を抱くようにして、私を睨めつけている。
「最低です。やはり私をそういう目で見ていたのですね」
「いやだから誤解なんだって」
「やはり、あの目がたまらないんですか、先生」
「ノア!?」
真剣な眼差しでふざけ倒しているノアと、青ざめた表情で「変態……」と小さくこぼした月雪ミヤコ。
このふたりを、私ひとりで相手にできるほど、私は強くない。主にメンタルが。
「……あのね、ノア。月雪さんは子供なんだ。私は子供相手にそういった感情を抱いたりしないよ」
「ふふ。もちろん理解しています。ちょっとした冗談──」
「はい?」
つい先ほどドン引きしていた月雪ミヤコだが、その声は今までで一番低いものだった。
「聞き捨てなりませんね。それはどういう意味でしょうか」
「え、いや……それって、どれ? ね、ねえノア、」
「すみませーん、ホットコーヒーをひとつ──」
慌てて隣のノアに助け舟を求めたのだが、いち早く危険を察知したのか、ノアはカウンターにいる店主に声をかけていた。
「それは私の身体が貧相で、欲情するに値しないと言いたいのですか? もちろんあなたにそういった視線を向けられるのは不愉快極まりないですが、それはそれとして私など眼中にないというような物言いには、少々腹が立ちました」
「いやそんなことは全然言ってなくて──」
「もういいです。私みたいな子供が当番で、先生にとってはつまらない毎日だったでしょう。気づいてあげられなくて申し訳ありませんでした」
月雪ミヤコは完全にヘソを曲げてしまい、勢いよく座り直すと、つんとそっぽを向いてしまった。
ノアは気まずそうに苦笑しているだけで、私も相当気まずかった。
「……」
「……」
「……」
水の入ったグラスから、カランと溶けた氷がぶつかる音が響いた。
それくらい、静まり返っている。
気まずい……。気まずいのはたしかだが、本当は月雪ミヤコも、そこまで本気で拗ねているわけではないということを、わかっていた。
たった一週間程度だ。大した時間じゃない。
それでも初めて会ったあの日から比べて、ずいぶんと接しやすくなったのも事実だ。
今の彼女の言動には僅かばかり、いたずら心があった。
「──月雪さん」
「……」
それでも私は、彼女が本気ではないことをわかっていながら、本気でこんなことを言ってしまうのだ。
「私はね、月雪さんが好きだよ」
「──……」
そっぽを向いていた月雪ミヤコはようやくこちらを向いて、そのかわいらしい目をまんまると丸くした。
「つまらない毎日だなんてとんでもない。君がやってきたあの日から、すごく楽しいよ。君は私を嫌っているけど、私は君が好きだ。君との会話は、心地がいい」
言い終えたあとで、なんだか少し告白じみていたような気がして、後悔した。
伝えたいことはつまり〝いつも私の話し相手になってくれてありがとう〟ということだったのだが、上手く伝わったのだろうか。
いったん手元の、もうすっかり冷めてしまった珈琲を一口喉の奥へと流し込み、ちらと月雪ミヤコの方へ視線を戻した。
「……ぁ」
「……?」
月雪ミヤコは未だ目を丸くしたまま、小さく口を開けて固まっていた。
なにを言おうとしたのか、こぼれ落ちた声は言葉にもならないものだった。
「……お熱いですね」
すっかり忘れてしまっていたが、そういえば私の隣にはノアがいた。
そちらの方を向くと、なにやら不服そうな表情で私を見つめている。
「ノアが揶揄ってきたのが発端でしょ……」
「それはそうかもしれませんが、まさか目の前で愛の告白を見せつけられるだなんて想像もしていませんでした」
「ちょっと?」
愛の告白だなんてした覚えはない。
この期に及んでまだ揶揄おうというのか。
「まあいいでしょう。これ以上おふたりの邪魔をするわけにもいきませんので、私はそろそろ帰ります」
言って、いつの間にやら運ばれてきていた珈琲を、いつの間にやら飲み終えていたノアは立ち上がり、伝票を持ってカウンターへと歩いていった。
途中振り返り、「それではまた」と笑顔を落としたノアに手を振って、依然としてぼうっとしたままの月雪ミヤコへと視線を戻した。
「月雪さん?」
「……」
返事がない。ただのしかばねのようだ。
「あ、」
どうしたものかと考えていると、私の携帯がポケットの中で震え出して、画面を見ると修理業者から連絡が入っていた。
慌てて電話をとると、困惑したような声色で「シャーレオフィスに着いたのですが」と言われ、私は時計に目をやった。
約束していた時間を過ぎている。
私は電話口でぺこぺこと平謝りしてすぐに戻る旨を伝えてから電話を切ると、未だぼんやりしたままの月雪ミヤコの手をとって立ち上がらせ、会計を済ませて店を出た。
月雪ミヤコの手は、あたたかかった。
× × ×
「ですから、ここはアラビア数字ではなく漢数字だと何度言えば──」
「ああ、ごめんごめん。またやっちゃってた? なんかこうずっと書類と向き合ってると頭の中がごっちゃになってきて──」
「言い訳をしている暇があるなら、さっさと直してください」
すっかり調子を取り戻した暖房器具は、静かに暖かい風を吐いている。
太陽が沈んで、どっぷりと暮れた空は昨日よりも幾らか、明るかった。
「そういえば、」
「……なんですか」
「月雪さんってきのこ派? それともたけのこ派?」
「……はい? それは今話さなければならないほど重要なことですか?」
「いいや。ただの雑談」
「では、黙って手を動かしてください。ただでさえ遅れているのに、なにを呑気な……」
暖房器具が壊れてしまったことと、修理に時間を費やしたこと。そのせいで、いつにも増して執務に追い込まれていた。
時刻はもうすでに、22時を半分ほどすぎている。
今日は私ひとりでなんとかすると言ったが、彼女は今日こそふたりでやるべきだと譲らなかった。
「はいはい、申し訳ございませんでした」
「はいは一回です」
「はい……」
いつもと変わらず彼女は手厳しい。
なのになぜだか、彼女との距離は縮まっているような気がした。
「ねえ、月雪さん」
「……だから、なんですか」
今夜は雪は降らないらしい。
晴れた星空に、ひときわ大きな月が浮かんでいた。
「ありがとう。感謝してるよ」
「……」
ちらと、こちらを見ただけで、月雪ミヤコはなにも言わなかった。
だけどそれがなんだか心地よくて、私は口の