月雪ミヤコの恋愛録   作:一等星の夜

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「おめでとうございます!」

 

 その声は、広大な建物の中で大きく響いた。

 続けて、カランカラン、カランカランと大仰な鐘の音が鳴り響く。

 周囲の人々の視線が一気にこちらへと集まり、私は気恥ずかしさを誤魔化すように苦笑で応えた。

 

「出ました! 特等賞、温泉旅行ペアチケットです!」

 

 ……扱いに困る。

 それがまず、最初に浮かんだ感想だった。

 

 ──今日は午前中に必要最低限の執務を終わらせて、ショッピングモールへとやって来た。

 主な目的としては、併設されてある本屋を吟味してなにかよさげな小説を買うつもりだった。

 月雪ミヤコも一緒に来ていたのだが、彼女は早々に目当ての小説を購入すると、弾薬などを見てくると言って私のもとを去った。

 私もそれからしばらくして、数冊の小説を購入したので彼女に連絡をとってみたが繋がらなかったことから、まだ時間はかかりそうだと適当にあたりをぶらついた。

 

 うさぎの模様が入ったマグカップを、ふたつ買った。抽選券がついてきた。

 よく見ると、ショッピングモールのいたるところに『福引き 特等賞は温泉旅行』と印字されたイベントポスターが飾られてあった。

 私はなんの気なしに、せっかく抽選券を貰ったのだから運試しでもしてみようと、軽い気持ちで抽選会に参加した。

 

 抽選券を渡して、ガラガラを回すと金色の玉が出た。

 ちなみにガラガラの正式名称は『新井式回転抽選器』らしい。

 

 話を戻す。

 特等賞が出た。温泉旅行ペアチケットだった。終わり。

 

「……」

 

 特等賞を受け取り、いつの間にかできていた人だかりを抜けてすぐに、目の前に立っていた月雪ミヤコと目が合った。

 

「騒がしいですね」

「いや、まあね。それより、装備の新調は済んだ?」

「今の私たちにそんな余裕はありませんので。今日は見てまわっただけです」

「そ。なら、どっか店に入ろうか」

「そうですね」

 

 昼時は過ぎていたが、昼食をとるために幾つか飲食店をまわった。どこも満席だった。

 しばらく歩きまわったあと、なんとか席が空いているカフェを見つけてすべり込み、幾つか注文してからようやく一息ついた。

 

「それで、さっきのは一体なんですか」

「……福引だよ。ほら、あれ」

 

 運ばれてきたアールグレイを一口飲んでから問いかけてきた月雪ミヤコに、店内にも貼られてあったイベントポスターを指さして答えた。

 

「当てたのですか?」

「どうやらそうらしい」

 

 私は先ほど受け取った温泉旅行券をテーブルの上に置いて、苦笑した。

 興味深そうに、まじまじとそれを見つめている月雪ミヤコから目を離して、ロイヤルミルクティーが入ったグラスの中の氷を、ストローでかき混ぜた。

 

「素直に、すごいと思います」

「自分でもそう思うよ。でも、」

 

 そこで言葉を切った私を、不思議そうに見つめて月雪ミヤコは続きを促してくる。

 

「これは君に譲るよ」

「……」

 

 掴み取った幸運を、みすみす手放そうとしている私の行動が理解できなかったのか、訝しむように目を細めて、私の瞳をじっと覗き込んだ。

 

「べつに、企んでるわけじゃないよ。ただ誰を誘うかと考えたとき、誰も誘えないことに気がついた。私は大人で、先生だからね」

 

 言って、ミルクティーを一口飲んでから、私は続けた。

 

「たったひとりの生徒を特別扱いするわけにもいかないし、ふたりで温泉旅行に出かけるほど仲の良い友人もいない」

「……そうですか。では、これは特別扱いにはならないのでしょうか?」

「どれ?」

「たったひとりの生徒に温泉旅行券をプレゼントする、というのは」

「……」

「〝沈黙は金〟と言いますが、この場合の解としては正しくはありませんね」

 

 月雪ミヤコは呆れたようにため息をつき、半分ほど残っていたアールグレイを一気に飲み干すと、テーブルの上のチケットを2枚手に取り、それをじっと見つめたまま思考していた。

 5秒ほどだっただろうか。すぐに考えはまとまったのか、彼女はペアチケットの1枚を私へと差し出した。

 

「私から誘ったのであれば、特別扱いにはなりませんね」

「まあ、それは」

「ではこう言いましょう。『先生。温泉旅行に行きませんか?』と」

「……いいの? 他に──」

「サキ、モエ、ミユ。この中からたったひとりだけを選んで特別扱いしろと、先生は私にそうおっしゃりたいのですか?」

「──そうか。それは、ひどい話だ」

 

 彼女は決して言葉にはしないからわからないけれど、もしかしたら、私を気遣ってくれているのかもしれない。

 日々激務に追われる私に、たまには羽を休めてほしいと、そんなことを思ってくれているのかもしれない。

 それはきっと気のせいだろうけれど、呆れたように私を見つめる彼女の瞳から、そんなあたたかさのようなものをほんの少しばかり感じたような気がした。

 十中八九、いや九割九分勘違いなのだと思う。

 

「私はいつでも構いません。ただ、期限が過ぎる前に都合をつけてください」

 

 言って、彼女はテーブルの上の、私に差し出したチケットを裏返した。

 私はそれを手に取って、印字されている文字を目で追った。

 どうやら温泉旅行券の使用期限が切れるまでには、10ヶ月の猶予があるらしい。

 なるほど。これでは都合がつけられないといった言い訳はできないわけだ。するつもりもないが。

 

「じゃあ、私が明日だと言えば、付き合ってくれるんだ?」

「宿泊する旅館が問題ないと言うのなら、付き合いますが」

「……冗談だよ。一週間後にしよう。予約は私がとっておく」

「では、私も小隊のみんなに一報入れておきます」

「ああ。私も連邦生徒会には報せておくよ。一泊二日とはいえ、シャーレを空けるからね」

 

 話がまとまったところで、外に客が三組ほど待っているのが見えて、私たちはそそくさと店を出た。

 生徒と泊まりがけで旅行するなど、常識的ではないのだが、今さらという気もする。

 そもそも私と月雪ミヤコはすでに同じ屋根の下で暮らしているし、なんなら寝室も共有している。

 普段と大して差異はない。

 

「……」

 

 歩くたびに揺れている彼女のまとめられた髪の先をぼうっと眺めながら、誰に対してなのかもわからない言い訳を振り払った。

 難しく考える必要はない。

 これは慰安旅行なのだから。

 

 ──言い訳はぐるぐると頭の中で回り続け、そんな私を急かすように、少し先で立ち止まった月雪ミヤコがこちらを振り返り、「歩くのが遅い」とでも言いたげに私にジト目を向けていた。

 

 

 

 

 

   ×  ×  × 

 

 

 

 

 

「忘れ物はありませんか?」

「ないよ。財布も携帯も、靴下さえ月雪さんが用意してくれたじゃないか」

 

 一日分の着替えをふたり分、ひとつに詰め込んで背負わず肩にかけただけの私のリュックをじっと見つめながら、彼女は執拗に問いかけてきた。

 どうやら私は毛ほども信用されていないらしい。

 頼りない大人。それから情けない大人、というのが彼女から見た私の印象なのだろう。

 

 それにしても、私は今日という日を心待ちにしていたらしい。

 予定を立ててから今日まで、やたらと時間の進みが遅く感じた。

 昨晩など、まるで遠足前夜の子供みたいに中々寝つくことができなかったほどだ。

 おかげで睡眠不足のため、目がしぱしぱしている。

 腕時計に目をやると、起きてからもう1時間ほどは経っているはずなのに、時刻はまだ5時半を少し過ぎた頃だった。

 ぼんやりと明るくなり始めた冬の早朝は、見慣れたはずのシャーレオフィス前の平凡な街並みでさえ、いつもと違って見せた。

 隣を歩く月雪ミヤコは鼻先を赤く染めて白い息を吐きながら、「寒いですね」と、私に視線を向けずひとりごとのように呟いた。

 

「……それにしても、こんなときまでスーツなんですね」

 

 彼女のひとりごとに反応しなかった私の態度が不服だったのか、声のトーンは先ほどより少し低くなっていた。

 

「よく見てよ。ダウンジャケットを着てる。ジャージじゃないよ。それから、マフラーも巻いてる」

「あまり、代わり映えはしませんね」

「でも、そういう君も制服じゃないか」

「よく見てください。ダッフルコートを着ています。それから、マフラーも巻いています」

 

 まるで突き刺すような冷たい風が、シャーレオフィスを出てすぐの頃はまだ寝ぼけていた頭の中を、いつの間にかクリアにしていた。

 覚醒した今の状態で、まじまじと彼女の姿を観察してみると、たしかに彼女はキャラメル色のダッフルコートを、いつもの制服の上から着用している。それから真っ白なマフラーも巻いていた。

 

「マフラーで膨らんだ後ろ髪とコートの袖口から少しばかり見える指先がとてもかわいい、好きだ」

「まだ寝ぼけているんですか?」

「とんでもない」

「そうですか。では、普段通りの気持ち悪い発言だということですね」

「ちょっと?」

 

 今の発言が気持ち悪かったというのは認めるが、普段も気持ち悪いというのはどうだろうか。

 

「どちらにしますか?」

 

 先ほどの彼女の言葉にいささかショックを受けている私など気にもとめず、彼女は予約していた列車のチケットを2枚、私の方へ差し出していた。

 どうやらいつの間にか駅に着いていたらしい。

 彼女が手にしているチケットを一枚受け取り、私は得意げな表情を浮かべた。

 

「窓際は君に譲るよ」

「恩着せがましいのが少々気に障りますが、素直に受け取っておきます。ですが、私はべつにどちらでも構いません」

「そ? でも、流れる景色を楽しむのも、旅の醍醐味だよ」

「そういうものですか?」

「そういうものだね」

 

 なるほど、と小さくひとりごちた月雪ミヤコは、手の中に一枚余ったチケットをまじまじと興味深そうに見つめていた。

 そんな彼女の姿を微笑ましげに眺めていた私と目が合うと、彼女はすぐに澄まし顔で取り繕った。

 

 改札をくぐって、売店で朝食用のサンドイッチとホットコーヒーを購入してから列車に乗り込んだ。

 始発だということもあり、乗客はほとんどいない。

 まるで貸切のような気分だった。

 

「──降るような星空なんだってさ」

 

 買っていたサンドイッチを食べ終えて、ホットコーヒーに口をつけながら、ネットで得た情報を彼女へと伝えた。

 

「〝満天の星〟、〝星降る夜〟らしいよ」

「月並みな言葉ですね」

「でも、幻想的だ」

 

 流れる景色を楽しむのも旅の醍醐味だと偉そうに語った私だが、意識は携帯の中に向けられていた。

 周りにはどんな建物があるのか、ご当地グルメはなんなのか。さして興味があったというわけでもなかったのだが、なんとなく調べ出すと手が止まらなかった。

 

「野沢菜漬けが美味しいらしいよ」

「……」

 

 星空への興味は早々に失われ、私は食に関することばかりに気を取られた。

 花より団子──もとい、星より団子。

 

「うわ、見てよこれ。山みたいなカツ丼──」

 

 ひとりで盛り上がっていると、不意にとすっと、彼女の身体が傾いて、私の肩に頭を預けてきた。

 すうすうと、小さな寝息がとても近い距離で聞こえる。

 もしかすると、今日という日を心待ちにしていたのは、私だけではなかったのかもしれない。

 なんて、それはきっと都合のいい想像なのだろう。

 おそらく、私との会話がつまらなかったのだと思う。

 

「……」

 

 心地よさそうに眠る彼女の寝息を聞きながら、私は苦笑した。

 きっとこれも──旅の醍醐味なのだろう、と。

 

 

 

 

 

   ×  ×  × 

 

 

 

 

 

「結局、場所が異なるだけで代わり映えはしませんね」

「まあね」

 

 列車を降りて、バスを乗り継いで、しばらく歩いた先に目的地の旅館があった。

 チェックインを済ませて荷物を置き、昼食をとりに辺りをぶらついた。

 適当に入った店で食べた蕎麦が妙に美味しくて、あとから調べてみるとしっかりとこの地の名物だったらしい。

 店を出て旅館へ戻ると、月雪ミヤコは併設されてある土産コーナーへと入って行った。

 小隊のみんなになにか買って行ってやるのだろうか。「出すよ」と言った私に、「結構です」ときっぱりと断りを入れて土産コーナーを物色している彼女の後ろ姿を、ロビーで缶コーヒーを片手に眺めた。

 

 やがて幾つかの買い物を済ませて出てきた彼女と一緒に、エレベーターに乗って部屋へと戻ってきた。

 畳が敷き詰められた和室の、旅館によくある窓際の謎スペースで、椅子に座って小説を読んでいる私と、小さなテーブルを挟んで正面の椅子に座って小説を読んでいる月雪ミヤコの姿は、たしかに代わり映えしなかった。

 ちなみに謎スペースは、広縁というらしい。

 

「まあでも、浴衣でも着れば映えると思うよ」

「だといいのですが」

 

 どちらも、視線は交わさなかった。

 お互いが読んでいる小説のページを繰る音が時折り重なって、思い出したかのように会話をする。

 心地よい時間だと、私はそう思った。

 

「星空、ここからでも見えますね」

「うん。でも露天風呂から見上げる星空がウリらしいよ」

「それは、ロマンチックですね」

「ああ、とても」

 

 時はゆったりと、けれど確実に進んでいた。

 いつの間にか日は沈み始めていて、あかく染まっていた部屋は薄暗くなり始めている。

 電気をつけるために立ち上がると、彼女も同じことを考えたのか、私たちの動作は同時だった。

 

「──電気を、」

「私もそう思ってね」

 

 私たちは顔を見合わせて、苦笑した。

 2人で旅行にきて、どちらも小説を読んで過ごすような2人組は、この世界にどれくらいいるのだろうか。

 少数派であることはたしかだろう。

 

「浴衣に着替えますか?」

「そうだね」

「では私はあちらで」

 

 言って、月雪ミヤコは浴衣を持って襖で隔てた先にある寝室へと向かった。

 襖に手をかけて一度動きを止めると、こちらを振り返って彼女はジト目を向けてきた。

 

「覗いたら撃ちます」

「私がそういう人間なら、もっと早い段階で君に蜂の巣にされていただろうね」

「……ですが、私はあなたを信用していませんので」

「ならこう言おう。私にそんな度胸はないよ、と」

「なるほど。納得しました」

「それはそれで傷つくな」

 

 無駄に私を傷つけて、彼女は襖の先へ入って行った。

 それを見て私もスーツを脱いで浴衣へと着替えた。

 数分経って出てきた月雪ミヤコの髪型は、ポニーテールに変わっていた。

 浴衣も、ポニテも、とてもよく似合っていた。

 

 それから予定の時刻通りに運ばれてきた夕食を堪能して、露天風呂へと向かった。

 降るような星空だとか、星降る夜だなんてキャッチコピーは大仰だとたかを括っていたのだが、その荘厳な景色を目の当たりにすると、むしろ控えめなキャッチコピーだったのではないかと考えを改めた。

 

 それは月雪ミヤコも同じだったらしい。

 露天風呂を出てロビーに置かれてあるソファに腰かけて彼女を待っていると、しばらくしてから私の前にやって来た彼女は、開口一番「たしかに幻想的でした」と、目を丸くしていた。

 

 ロビーにある自販機で瓶に入れられたラムネを2本買って部屋に戻ると、電気をつけなくてもじゅうぶんなくらいの月明かりが、広縁から差し込んでいる。

 

「……」

 

 私たちは言葉を交わさなかった。

 ただ吸い寄せられるように、部屋の電気は消したまま広縁に置かれてある椅子に腰かけた。

 綺麗だとか美しいだなんて月並みな言葉では言い表せないほどの、満天の星が夜空を彩っている。

 空に川が流れているのかと錯覚するほどに、小さな星たちがひしめき合っている。

 

「──先生と出会わなければ、今もこんな景色は知らずにいたのでしょうか」

 

 不意に、彼女は星空を見上げたまま、ぽつりとこぼした。

 

「……そんなことないよ。私と出会わなくても、君はいつかどこかで、こんな空を見上げていたと思う。それこそ、私なんかじゃなくてもっと大切な人たちと一緒に」

「……」

 

 本当はずっと、もっと前に言わなければいけないことがあった。

 月雪ミヤコと出会ってから、多くの時間を共に過ごしてきたわけではないけれど、ずっとつき続けてきたうそを、清算しなければいけなかった。

 

「いつだったか、君は私に言っただろう? 『優しいうそ』だなんて言葉を」

 

 私の中にある、ひどく独善的で気持ちの悪い、自己完結型の〝うそ〟を、清算しなければいけなかった。

 

「私はね、優しくなんかないんだよ。君たちの力になりたいと思っていたのは本心だったけれど、本当は私にはどうすることもできないということもわかっていたんだ。……実際、私と一緒にいたところで、SRTを復活させるに足るモノなんて得られやしなかっただろう?」

 

 私は、ずるい大人だ。

 

「エゴだったんだ。君たちの手助けをしているつもりになって、自分を納得させたかったんだ。大丈夫、私は生徒を見捨てたりなんてしていないって。私は頑張ってるって、納得したかった。それだけだよ。優しさなんて、カケラもなかったんだ」

 

 結局、全部自分のためだった。

 

「ごっこ遊びに付き合わせてごめんね。これからはもう──」

「本当はもっと、ずっと前に言うべきでした」

 

 それまで黙って聞いていた彼女は、星空を見上げたまま私の言葉を遮った。

 今の私が子供みたいに小さいからか。その横顔は、とても大人びて見えた。

 

「ありがとうございました」

「──……」

「私に、自由に行動させてくれて、ありがとうございました」

 

 〝──先生の甘くて優しいだけの、反吐が出るような性格を利用させてもらうと言っているのです〟。

 

 いつだったか、彼女に言われた言葉を思い出した。

 

「私だけでなく、他の隊員たちにも優しいうそをついてくれて、ありがとうございました」

 

 〝『優しいうそ』というやつでしょうか。相変わらず、甘いですね〟。

 

「いつも私たちのことを考えてくれて、ありがとうございました」

 

 〝私たちは、ただ無力なだけの子供ではありません〟。

 

「……〝月雪〟という名字を、特別綺麗だと言ってくれて──」

 

 彼女はひとつひとつ、降り注ぐ星を丁寧に両手ですくいとるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 まるで雪解けのように優しくて、月のように綺麗な笑顔を浮かべて──彼女は小さく息を吸い込んだ。

 

「──ありがとうございました」

 

 言って、彼女は星空に向けていた視線を、顔ごとこちらへ向けた。

 

「あなたに出会えてよかったと、そう思っています。──だからそうですね。私はこう言いましょう」

「……」

「これからも、よろしくお願いします」

「──……」

 

 際限なく降り注ぐ月の光が……星明かりが、そう言った月雪ミヤコの瞳の中できらめいていた。

 瞳孔が開いていくのを感じたような気がした。

 

「いや……えっと……、……おかしいな。気持ちを……うまく言葉にできない……」

 

 驚いているのか、喜んでいるのか、涙が出そうになるくらいに感動しているのか、自分の気持ちさえ、わからない。

 彼女がなぜ私に感謝の言葉を述べたのかもわからない。

 

「……」

 

 右手で後ろ髪を撫でて、苦笑したまま視線を伏せた私の視界の端で、黙ったままこちらを見つめている月雪ミヤコの姿が映っていた。

 彼女はなにを待っているのだろうか。

 どう返すのが正解なのか。

 わからないことばかりだ。

 

「……私は情けなくて、頼りない大人だけれど、」

 

 ただひとつ、たったひとつだけはっきりとわかることがある。

 

「それでも、もう少し──君の傍にいたい」

 

 もう少し、月雪ミヤコと言葉を交わしたい。

 

「もう少し、傍にいてほしい」

 

 吸い寄せられるように、伏せていた視線をあげると、その先には月雪ミヤコがいた。

 彼女は無表情のまま、私の瞳の奥を覗き込んでいる。

 

「具体的に、どのくらいですか」

「わからない。だから、それがわかるまで、月雪さんと一緒にいたい」

 

 そんな言葉、きっと、寝る前に思い返して、死にたくなるほど恥ずかしくなるのだと思う。

 けれど──

 

「……ふふっ。やっぱり、変な人」

 

 軽く握った右手を口もとにあてて、くすくすと可笑しそうに笑った月雪ミヤコの笑顔で、上書きできるだろう。

 

「そうかな?」

「そうです」

 

 夜闇の中、星が降っていた。

 月明かりの下で、私たちは笑い合った。

 

 ……何度目になるだろうか。

 今なら、今度こそ──月雪ミヤコを下の名前で呼び捨てられるような気がした。

 きっと気のせいなんかじゃない。

 目を細めて、不思議そうに首を少し傾けてこちらを窺っている月雪ミヤコを見て、そう思った。

 

「ねえ、ミヤ──」

「それはまだ許可しません」

「うそ〜……」

 

 この流れでだめなんだ。

 じゃあもう一生だめな気がする。

 

「……月雪さん」

「はい。なんですか」

 

 どうやら、私と彼女の間にある距離は、まだまだ縮まる余地があるらしい。

 得意げに、勝ち気な笑顔を浮かべた月雪ミヤコを見て、私は苦笑した。

 

 

 

 

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