たとえ望まれぬ命でも   作:中々の柘榴

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主人公くんの容姿などの設定はまたおいおい。目的地もわからぬまま見切り発車で始まる本作をどうぞよろしくお願いします。


本編
深い何かがあるわけでもない。


己は学園都市キヴォトスに所属する男子生徒である。姓は篝で名は厳。中々に珍しい名前だろう。それでも己を産み落とした母と、己を愛した父に授けられた宝だ。故に己は己の名前をひどく気に入っている。

 

「厳ちゃん、起きてるかい?」

 

古びた木製のドアをこづく音は寝ぼけた己の意識を速やかに覚醒へ導いた。

 

「おはようございます、婆様。」

 

扉を開いて起床の挨拶をする。扉の前には眼鏡をかけた白髪の老婆が立っていた。己と共に暮らし、面倒を見てくれている恩人である。

 

「先に教会へ行ってるよ。ゆっくりでいいからね。」

 

そう言って婆様は冬の名残で冷たい廊下を玄関のほうへと歩いていった。

ゆっくりでよい、とは言われたがいつまでも布団の中で寒さに抗していても埒があかない。どうせ寒いことに変わりはないのだから、少しでも体を動かしたほうがマシだろう。それに腰の曲がった婆様に教会の重い扉を開かせるわけにもいかない。己は布団を畳み顔を洗うと、婆様の後を早足気味に進む。

どうにか間に合ったようで、ところどころに錆の見える鉄扉を前に婆様は佇んでいた。

 

「毎度、ありがとうねぇ。でもこの老いぼれにわざわざ付き合わなくてもいいんだよ?」

 

こちらを慮るような声音である。婆様は自分の習慣、あるいは信仰が己の妨げになっていないか気にしているようだった。

しかし己に言わせれば、そのようなことがあるはずはなかった。己は婆様と共に手を組みながら静謐な時を過ごすのが好きなのだ。己を愛し育ててくれた婆様が何に思いを馳せているのかを考えるひと時が好きなのだ。

 

「さて、今日も感謝を込めてお掃除しなくちゃあね。」

 

この教会は己と婆様以外に訪れるものがいない小教会である。そのため管理は己たちの手に委ねられているのだ。

 

「婆様、残りは己がやります。先に家でお休みになられてください。」

 

小さな教会とは言っても、己らの家を上回る広さはある。なるべくは己が労働を肩代わりしてやりたい。

 

「遠慮しないでいいんだよ。婆様はまだまだ元気なんだからね。」

 

その証左であるかのような明るい声音にはこちらに気を遣わせないようにという配慮が見てとれた。そのようなものは必要ないというのに。

 

「それでは、掃除を終えて戻る己のために温かなスープをご用意していただけないでしょうか。」

 

「わかったよ。たくさん作っておくから、お腹を空かせてきなさい。」

 

己の意図を正しく汲み取ってくれたようだ。

婆様は、しょうがない子だねとでも言いたげに肩をすくめ、うちへと続く緩やかな坂をゆっくりと降っていった。

 

己はまず教会の外壁に這った蔦や草花を除去し、バケツいっぱいに汲んだ水で埃や汚れを洗い流した。教会の掃除も今となっては日課であるが、始めたばかりの頃は不慣れで一時間も二時間もかけていたものだ。

 

一人で教会の清掃を行うのはそれなりの重労働であり、寝起きの体を起こすのにはちょうど良い。本来なら毎日する必要はない清掃を行うのには、そんな打算的な理由もあった。

 

さて、これで清掃はあらかた終了である。

己は清掃用具を全て片付け教会の扉を閉じた。

先ほど婆様が降っていった坂を同じように進み、玄関で靴を履き替える。何時ごろからだったかは定かでないが、清掃後のランニングも己の日課であった。あまり婆様を待たせすぎるわけにもいかないので三十分程度にとどめているが、一度己の限界まで走り続けてみたいと益体もなしに思った。千里ぐらいなら、いけるだろうか。

 

首筋を汗が流れ落ちていくのを感じながら走る。毎日同じコースを走っていると、昨日とはほんの少しだけ違う景色を見ることができる。

ただそれだけのことで、充足感のようなあるいは生きる活力のようなものが湧いてくるのだ。

 

程よいところで道を折り返し、婆様が朝食を作って待つ家へと急ぐ。家に近づくにつれて良い香りが漂い、腹が焦れたように声を上げた。

踵を揃えて靴を脱ぎ、リビングの扉を開くと婆様がにこにこと微笑みながら己を迎えてくれた。

 

「さ、朝ごはんはお野菜のスープとトーストよ。手を洗ってきたら、食べましょうね。」

 

毎朝迎える光景が今日も訪れてくれた。ただそれだけのことが己には値千金のことに思える。

 

かつての己には大きかった椅子の背もたれは今の己の背を覆うには小さかった。それだけの日々をこの家と、婆様と共にしてきたのだ。

カチャリ、とカトラリーを動かす音だけが鳴っている。婆様も己も口を開かないが、居心地の良い時だ。

しかし今日はそれだけでは終わらなかった。優しく温かな味わいのスープを嚥下していると、婆様が口を開く。

 

「厳ちゃんもそろそろ、通う学校を決めないとね。」

 

ぴしり、と己の動きが一瞬固まるのを感じた。それは己が無意識のうちに避けていた話題だからであろうか。

 

「私は厳ちゃんの好きなところでいいからね。トリニティでも、ゲヘナやミレニアムでも。少し遠くには百鬼夜行や山海経もあるからね。自由に決めるんだよ。」

 

それは己を気遣っての言葉なのだろう。中学の際もそうであった。己が提示するもっとも近く、もっとも学費の低い学校を見て眉を顰めながら己の意思を問われたのだ。

 

結局、婆様の計らいで別の学校へ通うことになったのだが。婆様はあの時の己が心底に惹かれた学校への見学届と受験届けを提出していたのだ。

長年の付き合いか年の功か。婆様にはかなわない、としみじみ思わされたものである。

 

さて、そのようなことが一度あった故己は高校においては不要な遠慮を捨て去ることを決めている。まあ、特に迷うこともなければ面白みもない選択なのだが。

 

「己はトリニティに通いたいと考えています。如何でしょうか?」

 

「こりゃあまた近いところを選んだねぇ。好きで選んだのなら、私はそれでいいと思うわ。」

 

「百鬼夜行にも心惹かれるものがありましたが、そうすると婆様に会えなくなってしまうので…。」

 

己がそう言ったのを聞いた婆様は困ったような笑みを浮かべながら苦言を呈する。

 

「いい加減、私から離れることにもなれなくちゃね。…いつまでも一緒にいられるわけでもないのだし。」

 

痛いところを突かれた、というやつだ。確かにいくらなんでも己は婆様にひっつきすぎである。

ああ、客観視はできているのだ。活かしていないだけである。

 

そんな己の開き直りを見て婆様はさらに苦笑した。

 

しかし、婆様はそのような困ったような顔をしていながらもどこか嬉しそうで、寂しげだった。




とりあえず主人公くんはガタイがめっちゃ良いというところだけ決定事項です。
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