あまりに遅い投稿。俺でなきゃ見逃しちゃうね。
己の進路は頭の中でなんとはなしに定められていた。
トリニティを選んだ理由を強いて挙げるなら、婆様と同じ信仰を持つ者たちがいるからといったところだろう。
別にその者たちに会いたいわけでも会って何かしたいわけでもない。ただ、忘れることなく同じ信仰を掲げてさえいれば、いつでもどこでも婆様と繋がっていられるのだと己は考えていた。
それに、ゲヘナという高犯罪率の学区では婆様を心配させてしまうし、かといって才人集うミレニアムに入れるほど優れた知能は持ち合わせていない。
消極的な理由ではあるがトリニティは己にとって適した学び舎と言える。
「たしか明日にでも見学会があったわね。厳ちゃん、せっかくだから行ってきたらどう?」
渡に船、とまでは言わないが僥倖である。己は婆様の提案をありがたく受け取ることにした。
「そうですね。では、明日は一日トリニティにいることにします。」
「そうね。たまにはお外で美味しいご飯でも食べてきなさいな。」
「ええ、ついでに美味しいお土産も見繕ってきますよ。」
「あら、せっかくだから期待しておくわね。」
婆様はふわりと柔らかく微笑んだ。
それを見た己はトリニティに行く理由が一つ増えたな、などと思った。
朝食を摂り終えた己は、ランニングで汗をかいたのでシャワーを浴びることにした。。冷たい水には三月になっても未だ身震いしてしまうが、火照った体がクールダウンしていく感覚には言葉にできない気持ちよさがある。
さて、腹は満たされて体も清められた。
ならば次にするべきことは決まっているだろう。
そう、勤労である。もっとも学生の仕事は勉学という通説から己が外れることはないため、登校して自主学習に励むだけなのだが。
だが、己にとってはそれだけのことが少々難儀であったりする。具体的には電車の乗り降りの際に屈まなければならなかったり、座席を占領するのも忍びなくいまいち掴みづらい吊り革につかまらなければいけなかったり。
大は小を兼ねる、とはいうが必ずしもそれが当てはまるわけではないと己は身をもって学んでばかりなのだ。学校でも備品の机と椅子が小さくて少々窮屈である。
まあ、そんな不便など婆様の褒めの言葉と己を産み育ててくれた父母を思えばないも同然である。
しかし、学校というのは随分と退屈である。
周囲の喧騒を聞き流しながら教材に向かい合うだけの時間。先ほどからあくびを噛み殺してばかりである。
なぜなら己の学生生活は、一人で学び一人で弁当を食し一人で帰る。これの繰り返しであった。そうだ。包み隠さずにいうのなら、己には友人がいなかった。
己はそもそも口下手である。さらに言えば巨体と言って差し支えのない体躯をしている。それはこの学校、ひいてはキヴォトスにおいては珍しいことであった。
だが、それらは己の孤立の最たる理由ではない。
己の孤独の真なる理由は己が劣等であることであった。
己は生まれながらに補填の効かぬ欠落を抱えていたのだ。その欠落は絶対的で、それを持たない己は明確に異物であった。
まあ、少なくとも虐げられているわけではないのだから文句を言うのもお門違いだろう。
寂しくないなどとは、口が裂けても言えないのだが。
駄目だ。思考が良くない方にばかり寄ってゆく。今はただ机に向かって無心でいよう。
つまらないお勉強の時間は実に遅々とした速度で経過していった。窓の外を見やると、日は西へと帰ろうとしている。ああ、出遅れたか。もう少し早くに教室を発つべきだった。キヴォトスは物騒であるから暗い道を進みたくはないのだが。それに、こんな己と帰り道を共にしてくれるのは、あの沈みゆく日輪だけなのだ。
まあ、よいか。たまには暗く一人で帰るのも。
ああ、そうだ。婆様に帰りが遅くなると伝えねば。
スマホの画面をタップし、唯一登録された連絡先へと電話をかける。特有のプルル、プルルという電子音が薄暗い夜のトンネルにこだましている。
プツッ、と電話がつながったことを音の途切れが知らせてくれた。
「突然申し訳ありません、婆様。少々帰りが遅くなりますが、何か買って帰るものなどはありますか?」
「そうだねぇ…じゃあ、牛乳を頼めるかい?そろそろ切れそうでね。」
「承知しました。」
「暗いから気をつけて帰っておいで。」
心配をありがたく受け取りつつ通話を切る。
さて、買い物を済ませて早く帰ろう。腹も空いているし寒風で体が冷えたので風呂にも入りたい。己は少しばかり歩く速度を早めてスーパーへと向かった。
仔細なく買い物を終わらせ、自宅への道を寄り道もなしにまっすぐと進んでいるところにである。己の足を引き留めるかのように、やや遠くの方から喧騒が聞こえてきた。
「逃すかよ!お前ら、あいつを捕まえろ!」
「わー!ごめんなさーい!追いかけないでくださーい!」
騒ぎの正体は捕り物だったようだ。一昔前の不良のような格好をした女生徒たちが蜂蜜色の髪と瞳をした少女を追いかけている。その逃げ足はなかなかに目を見張るものがあるが、いかんせん多勢に無勢で分が悪いように見えた。事情はよくわからぬが、見て見ぬ振りをすべきではないだろう。若干の躊躇を振り払い声をかける。
「こんな往来で捕り物騒ぎとは、感心しないな。それも寄ってたかってとなればね。」
少女達の玉をころがすような声の中において低く太い己の声は際立ったのだろう。集団の視線全てが己の体を突き刺した。
「なんだぁ?てめぇ、あたしらの邪魔するってのかよ?」
傾いた白十字が書かれた黒マスクにポニーテールの少女が口を開く。
思ったよりも、ガラが悪かった。
「いや、それは事情次第なのだが。ひとまずは場所を移さないか?ここは迷惑になるだろう。」
「迷惑が怖くてスケバンやってられっかよ!怪我したくなきゃさっさと失せな!」
どうにも彼女らは冷静さを欠いているようである。ならば話す相手を変えるとしよう。
「そちらの貴女、なぜこのようなことになっているのだ?」
「え!?わ、私ですか?ええと、ちょっとブラックマーケットに来たら急に追いかけられて…」
もしかするとだが、自業自得なのではないか。そも、なぜブラックマーケットなぞに行くのか。
どう考えたって近寄るべき場所ではないだろう。
犯罪で真っ黒に染まった市場なのだぞ。だからブラックマーケットなのだぞ。
この時点で己の蜂蜜少女への不信感はかなり大きなものとなっていた。
しかし一方の話だけを聞いて断ずるのは良いとは言えない。なのでスケバン達からも話を聞こう。
「彼女はこのように言っているが、貴女方はなぜそのようなことを?」
「あぁん?そいつの身なり見りゃあ理解んだろ。さらって身代金を頂戴するのよ!」
真っ黒である。ガラというか、言動が全体的によろしくない。蜂蜜少女自業自得とも思ったが、隙を見せたとはいえ災難の方から絡んできたのではしょうがない。
「聞くが、手を引くつもりは?」
カチャリ、と手に持った銃を握り直す音がやけによく聞こえた。
「あるわけねーだろ。おら、お前も財布出せよ。」
「ほら、ジャンプしてみろよ。その手の荷物も見せろよ。」
彼女らの矛先が己にも向けられてしまった。まさしく藪を突いて蛇を出したというような状況だ。これでは蜂蜜少女と同じではないか。
「待て、我々は話のできぬ獣ではないのだ。話せばわかる。」
「問答無用!」
返答の叫びが届いた瞬間に己は亜麻色少女の手を掴んで走る。
こちらとしては問答有用で戦闘無用である。
是が非でもこのまま逃げ切らせていただこう。
「わわっ、ひ、引っ張らないでくださーい!」
ならば自分の足で走ってほしい。立派な足がついているのだから。
いやまあ、先ほどその足を止めたのは己なのだが。
「逃げるあてはあるかっ?」
少女がこのままあの集団を撒いてしまえるのだったら、己の助力は必要ないだろう。できることならここで離脱してしまいたい。
「ありませーん!」
どうやら己は彼女を見捨ててはならぬようである。
「ならばついて来い!」
己は頭の中にある地理を頼りにして彼女らから逃げ切るためのルートを定める。ブラックマーケットからはるばるやってきたあちらと比べれば、幾分かは己の方がここらには詳しいはずだ。
右へ曲がり横の小道へ、そこを抜けて廃工場へ。己と蜂蜜少女は止まることなく駆け続けた。今更だが、己より長い間走っていながらしっかりとついてきたというのは大したものである。
そうして漸くのことである。己らは彼女達から逃れ切ることができた。とんだ災難ではあったがお互い乗り越えることができて何より。その思いで彼女を見やると、その髪より少し濃い色の瞳と目があった。
「これに懲りたら、ブラックマーケットには行くべきではないだろう。」
自分から首を突っ込んだとはいえこれくらいの小言は許されるだろう。
「あう…すいません。本当に、助かりました。」
「ああ、帰り道には気をつけたまえよ。それではな。」
目的は達したのでお互いここで別れるべきだ。それなりに遅い時間であるし、婆様もきっと心配していることだろう。それに牛乳を早く冷蔵庫に入れてやりたい。
「…」
しかし、立ち去ろうとする己を蜂蜜少女は何か言いたげにしながら見ている。何か言わねばならぬことがあっただろうか。
「あの!お名前を教えてくれませんか!」
己が考えている間に彼女は意を決していたのか、なんとも気合の入った張った声で己に名を問うた。
それが己には、なんだか可笑しく思えた。
ああ、己は名も知らぬ相手と共にあのような珍事を共にしたのか。まあ誘拐されかけていた彼女からすれば珍事どころの話ではなかったのだろうが。
「ははっ」
「えぇっ!?な、なんで笑うんですか!?」
ああ、すまない。馬鹿にしたつもりは決してないのだ。
心中で軽く詫びる。
「それでは遅ればせながら名乗らせていただこう。己は篝厳という。好きなように呼んでほしい。それで、貴女の名は?」
「私は阿慈谷ヒフミです。今日はありがとうございました!厳さん!」
彼女、阿慈谷ヒフミは明るく笑みを浮かべて己の名を呼ぶと、それきりで己の前を走り去っていった。
己はなんとなく、その背が消えるまで見送り続けた。
なんとなく、この出会いは後にも続くのだろうと思いつつ、己は自宅へと走るのだった。