起床。
時計の針は6時と半ばを指している。
昨日にあのようなことがあったからか、いつもより少し遅い時間だ。
思いの外、疲労が溜まっていたらしい。
おそらくは精神的なものがほとんどであろうが。
・・・
さて、今日は土曜日である。
そしてトリニティ総合学園の見学会、オープンスクールの日でもある。
明日は安息日であるゆえ、己としては今日であってくれて助かった。
それにいつもの土曜と違い、トリニティで物見遊山もできることだし。
教会の掃除も明日に行うとしよう。
日課ではあるが、ノルマではないのだ。
一日くらいなら空けたとしてもそう汚れることはない。
己の身の丈に合うよう作られた特注の制服を身につける。
学校のない日に制服を着るというのも、なんだか普段は味わうことのない感覚である。
一週間に五度も袖を通すのに、むしろ浮足立つ。
おかしな話だ。
ここからトリニティまでは徒歩で向かうことにした。
電車一駅分しか離れていないし、日課のランニング代わりにちょうど良いと考えたから。
しかし電車を使わぬ分、己は家を早くに出なければいけない。
そのため朝食はトリニティについてからすませることにした。
額の僅かな汗を拭い、息を整える。
未だ朝は寒いため、汗をかきづらいことが幸いした。
運動にも耐えうる作りの制服にはほとんど汗がついていない。
流石に汗まみれになるわけにはいかないのだ。
その程度の常識は持ち合わせている。
心拍を落ち着けるためにゆっくりと歩く。
何か良い店はないか、と辺りを見回すと一つのスイーツ店が目に入った。
淡いオレンジ色の光が薄暗い朝の景色を照らしている。
ショーウィンドウに並ぶ商品の数々は思わず垂涎してしまいそうなほどに綺麗で、己の食欲を存分に刺激した。
己は直感的にここを気に入った。折角だから朝食がわりにいただいていこう。
菓子で腹を満たすというのはなんとも贅沢であるが、今日という一日ぐらいは許してほしい。
そのように己に言い訳をしつつ扉を開き店内へと入る。
誰への言い訳か。
自分自身でもわからないままに心のなかで頭を下げた。
明るすぎない暖色の照明に包まれている店内は非常に趣深い。
ある種の高級感を感じさせる雰囲気に、流石はトリニティ自治区の店だと感心を覚えた。
「こちらのアップルパイと、ロールケーキをもらえるだろうか。ああ、そうだ。飲み物に温かい紅茶をお願いしたい。」
ガラス棚に並べられた商品を指差し店員のオートマタに伝える。彼、或いは彼女はモニターに笑顔の表情を浮かべながらテキパキと商品を取り出した。
「店内でいただいていかれますか?」
「ロールケーキだけ包装していただきたい。」
アップルパイもロールケーキも、スイーツとはいえそれなりにサイズがある。
なのでロールケーキは昼食か間食にいただきたい。
「かしこまりました!お飲み物と商品はお席にお持ちいたします。お席でお待ちください。」
会計を済ませたのち、店員の指示に従いテーブル席に腰掛ける。少しばかり財布が軽くなった。
これはトリニティ自治区内の他の店にも言えることだが、良い店であるが故に懐に優しくはない。
甘味への期待で膨らんだ胸が、その事実に少しだけ萎んだ。
・・・
ふと、空を見上げる。
太陽は最も高いところまで登っており、昼時であることを教えてくれる。
つまり、そろそろ食事の時間である。
己は楽しみとして取っておいたロールケーキと、自販機で購入した熱い珈琲を手に学園内を彷徨っていた。
先に言っておくと、断じて道に迷ったというわけではない。
ただ食事をするのに丁度良い静かな日の当たる場所を探しているだけのことである。
戻るべき教室の位置は、覚えていない。
噴水の前に置かれた長椅子に腰掛け、包装から取り出したロールケーキを一口食む。
ふわりとした食感となめらかな濃いクリームが舌を刺激する。
舌から名残が消える前に珈琲を口に含んだ。
高級なロールケーキに釣り合わない、悪くいうと雑多な苦味が口の中に広がるが、それがギャップとしてロールケーキの上品な甘みを引き立ててくれる。
我ながら良い買い物をした。
朝に食したアップルパイも頬が落ちるほどに美味であったし、紅茶の温もりと香りは寒さに悴む体をほぐしてくれた。
懐が許すのならばきっと常連に名を連ねることになるだろう。
己は頭のなかで十露盤を弾きながら舌鼓を打つ。
そうだ土産としてあの店でロールケーキを買うことにしよう。
婆様もきっと喜んでくださるはずだ。
陽の眩しさに目を細めながら残りのロールケーキと珈琲を口に運んでいると、横から声をかけられた。
「ふふ、それはあの名店のロールケーキですね。良いセンスです。愛を感じます。」
亜麻色で艶やかな美しい髪をした少女が、妙に得意げな顔で講釈を口走っていた。
はて、面識はないと思うのだがなぜ唐突に話しかけられたのか。
「…失礼ながら、名前を伺っても?」
「あ、す、すいません。私としたことが、つい同好の士を見つけて舞い上がっていたみたいです。私はトリニティ総合学園所属の桐藤ナギサ、と申します。」
「先輩にあたる方でしたか。先程は無礼な物言いをしてしまい申し訳ありません。己は篝厳といいます。春から、こちらに通うことになっております。」
同好の士とはなんのことかと問いたいところではあるが、それ以上に在学生であり先輩であるという事実から目が離せなかった。自然と肩に力が入る。
「桐藤様は、ロールケーキがお好きなので?」
目上に対して失礼に当たらぬようどうにか絞り出した言葉はどこか珍妙なものだった。
しかし、己の差し出した話題に彼女は想像以上に勢いよく飛びつく。
「ええ!それはもう!いいですよね、ロールケーキ。無駄な飾りのない丸みを帯びたフォルムに優しく上品な味わい。紅茶と並んで私の大好物です。」
「紅茶も好まれるのですね。己はそちらの方にはとんと無頓着なもので、このようなもので満足してしまうのですよ。」
「ふふ。そのような素朴な味を遺憾なく楽しめるのも、食においては美徳だと思いますよ。」
あの異様な熱量はロールケーキにのみ向けられているようだ。珈琲にはとんと靡かない。
まあ、何から何まであのように全力というのも疲れるのであろう。
いや、そんなことより、今日は土曜日であるはずだが何故彼女は登校しているのだろうか。
「本日は休みではないのですか?」
「本当なら休みなのですけどね。立場上、顔を出さないわけにもいかないんですよ。」
そう言って彼女は少し疲れたように嘆息する。
口ぶりからしてオープンスクールの運営に携わっているのだろう。
つまり、己が今こうしていられるのは彼女のおかげというわけか。
その後しばらくの間彼女は己に愚痴のようなものをこぼしていたが、ハッとした表情になると残りを押し込めるようにして黙ってしまう。
お互いにどこか居心地が悪いような、いたたまれない空気が流れる。
少し、仕切り直そう。
己はベンチから腰を上げ、すぐ近くに設置された自販機へ小銭を投入した。
そして、ガコンという音とともに吐き出されたスポーツドリンクのボトルを彼女へ手渡す。
「お疲れのようにお見受けしましたのでこちらを、と。オープンスクールを開いていただいたお礼も兼ねまして。不要かもしれませぬが。」
彼女は少し困ったような顔をして己とスポーツドリンクの間に視線を往復させる。
良かれと思ったことが裏目に出てしまったようだ。
申し訳ない。
まさか困らせてしまうとは思わなかった。
不要であればすぐにでも処分しよう、その旨を伝えようと口を開く前に言葉が返された。
「ありがたく、いただきます。…貴方だけですね。私を労ったのは。」
「己は偶然、気づける機会を得ただけのことです。立場が同じならば己以外も皆、同じようにしたでしょう。」
「そうかもしれません。それでも今ここで私にそれを示してくれているのは貴方です。」
彼女は乳白色の瞳で真っ直ぐと己を見据えていた。
それがなんだか恥ずかしくなってしまい、己は目を逸らして足元の蟻を数える。
「篝さんはオープンスクールに来たのでしょう?どうですか?トリニティは。」
キュッと喉の奥が締まる気がした。
突然の質問に己は返答に窮する。
何を言うべきか。どのように言うべきか。どこまで言うべきか。
「そうですね。皆が信心深く、秩序を重んじる校風であるというのは良いことだと思います。しかし、」
そこで言葉を止める。
当然、彼女は続きが気になったようで飲み込んだ言葉を催促された。
しかし、この先は言うべきではない。
自制の意思を固く持たんと、己は膝の上で拳を握った。
きっとこれを言った時、彼女の気分を害してしまう。
何を愚かな、なんと醜い。
桐藤様にそんな思いはさせたくない。
なにより、そのような目を彼女に向けられるのはとても恐ろしいことだった。
そんな己の機微を悟ったのだろうか。
彼女はどこまでも澄んだ瞳で己を見据える。
琥珀のように輝く彼女の瞳に写った己の顔は、自分でも直視しえぬほどに歪んでいた。
握りしめた意思が、緩む。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。
堪えようと口をつぐんだが、それは無駄な足掻きだった。
無様だ。愚かだ。惨めだ。
どうやら気付かぬうちに自分でも相当まいっていたらしい。
ズクリ、と深奥で何かがひどく痛んだ。
決壊した。
濁流が、零れた。
「悪いのは己だと理解しているのです。このような形をしているのですから、仕方ないことだとは思うのです。けれど感じずにはいられない。向けられる奇異と、侮蔑の目を。」
それは一体何故なのか。答えは単純である。
他に類を見ない醜い骨肉の塊であるこの体。
ヘイローを有しておきながら何故か持ちえぬ神秘の力。
その何もかもがトリニティ、キヴォトスにおいて異常であった。
きっと、彼ら彼女らに悪意はないのだと思う。
少なくとも今日半日の間、忌避はされても害を加えられることはなかった。
それでも、耐えきれぬ思いは己の中で滓のように沈み積もっていた。
これまで我慢して押さえつけていた思いが溢れる。
きっともう、ずっと前から限界だったのだろう。
我慢の一つも利かせられない己は、戯けた瓦落駄のようだった。
彼女とは初対面であるにも関わらず、口から出てくるのは鬱屈としたつまらぬ話ばかりだ。
嫌になる。
己の弱さと、この醜さが。
いつのまにか己は滔々と、くだらぬ自分語りを始めていた。
「己には神秘の力がありませぬ。幼い頃にかかった医者は原因不明、理解不能と匙を投げました。それは周囲から見て、ひどく不気味にうつったのでしょう。」
どうにか心を宥めようと、震えながらに息を一つ吐いた。
それでも口は止まらない。
「両親のいた頃は、それでも平気でした。でも、拠り所を失った己はてんで駄目な人間だったのです。縁あって拾っていただいた後も己は怯えながら生きてきました。」
彼女は己が全てを吐き終えるのを待つようにじっとこちらを見つめている。
「或いは、図体に見合わぬこの小心こそが己の劣等で醜悪たる所以なのかも知れませぬ。」
「生まれてくるべきでは、なかった。」
これ以上の言葉は己の中に何一つなかった。
全てを吐き出して、この図体は空っぽになってしまった。
苦笑すらも出てこない。
己の中に渦巻いていたのはこんなにも冥々としたものばかりだったのか。
何たる醜悪。
生き恥。
暗愚。
己にはもはや、隣に座る亜麻色の少女を直視することさえかなわなかった。
申し訳ない。
本当は、こんなはずじゃなかったのに。
楽しかった、嬉しかった。ありがとう、と良きものだけを伝えるつもりだったのに。
幻滅しただろうか。
己を疎んだのだろうか。
彼女が怖くてたまらない
。顔を上げていたくない。
己はただ陰鬱と、暗い悲しみに耽溺するのみであった。
せめて。
どんな罵倒も、苦言も受け入れよう。
元より拒む権利などないのだから。
己はそう弱き覚悟を固めた。
「私が、あなたを救ってもいいですか?」
しかし、桐藤様はそんな覚悟を切り捨てるような毅然とした声音で己に宣誓をした。
耳を疑った。
次に、都合のいい幻聴かとこの頭蓋を疑った。
「篝さん、いえ、厳さん。どうか、そのように自分を卑下なさらないでください。そして、約束してください。来るべき入学式の日、貴方が我が校の門をくぐると。」
それでもその言葉は。
隣の温かさは健在で。
彼女は言葉を切り、一つ息を吸った。
「私も約束します。貴方が楽しめる学園を、安らぎを享受できる場所を作ると。だから、どうか悲しまないで。」
そっと、桐藤様が己の手を取る。
やわらかに、繊細に、たおやかに。
彼女の手は割れ物を扱うようでありながら確かな慈悲を感じさせた。
その優しさに、己は泣いてしまいたくなった。
こんな醜男を救ったところで貴女に何の利もないというのに。
それなのに、何故。
何故、出会ったばかりの己にこんなにもよくしてくださるのか。
己にはそれがわからない。
視界が揺らぐ。
頬に熱い雫が流れた。
しゃくりを上げそうになるのを、必死に我慢して顔をぬぐった。
ぐちゃぐちゃだ。
何も見えていない。
何もわからない。
だが、それでも確かなことがあるとすれば。
優しいその手がとても暖かかったということだけは、きっと生涯忘れない。
ナギサ様のエミュが下手くそ?そう言わないでくれ。
ティーパーティー着任前の比較的フリーダムなナギサ様なら年相応の可愛らしさがあると思うんだよ、俺は。