「とんだ、お目汚しを。申し訳ございません。」
彼は大粒の涙を拭いながら恥ずかしそうに、それでいてどこか救われたように言葉を紡いだ。
そんな光景を目に収めながらぼんやりと思う。
私は本当に彼を救えたのだろうか、と。
彼を見た時。
ベンチに座る彼の体に、重くて冷たい枷が嵌められて行くのを幻視した。
私は思わず声をかけてしまっていた。
正直なところ、見たこともないようなその巨躯に尻込みしなかったわけではない。
それでも実際に話してみると、面白いほどに会話は弾んだ。
彼は朴訥な人だ。
言葉の意味を噛み締めるようにしながら、ポツリポツリと話す姿が妙に印象に残っている。
今思うとその口下手な様子は私を気遣ってのものなのではないかと思う。
彼の言葉選びは人を傷つけないためのものに思えた。
目に映らない誰かにさえも、その配慮は向けられていた。
それは言葉に限った話ではない。
隣に座る私に目線を合わせようと、首をすくめ、背を丸める彼は亀のようにも見えて内心で笑ってしまった。
でも、心の冷めたところが呟く。
そんなのは、生きづらいだけだろうに。
ああ、そうだ。私が彼に見た枷はこれなのだ。他者の目と言葉が。何より彼自身の誰かへの優しさが、彼に涙を流させたのだ。
それがなぜだか、私にとっては絶対的に許し難いことだった。
優しい人間が、その優しさに苦しめられる。
それは果たして正しいことなのか?
優しさが苦しみとなる世界。
それは果たして楽園なのか?
気づけば私は、普段だったらありえないような大言壮語を吐いていた。
貴方を幸せにすると。
貴方のための楽園を作ると。
とんだ笑い話だ。これではまるで、夢見がちな小娘の告白のようではないか。吐いた唾は飲めないが、自分の発言を冷静に鑑みると思わず赤面しそうになる。
きっと今日の夜にはベッドの上で羞恥に悶えているのだろう。
嗚呼、でも。
それでも、よかったと思う。
私の言葉は彼を泣かせてしまったけれど。
救われたような顔で涙を流す彼を見て、私はそれを守ろうと思った。
・・・
「さて、もうお昼休みも終わりですね。厳さんは午後の予定はどうされます?」
己が落ち着くまで優しく待っていてくれた彼女は、己に予定の有無を尋ねた。
「悩んでおります。」
己は自身の内情を隠すことなく率直に答えた。
「本来ならば、午前同様この学園の見学を行ったのですが。今はそうもいきそうにありません。」
「心の整理の時間が欲しい、ということでしょうか。」
「それすらもわかりませぬ。ただ、今は少しだけ休みたい。」
桐藤様は己の言葉を聞き、顎に手を当てて思案する。
ああ、まずい。そういえば桐藤様はこのオープンスクールの運営に携わっているのであった。その目の前で堂々と不精を晒そうとするなど咎められても仕方がない。
そのことに遅まきながらも気づき、頭の中で言い訳を巡らせるがうまくまとまらない。
そう焦ることでないと言われるとそれまでだが、いくつになろうと人に叱られるのは嫌なのである。
何はともあれ、ひとまずは誠意を込めた謝罪であろう。
「桐藤様、誠に」
「それでは私もサボってしまいましょう。」
己の言葉を遮って、彼女はそんなことを宣った。
「へ?」
「そもそも仕事を押し付けられて辟易としていたところですから。少しくらいは許されるでしょう。」
それが己のためであることに気付かぬほど、己は鈍い人間ではないつもりだ。故に、謝罪の言葉を飲み込んだ。
「桐藤様、ありがとうございます。」
「ふふっ、感謝されるようなことはしていませんよ。それでも恩を感じるというのなら、いずれ返していただければ結構です。」
気にするな、というように彼女は笑う。いずれ返せという言葉もきっと、こちらが重荷に感じぬようにとのことだろう。つくづく、彼女の優しさに救われている。
今はその優しさに甘えよう。
「さて、サボるにしても学園内じゃバレてしまいますね。ひとまずどこかへ歩きましょうか。」
彼女の誘いに従って己は彼女の一歩後ろを歩く。座っていた時にも増して低い位置にある彼女の頭には、艶やかで流れるような亜麻色の髪が揺れている。
「今更ですが、厳さんはとても大きいのですね。」
肩越しに振り返る彼女の顔には何の含みもなく、ただただ純粋な感想としての言葉だということがわかる。
「ええ。それで苦労もしてきましたが、こればかりは己を産み落とした両親と、育て上げてくれた婆様に感謝するばかりです。」
「ご両親とお婆さまのことが、大好きなんですね。」
桐藤様はそう言って笑う。
己は何だか気恥ずかしくなって俯いてしまう。
だがそれだけではない。
桐藤様の言葉に、ふと己を再見したのだ。
己は本当に両親と婆様を愛しているのか、と。
論ずるまでもないことだ。子供というのは親を愛するものである。生みの親も、育ての親も区別なく愛することこそが、子供にできる孝行だ。
だから子が親を愛さないことなどあっていいはずがない。
「愛されたのだから、愛しております。」
熟した思考の割に返した言葉は端的だった。
それ以上の言葉は不要?いや、そんな潔い話ではない。
正しく答えるには何もかもが足らなかった。それだけのこと。
故に己に返せた言葉は、そんな陳腐な当たり前の理屈だけだった。
・・・
行き先なら、己はうってつけの場所を知っている。心を落ち着け、自分と向き合うには最適な場所を。まあ、ここからでは少し遠いかもしれないが行けないほどではない。
そんな思考を巡らし彼女へと誘いの言葉を投げかけた。
「己に提案があります。教会へ、共に行きませぬか?」
「え!?」
この言葉が原因でのちに口下手だの舌足らずなど散々な呼ばれ方をするのだが、それは置いておこう。
桐藤様は己の提案を受けてひどく狼狽された様子だった。なにか教会に不都合なことでもあるのだろうか。
「お困りのようでしたら、もちろん断っていただいてかまいませぬ。」
「い、いえ、私が勝手に慌てただけですから、お気になさらず。……なかなか大胆ですね」
よくわからない評価を受けた。まあ、胆力を誉められたのだからそう悪い気はしない。その褒めは喜んで受け取っておこう。
「それでは厳さんがお勧めされる場所へ行きましょう。お手並み拝見、ですね?」
彼女はふわりと柔らかい、それでいてどこか挑戦的な笑みを浮かべていた。
「そう期待されても困りますが、きっと気に入っていただけるかと存じます。」
「それは楽しみですね。ところで、ずっと気になっていたのですが厳さんは百鬼夜行か山海経の方にお住まいになっているのですか?言葉遣いや立ち振る舞いがそちらのものに近いように思います。」
「いえ、昔は住んでおりましたが今はトリニティ自治区の郊外に住んでおります。」
今朝もくぐった改札に、再び定期券を通して通り抜ける。何度繰り返したかわからない動きは、当然淀みも滞りもないものだった。しかし、どうやら桐藤様は普段駅を利用されないようで、少し不慣れな様子であった。少し不安そうにしながら改札に切符を通す様子は、彼女には悪いが可愛らしいものだった。
さて、あそこへに行くには電車で一時を要する。
空いた車内で彼女は座り、己はつり革を掴んで立っている。
相も変わらず低すぎるつり革だ。わざわざ背を丸め、膝を曲げなければつり革を吊るす棒に頭がぶつかってしまう。
電車に乗ると毎度の如く思うが、もう少し天井を高く、車体の幅を広くはできないのだろうか。いや、一般的な人の身体のサイズに最も適切なのが今の車体のサイズではあるのだろうが。
そんな己の窮屈を見破った桐藤様は、己の横をポンポンと叩いた。座れということだろう。
「そもそもなぜ立っているのです?シートはほとんど空いていますよ?」
彼女の質問はもっともである。実際、わざわざ立つ理由は一つもない。
「己の体は大きいですから、座ると余分にシートを占領してしまいかねないのです。それを避けるため、普段は立つことにしているのですよ。」
ポリポリと頭を掻きながらよくわからない弁明をするが彼女は変わらず隣を示している。
「ならばなおさら座ればよろしいじゃないですか。今は私たち以外この列車にほとんどいません。気を使う必要はありませんよ。」
その言葉はもっともであるし反論の余地も必要もないものであったが、なんとなくにそのまま座るのは気が引けた。
というよりむしろ、今更になって先ほどのことがひどく恥ずかしくなってきた。
そうだ。あまりに恥ずかしくて、似合いもせぬ赤面を晒してしまいそうになる。
誰かの前で涙を流すなど、もう二桁年は縁のないことだった。
それだけではない。
己は一体、彼女に何を吐き出した?
どれだけ醜く、情けない姿を晒した?
それを思うと、とても彼女の隣に座ることなどできない。
最早今この瞬間にでも顔を覆って、脱兎の如く駆け出してしまいたい。
それを阻むのは、わずかばかりに残されたなけなしの面子ゆえであろうか。
いやそんなことはどうでも良い。
全くもって良くはないが、今はひとまず置いておく。
それよりも今は、如何に丁寧に当たり障り良く、婉曲的に彼女へ己の意思を伝えるかのほうが重要である。
つまるところ、己は過去のツケによって今現在に不得意を強いられているわけなのだ。
最大の敵は過去の自分自身、とはよく言ったものである。いや、きっとこんなつもりで言ったわけではないのだろうが。
ともかく、なんでも良いから言葉を紡がねばなるまい。さあ、篝厳よ、ない知恵を振り絞れ。ぐるぐるぐる、頭を回せ。きっとあるはずなのだ。この状況を打開する、魔法のような言葉が。
「お、お許しを。今は、少々気恥ずかしく、こうして頭を冷やしていたいのです。」
魔法などなかった。
「…一体、何を恥ずかしがっているのでしょうか?とても、気になりますね。」
「き、桐藤様?」
「あれだけお互いに腹の中を晒して、なお恥じるようなものを抱えている、ということですか?」
「い、いえ、そのようなわけでは」
「初対面の淑女を教会へ連れ込もうとしておきながら、今更何を恥じるのです?」
己はこの女の瞳の中に、牙を剥き出しにした餓狼のような、あるいは悪戯好きの子猫のような輝きを見た。
「…」
桐藤様が何をお思いになっているか、己にはさっぱりわからぬ。しかし、少なくとも下手な口をきくべきではないと勘が囁いていた。
つまるところ、己にできるのはただ無言のまま、桐藤様の意に従うことだけだった。
己のか弱き抵抗の意志が、ふみおられた瞬間である。
「ふふっ、ええ、それでいいのです。私の隣に、ね?」
「…はい。」
「うふふっ、少しいたずらが過ぎましたか。どうです?お詫びに膝をお貸ししますよ?」
「…はい。」
「えっ?」
彼女に言われるがままに下した首肯に、桐藤様は困惑の声を漏らす。
その顔ばせには、先のような肉食の獣は見られなかった。あるのは年相応の、それでいて少し大人びた少女の様相である。
ああ、なんとも可愛らしく、あどけない顔をするものだ。
己はその様子を見て、表情を変えぬままに腹の中でほくそ笑む。どうやら己が仕掛けた小さくささやかな復讐は無事に結実したようである。これならばいじめられた甲斐もあったというものだ。
「もちろん、冗談ですとも。このような重荷を背負わせられようはずがないですから。」
己がそう取り繕うと、桐藤様は少しだけ憮然とした顔をしてプイとそっぽを向いてしまった。
その様子がなんとも子供っぽくて、己は口元が緩むのを誤魔化すのに苦心せねばならなかった。
ここで笑ってしまったのなら、当分は頭を下げ続けることになってしまう。
彼女は己のその様子をじっと見つめた後、一度だけぽかりと肩を叩いて「わるい人。」と呟いた。
なるほど、全くその通りである。