「そもそも"気"ってのはなんだろうな」
左手で覆われたままの阿含の顔から、淡々と言葉が漏れる。
「自分の身を守り、相手を壊す生命エネルギーってんなら――」
その瞬間。眼窩を覆っていた闘気が、損傷した細胞へと干渉する。
失われた機能を補い、途絶えていた生命活動の連鎖を再び繋ぎ直していく。
損なわれた状態を読み取り、そこから逆向きの作用を与える。
それこそが、阿含のたどり着いた新たな"答え"だった。
「壊す前の状態を復元することだって、できるはずだわな」
気を練り、巡らせ、肉体の限界を超える。
梁山泊の師匠達ならそれくらいやってのけるだろう。
知識が加われば、秋雨の様に医療術で瀕死の者を救う事だってできる。
だが、失われた器官の機能を取り戻すとなれば話は別。
生命の在り方そのものに手を加える、まったく異質な領域だった。
やがて、阿含がゆっくりと右手を下ろす。
そこには、真っ二つに切り裂かれたはずの左眼球が、確かに存在していた。
誰もが言葉を失う中、阿含は脳髄に残滓として宿る痛みと倦怠感に苛まれながらも、小さく瞬きする。
そして、両眼でその場の人間を一瞥する。それだけで、失明したはずの阿含の左目に光が戻った、と確信させるには十分だった。
「まさか……そんなことが……!」
「あ……ああっ……」
美羽、そしてケンイチは理外の現象を見せつけられ、ただただ絶句するしかない。
だがこの日、2人が真の天賦とは何かを思い知るのは、まさにこの後だった。
「ぶっつけ本番で、しくじりゃ脳の血管イカれるだけで空振るギャンブルではあった。ここまで追い込まれたのはあまり記憶にねぇ」
そこであえて阿含は言葉を区切る。
実際に払ったコストはそれだけではない。
失われた細胞を復元させるため、寿命の一部をコストとして差し出していた。
更に修行と研究を積めば、このコストも踏み倒せるだろうが、それはまだ遠い先の話だ。
抑揚無く語る阿含はいつの間にか、地に縫い付けられる様に倒れ、動けぬケンイチの前まで歩を進めていた。
立場上、一時的に対立関係となってしまった美羽も、阿含の一挙手一投足をただ注視するのがやっとで、制止ができない。
人はあまりにも自身の理解を超えた存在を前にすると、合理性よりも好奇心が勝ってしまう。
今の美羽は、阿含が次に起こすアクションが気になって仕方がない。
「いつからだろうな。最後はお前からって気が前々からしてたんだ」
数々の武術家を理解,学習,成長の材料として取り入れた解析の力が、今初めてケンイチへ向けられる。
才能の欠片も無い少年が、時には死にかけ、命を賭け、魂をすり減らした。
そんな積み重ねの末に得た至宝の力が、高速回線で100円アプリをダウンロードするかの様にあっさりと、無情に阿含へと取り込まれていく。
"対等以上の条件で戦い、勝利する"という阿含が自身に課した発動条件の下、
阿含は昂る心を鎮め、確認作業を行うべく得た力を冷静に奮う。
「"気の掌握"」
ただ発動しただけで、周囲の生命体を警戒,威圧する気の暴威。
敵味方問わず、その場に居た人間は即座に確信を抱く。
金剛阿含はこの日最後にケンイチの力を取り込み、達人級へと成り上がった──と。
「う……ぐッ……」
「ケンイチさん!?」
ただ眼の前で行われる御業に驚くことしかできずにいたケンイチが、苦痛に呻く。
慌てて駆け寄り様子を伺った美羽は、ケンイチの容態が思いの外重い事に気付き、己の考えの甘さを恥じる。
阿含の攻撃は峰打ちだったとはいえ、如何せん気の力があまりにも強大過ぎた。
常人を遥かに凌駕するケンイチの耐久と装甲を貫き、脇腹を深く損傷させていた。
傷を負わせた張本人である阿含は、悶えるケンイチの横に跪きそっと損傷部位に手を添える。
「"流水制空圏"」
阿含とケンイチ。
才能も、性格も、歩んだ人生も。
相反する属性と言って良い、2人の武術家の気が緩やかに同調していく。
完全に絡み合うと同時、ケンイチの身体は自身の細胞,血液を取り込むかのように、阿含の気の侵入を快諾した。
やがて、ケンイチの全身を襲う激痛と不快感が、徐々に薄れていく。
「阿含君……こ、これは……」
「オレの気をはめ込んで、損傷した部位の機能を一時的に代行させた。
おめーが下手に動き回らねえ限りは、鎮痛,止血,自然治癒効果も継続する。あとは自分でなんとかしろや」
"パリン"──
何処かで、何かが決壊する音がした。
それは風林寺美羽という、武の天禀を授かった少女が今まで培った武術観念であり、
白浜兼一という少年のメンタルが崩れた音でもあった。
阿含が披露した反転術式と、ケンイチから学び解析した流水制空圏。
これらはまだ点と点の技術でしかないはずだ。
だが、阿含はきっと試行錯誤と修行を重ね、この二点を線で繋ぐだろう。
(もしも阿含さんが
武術の概念が。
活人,殺人という既存の武術理念すら揺るがしかねない新世代の達人の誕生に、美羽は身震いに全身を強張らせ──
(全てにおいて……上を行かれてしまった……)
そして、自身の隣で精神的な打撃を受けたケンイチに気付く。
阿含は殺人拳の道を進もうとしている。
しかし、その阿含がケンイチを救い、彼の能力を理解し、活人拳の技術すら自分のものにして他人を救ってみせた。
己が守ってきた信念の外側にいるはずの阿含に、理想の一部を容易く再現されてしまった。
どれほど完璧に打ち負かそうと。
ケンイチが死に物狂いで習得した技をあっさり模倣し、圧倒的な才能を見せつけようと。
仮に心の臓を止め、命を奪ったとしても。
白浜兼一という武術家の心を折ることはできない。
だから阿含は勝利を収めた上で、ケンイチを救い活人拳のあり方そのものを、問い直した。
それが決定打となり、ケンイチの活人拳としての魂が、この場における敗北を受け入れてしまう。
すなわち、この後仮に阿含が島の住民を大量虐殺の暴挙に打って出るとして。
仮に自身が無事だったとしても、それを止める強固な信念が揺らいでしまった。
(阿含君を止めることが出来なかった。これがボクの……活人拳の限界なのかっ……)
どんな強敵に敗れ去ろうと。
どんな恐ろしい殺人拳と接敵しようと。
ついぞ折れる事の無かった鋼の信念にヒビが入る。
と同時、ケンイチの視界はグラリと暗転し、意識は眠るようにブツリと途絶える。
その直前、どこかで聞いたことのある声が脳裏に鳴り響いた。
『おい、白浜兼一……。お前はこの程度で終わるのか?』
***
「あらゆる強敵、災害、紛争を乗り越え超人の域に辿り着いた。小国程度なら、この身一つで滅ぼせる程の……世の支配者とも言える武力を手に入れた」
ただ斬撃を振るっただけ。
それでもその太刀は、フィクションの世界に登場する、高振動粒子ブレードの如き架空兵器の威力を誇る。
直撃すれば達人でも即死は免れぬ、世戯の一撃は隼人の手甲に阻まれ、鍔迫り合いが激しい火花を生む。
障害物一つ無い空き地の中央で、超人同士の死闘は未だ膠着していた。
「だというのに、久遠の落日がいざ始まれば己の意思で決闘もできぬ、駒の一つでしかない……。貴公とは万全の状態で死合ってみたかったが……」
隼人とジュナザードの漁夫の利を狙う形となってしまったことに、世戯も武人としてのプライドから思う所があるのだろう。
その心中を察するように、隼人が微笑む。
「お互い超人の身まで登り詰めても、ままならぬものじゃな世戯殿。
これも戦場の定め。卑怯とは言うまいよ」
「……嬲る趣味はない。そろそろ一思いに涅槃へ送って進ぜよう」
スタミナ、ダメージ共に限界が近い隼人は防戦に徹するのがやっとで、世戯を倒すほどの力は残っていない。
それこそ世戯がコンマ数秒気を逸らす程の致命的な油断でもしない限り、逆転など不可能だろう。
それは世戯本人も重々承知の上。
こんな勝ち方をしたところで誇れるわけもなければ、負ける恐れもないただの虚無作業だ。
ならば早々にこの勝負を終わらせるべきだ、と奥義の解禁に打って出る。
世戯の剣気がみるみる内に膨れ上がる。
遠方から戦いを見守っていた新島は、生存本能を脅かされ物陰から一人震え上がっていた。
真剣
超人として同じ終着地に辿り着いたが故、隼人の奥義と同じ性質。
あらゆる要訣を孕んだ八種の必殺剣が世戯から撃ち込まれる。
「む……おおおっ……!」
一撃一撃が、特A級達人の生命をも脅かす理不尽な破壊性能を誇る八連撃。
隼人は咄嗟に手甲で前半の四連撃を捌き、残る四つの太刀を完全なる脱力により受け流すという荒業での対応を試みた。
奇策中の奇策が功を奏し、二撃まではどうにか凌いだ。
しかし残る二撃が右膝と左肩に吸い込まれ、重火器にも耐える隼人の強靭な肉体を食い破り、決定的なダメージを刻み込んだ。
隼人の行動にミスは無かった。
ただ世戯の剣気が想定以上に強く、脱力による回避を押し切っていた。
「ぬううっ……やはり完全には防ぎ切らなんだか……」
「なんと……臨戦態勢にありながら、母親に全てを委ねる赤子の様な見事な脱力……やはり貴公も超人級か」
勝負手を凌がれ、思わず世戯も隼人の技量に舌を巻く。
だが、本当にそれだけだ。
勝敗がひっくり返るわけでもなく、ただ決着が長引いただけ。
あと数十分もすれば世戯の全身に剣気が再充填し、また奥義を放てるようになるだろう。
「ここまで来れば奥義など不要だ。これ以上の蛇足は貴公への侮辱!」
既に隼人は特A級の達人でもなんとか喰らいつける程に衰え、満身創痍の状態。
勝ち確の状況でいたずらに敵を甚振る行為は、殺人剣の誇りに反する立ち回りだ。
一刀で仕留める覚悟で、渾身の唐竹割りを隼人の頭蓋めがけ振り下ろす。
決まれば数百年間無敗を貫いた、無敵超人の伝説が終わる。
ジュナザードが最終奥義を放った時の、死の予兆が再び隼人を襲った。
それでも活人拳の誇りを掲げ、最後まで抗おうと右の手甲で脳天を庇う隼人の視界に──
「"心刃合錬斬"!」
人間大に輝く一筋の光が、稲妻の様な軌道を描き割って入る。
その光の奔流は、並の達人では抗うこと叶わぬ超人の一撃を弾き飛ばし、隼人の窮地を救う。
「これは……武器使いの奥義の一つ!」
「何者……!?」
水入りされた世戯、そして命拾いした隼人が同時に驚愕し、眼前の敵への隙もお構いなしに、光の軌道の行先に視線を送る。
光は2人の脇、数メートル先で静止すると、人の姿へと形どる。
やがてそれは、痩躯ながらも超人二人に見劣りせぬ長尺の男の姿へと変貌した。
「我は"鍔鳴り"の紀伊陽炎。愛弟子阿含への義と我が剣技のため、此度活人拳に助太刀いたす」
名乗り上げた剣士、陽炎の姿を視認した世戯は静かに片割れの太刀を陽炎へ向け、阿含の名を耳にした隼人は眉をピクりと動かした。
白浜兼一と金剛阿含。
それぞれの師である、活人拳と殺人剣の粋を極めた2人の達人が、交わろうとしていた。
各々の戦場に、終焉が近付く。
金剛阿含が武術という広大な世界と出会ったこの物語は、最終局面へ──