♤
ゲートの中へとウマ娘達が入っていく。順調に枠入りが進んでいく中、周囲のウマ娘達が再び不思議そうな声を上げ、トレーナー達はそれぞれが持つ資料に目を落としていた。俺も、隣にいる先輩も同様だった。
「誰なんだろう、あの子?」
近くにいたウマ娘の言葉がハッキリと聞こえた。その対象は間違いなく、ミホノブルボンの隣へ駆け寄った小柄な体躯をした黒髪のウマ娘の事だろう。ブルボンと彼女はゲート入りが進む中、また足を止めて何やら話している様子だった。
「お、見つけた見つけた」
隣にいた先輩が資料を俺にも見せてくれた。写真の隣に書かれている名前が真っ先に目に入り、口に出す。
「ライスシャワー」
「小柄だが、身体のバランスはとてもいいな。変な癖もなくて教官達の評価も高い。だが実力的には中の上ぐらいか。流石にミホノブルボン相手だと厳しいと言わざるを得ない、かな。話していたのも特に深い意味は無さそうだけど、お前はどう見る?」
俺は自分の資料からもライスシャワーの記載を見つけて、先輩の資料と見比べてみた。評価については軒並み一致している。彼女の同期になりそうなウマ娘全体の実力値からすれば上位の実力だが、ミホノブルボンには余りにも程遠い。
「能力の評価は先輩と大体は同じです。でも、そうですね……」
俺は彼女の顔写真を見る。緊張してガチガチになった顔は年相応の女の子らしくて、つい笑みを溢してしまう。写真を見ながらもう一度彼女の名前を呟くと、不思議と僅かに気持ちが軽くなるような気がした。
「素敵な名前だなって、素直にそう思いました」
「名前? ……まあ否定はしないが、レースにはなんの関係もない観点だぞ」
「まあ、そうなんですけどね」
先輩は少し小首を傾げると目線をゲートへと戻した。俺も続いてゲートへと戻すと、係員に促されたミホノブルボンもライスシャワーもゲートへと入っていくところであった。まもなく選抜レースの開始となる。
持ってきた双眼鏡に目をくっつけて、俺は大外枠の子がゲートに入っていくのを見守った。
♡
背中でゲートの閉まる音が聞こえる。ふぅ、と息を一つ吐き出すと、胸と肩が下がっていく。心臓の鼓動は感じるけれどうるさくない。
僅かな隙間から覗くブルボンさんの横顔に視線だけ向けた。彼女はもう集中している様子でゲートの先を真っすぐ見つめている。レースで彼女と走るのはこれが初めてだが、先ほどとは全く雰囲気が違っていて、かっこいいと素直に思った。オーラというか、雰囲気だけで彼女の強さがライスに伝わってくる。
けれど、負ける気は毛頭無かった。
「さあ、芝一六〇〇メートル、晴れた良バ場の元、十名のウマ娘がゲートに今、収まりました!」
実況係の方が声を張り上げる。ライスは目線を前へと戻し構えを取った。みんなが足を引いて前傾姿勢を取るのに対し、ライスの構えは肩も引いて、体だけ横向きになるような姿勢を取る。野球のランナーさんがスタートする時の構えと似ていた。
時間が止まったような静寂が流れ、目に入るものがゲートだけになって感覚が研ぎ澄まされていく。僅かに腰を落とし、その時を待った。
――ガッコン!
ゲートの開く音。ライス達にとってのスタート合図が響いた瞬間に、引いた肩と右腕を前へ押し出しながら、右足に力を込めて蹴り出した。勢いのついた体をゲートから飛び出させると、力強く地面を蹴る音で世界は覆われていた。
その直後であった。左側がくすんだ赤色で染まった。
「え?」
つい声が漏れる。その赤色がブルボンさんの髪だと理解するのが一瞬遅れた。その間にもブルボンさんはどんどん前へ前へと走っていく。赤色は遠くなり、もう彼女の後ろ姿が全部見えるくらいには距離が開いていた。
逃げの脚質だというのは知っていた。先行脚質のライスからすれば自分より前に来るのは当然の事で、今までだって同じ逃げ脚質の子と走った事は何度もあった。けれど、さらに遠ざかっていくブルボンさんの背中は、ライスの経験がまるでおままごとだったと言わしめるようであった。
(そんな、速すぎる!)
最終直線のために体力を残すため、全力より気持ち二割ほど抑えているとはいえ、ブルボンさんの速さはライスの中で異常なものだった。既にスピードの最大値が違うというのに、彼女はまだ加速を続けている。失礼な言い方だが、同じ生き物とは思えなかった。それくらいにライスとの実力差は歴然だった。
はるか先を走り抜けて行くブルボンさんはライスを含めた誰も寄せ付けず、ただ一人、第三コーナーへと入っていった。
♤
「決まったな。前評判通りだ」
ゲートが開いてすぐだった。隣から先輩の声が聞こえる。一度双眼鏡から目を離して先輩の方を見ると、彼も双眼鏡を下ろしていた。
「決まったって、確かにブルボンは凄まじく速いですけど、まだレースは始まったばかりですよ?」
「よく見ろよ。後続の子達を」
そう言われて俺は再び走るウマ娘達に目を向けた。そこで気付くことができた。スタートダッシュを決めたブルボンに気を取られていた為に後続の動きを意識していなかったのだ。
彼女達はスピードを落としているように見えた。
「何してるんだ? あれじゃブルボンに逃げ切られて――」
「それでいいんだよ。もう彼女達は一着を狙ってないんだ」
「どういう事ですか?」
俺は顔をもう一度先輩へ向けた。レースを見続けたまま先輩は口を開く。
「スタートと同時に皆、ブルボンとの力の差を思い知らされたはずだ。それなら、無理にブルボンを追いかけるより、自分の走りに徹して二着三着を狙った方がよっぽどアピールになるってことさ。選抜レースとは言っても、所詮は本番を想定した練習だからな」
言葉を紡ぐ先輩の目は苦々しく細められていた。
先輩が語ったのは紛れもなくトゥインクルシリーズを闘うウマ娘達の現実だった。毎年栄光を掴む誰かがいるという事は、その誰かに夢を打ち砕かれるたくさんの誰かがいるということだ。そんな厳しい世界なのだから、二着や三着でも十分と考えるようになるのも何ら不思議ではない。加えて彼が言うように、このレースはあくまでアピールの場だ。本当の勝負はより良い担当に声を掛けてもらえるかどうかなのだ。
もどかしい気持ちを抱えたまま、俺は先輩と同じようにレースへと顔を戻した。俺と先輩の「あれ?」という声が重なったのはその時だった。
♢
(速度、想定値内を維持。心肺機能、やや想定を超える消耗を確認。速度を五パーセントほど低下させることで対応)
僅かに速度を落として体力の消耗を抑える。これで最終直線も問題なく走れると想定できた。
同時に自分の実力の足りなさが改めて課題として浮上する。一六〇〇メートルでこの様では、私の夢なんて遥か宇宙の果てにあるのと同じであった。
第四コーナーへ入る。追いかけてくるレース相手の足音は聞こえなくなっていた。これなら問題なく勝てると判断した、その時だった。
……ドドドドド。
はっとして耳を澄ます。まだ何バ身も後ろの方だが、誰かが私を追いかけてきているのが分かった。足音からして一人。加えて体重の軽い小柄な印象を与える音だった。可能性のある出走者数名の顔が頭に浮かぶ。けれどすぐにただ一人を除いて他は消えた。先の跳ねた黒髪に青い薔薇の付いた帽子を被った、緊張した面持ちの顔だけが頭の中に残った。背中に迫る足音の主が彼女であると、不思議と確信を持った。
(ライスさん――)
ゴールまでの距離、足音から割り出されるライスさんの位置、自身の体力等を考慮して勝敗を演算する。結果は九十九パーセント私が一着になると求められた。それでも彼女の足音はじわりじわりと私に近づいてきた。計算上では、彼女にはもう最終直線でスパートできる余力は残っていない。それでも彼女は迫ってくる。
その時、体からいくつも想定外のエラーが出た。体温の上昇、心拍の増強、そして思考の強制。レースが始まる前、ライスさんとした会話の記憶が再生される。
『ライス、頑張るね!』
ライスさんの言葉を聞いた時。その時もエラーが生じていた。この選抜レースは私にとって、夢を叶えるためのステップでしかなかった。勝敗よりも、私の夢を一緒に追ってくれるトレーナーさんに見つけてもらうことが重要で必須のタスクだった。
それなのに、今私にとってこのレースの勝利は重要なミッションとなっている。そのエラーが自然と言葉になり、私の口角を持ち上げていた。負けたくないと思い、そしてそれと同じくらい、ライスさんと走ることを楽しみだと思った。今まで似たような言葉を対戦相手から投げかけられた事は経験しているのに、ライスさんの言葉だけが私にエラーを生じさせた。そしてそのエラーを何故か私は許容していた。それが自然であるかのように。
さらにエラーが吐き出された。しかしそれは不思議なエラーだった。
(疲労感軽減。両足の重量低下。状態オールグリーン。想定以上の速度上昇が期待)
最終直線を目の前にして、体が僅かに軽くなるような感覚に襲われる。近づいてきた展望デッキの歓声が先ほどより少し遠くに感じて、自分の心拍、そして背後に迫るライスさんの足音だけが耳元で鳴っているみたいに大きくなった。
勝敗の演算が自然と頭で行われる。――結果は百パーセント私の勝利だった。
最終直線に体が向いた瞬間、私は思い切り地面を蹴った。
♡
第四コーナーを曲がっていく。少しずつ、本当に少しずつだがブルボンさんの大きな背中が近づいてきた。
レース開始直後、ブルボンさんの速さに圧倒された。実力の差を痛いくらいに見せつけられた。けれど、直後にライスの中でその速さの中にいるブルボンさんは輝きを増した。自分の中に溢れたのは諦めと絶望ではなく、感動と希望だった。
もしも自分もあんな風に走れたら……。もしもあの背中に追いつくことができたなら……。その思いがいつの間にかライスの背中を押していた。集団から私一人が抜け出て、周囲の足音がどんどん離れていくのに比例してブルボンさんの足音が近くなっていった。最終直線の為に体力を取っておくなんて、もう頭の中に無かった。
息はすっかり上がっている。足も鉄球が付いているみたいに重くなっていた。それでもライスは真っすぐブルボンさんの背中を見つめ、彼女の隣を、その先を目指した。目いっぱい両腕を振って両足で地面を蹴る。血の味がする口で精いっぱい空気を取り込む。
追いつきたい――。並びたい――。勝ちたい!
そう強く思ったのと同時に、ブルボンさんが最終直線に向いた。
一際大きく地面を蹴る音が響いたと思うと、近づいていたブルボンさんの背中は瞬きの間に小さくなった。
声は出なかった。そんな余裕なんて今のライスには残っていなかった。ただ、信じられないものをライスは見ている事しかできなかった。自分より速く走っていた人が、さらにスピードを上げる後ろ姿を。
「ミホノブルボンが抜け出した! 一気にライスシャワーを突き放す! もう完全な一人旅だー!」
実況係の声。それに乗せられた展望席の歓声がブルボンさんの足音すらかき消した。もはや勝負は決していた。けれどライスは歯を食いしばった。勝てなくても、ちょっとでもいい。あの背中に近づきたかった。
しかし、もうライスはスピードを上げることができなかった。最終直線の真ん中ほどに来た時、次第に後方からたくさんの足音が迫ってきて、今まで控えていた他の競争相手達がライスを次々と追い抜いていった。その直後に実況係の声がまた響く。
「ミホノブルボン、今一着でゴールイン!」
途端に上がる大歓声。大きく遅れてライスはゴール版を駆け抜けた。スピードを落として立ち止まると足は生まれたての小鹿みたいに痙攣して、ライスはターフに跪いた。目も開けていられず視界は真っ黒になる。
「ハッ! ハッ! ゲホッ! ゴホッ!」
何度もせき込みながら酸素を体に取り込んでいく。少し落ち着いて目も開けられるようになったライスは跪いたまま顔を上げた。ライスのすぐ前には一緒に走った八人の相手がいて、そんな彼女達の視線の先にブルボンさんがいた。ブルボンさんは丁寧に展望デッキへお辞儀をしているところだった。
選抜レース、芝一六〇〇メートル。ライスは最下位でゴールした。