「歌舞伎……?」
祥子と出会う前の頃。
湊音はみなみに連れられて歌舞伎の稽古を見学するために車で移動をしていた。
「そうよ。この前テレビに出たのを見た歌舞伎の監督さんが睦ちゃんを使いたいって思ったらしいんだけど、歌舞伎は男の子の演劇で睦ちゃんは出れないから、湊音にお願いしたいんだって」
「……出たいなんて一言も言ってない」
睦の顔が欲しいから湊音に声が掛かったことで、彼のコンプレックスがまた刺激される。
同じ顔をしているなら、子役として演技をやっている睦で良い。
あくまでも睦の代わりであるのなら尚更だ。
「やらずに逃げるより、やってみた方が湊音の世界も広がるわよ」
目的地に到着して止まった車から降りると、伝統的な造りの稽古場の大きさに圧倒される。
テレビ局のスタジオに撮影に来たことはあったが、目の前にするだけで威厳を感じさせた。
「お待ちしておりました。寺小屋の杉田と申します。
森さん。今日はお越しいただきありがとうございます。湊音くんもありがとう。今日は見学だけで良いからね」
入口で待っていると和服の男性が中から出てきて、みなみに礼をしてから、屈んで湊音と目の高さを合わせた。
それに対して湊音は軽く首を縦に振るだけで目線を合わせることができなかった。
「迷惑をかけないように頑張ります」
歌舞伎の稽古期間は五日間と短い。
本来であれば基本の礼儀作法を身につけてからなのだが、今回は監督がどうしても
その日は言われた通りに稽古を見ているだけで、仮で置かれている湊音の役の動きに注目していた。
開演して数秒だけ立っているだけの役だが、瞬きや身動ぎひとつせずにナレーションが終わるまで立っていることは簡単にできる役では無いというのが湊音の感想だった。
その後は翌日に向けて挨拶をして、外行きの顔をしながらの芸能界特有の気遣いに疲れてしまって帰宅した後、湊音はソファーの上でぐったりしていた。
「今日、どうだったの?」
「……つかれた」
「ふーん。湊音
今日一日留守番で退屈していた睦が湊音の隣に勢い良く座る。
その衝撃で隣の湊音はほんの少しだけ身体が宙に浮く。
大した衝撃ではないため、そのまま無事に着地したがそれだけ暇だったのだろうということは伝わった。
「できるのかな……」
「できるんじゃない? 私と同じ顔だから湊音くんに頼んだんだろうし」
「……だろうね」
だから嫌だというのに睦が自信満々に言う。
自分は双子で同じ顔をしていて、良かったことなど一度もないのに、睦はそれを喜んでいる節すらある。
こんな顔でなければ、そんな顔でなければ、そういう感情が積もっていくと睦の顔を見れなくなる。
「深く考えすぎなんじゃない? 何だっけ。思わざれば花なりき、思えば花ならざりき。って言葉もあるしね」
「何それ……ふわぁ……ふぅ」
急激な眠気に誘われてうとうとしていると、ぐわんと何かに引っ張られるように身体が睦の方に倒れる。
そのまま寝惚け眼の視界が横になって眠気が促進される。
「……
意識が落ちる中、睦の声が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
「今日から、お願いします」
「こちらこそよろしく。監督から指示があって僕が湊音くんの演技を指導することになりました。
早速だけど衣装無しから始めようか。衣装は意外と重たいから慣れてから着ようか」
翌日から湊音の稽古が開始された。
主演の役者達から離れた位置で杉田から演技指導を受けることになった湊音は、他の役者達から滲み出る真剣な空気にあてられて緊張していた。
「はい……!」
「今回、湊音くんの役は立つだけに全てを注いでもらうことになるんだけど、まずは目を五分間瞑らないことから始めようか」
立つだけとは言え、一歩も動かず瞬きすら許されない二十五日間繰り返す五分のために四日は費やすのである。
それを一日に五時間。立つ五分のためだけに、演技経験零から二十時間を使って仕上げなければならないとなると湊音にとっては厳しい四日間になる。
「一旦、表情を作ってから数えて五分、その間に目を瞑らず立ったままでいられるかができるか見せてくれる?」
「わかりました」
本番は支えもない空間で番傘を持ち観客に背中を向けて見返る姿勢を取らなければならない。
それに至るためには一先ずは表情を作って目蓋を動かさないことから稽古が始まる。
「今回湊音くんの役……桜は悲劇的な別れをした男女の間に産まれた子供で、親の顔も、いつか誰からも忘れられて愛と哀を知らずにひっそりと死ぬことの恐れもない。だけど、それらを悟っている。そんな役なんだけど……ごめん、わかる?」
「……ちょっと、わからないかもです」
杉田の説明が下手とかではなく、純粋に子供に理解させるには難しい造形をしている。
立つだけにしては表現力の要求が高く難しい役を初挑戦の子供にやらせるなんてどうかしていると杉田は内心思いながらも、演技プランを考える。
「うーん、そうだなぁ……自分には家族が居なくて、たった一人で世界を生きてる。そんな感じのことを思い浮かべてみてほしいかも」
「……やってみます」
杉田がテープで印を付けた位置に立って、言われたことを思い浮かべる。
(みなみちゃんも、たあくんも居ない……寂しいけど……あ、いや、それも知らないのか……それは虚しいな……)
家族は嫌いではない。
忙しくて会えない時間が多いのは寂しい。子供としては当然の感情も持っている。
だから、居ないのであればそれはもっと寂しいのだが、居ないということは、桜にはその寂しいすらないということになる。
監督の意図からはまだほど遠い表情ではあるが、湊音の感情が抜け落ちた表情を見て杉田が計測を始める。
(……睦のことを忘れてる訳じゃない。嫌いなんじゃない……違う、ただ──)
二分経過したところで、ピクリと目蓋を動かしてしまい、杉田にストップを掛けられる。
「ごめんなさい……」
「いや、初めてにしてはよくできてるよ。二分って五分の半分だからね。この調子で行こう」
演技初挑戦。とはいえ、名女優の血を引く子の才能を感じざるを得ない杉田は興奮を抑えて冷静に次のステップへの導線を考える。
昨日一日で、湊音の出ているメディアを可能な限りチェックして、多少は彼の人となりを知ろうと努力していた。
結果として、少なくとも睦に比べてメディアに出ることに肯定的ではなく、自己肯定感が希薄であるという分析をした杉田は彼を褒めて伸ばす方針に舵を切った。
「わかりました」
その日の稽古時間が終わる頃には何とか五分間一切動かずに立ち続けることができるまでになった。
(……褒め言葉が多い。気を遣われてる。そうしないとできないと思われてるから、良い人だから、そういう風にしてくれる……苦しい。褒められるのは嬉しいけど、どこまでが本当かわからないのが苦しい)
家に帰ってきた湊音は夕食のハンバーグを食べながら浮かない表情をしていた。
プレートの上のハンバーグはチーズ入りでカリカリに揚げられたフライドポテトまで乗っていて、湊音の好物全部盛りだというのに、眉一つ動かさずに黙々と食べていた。
「湊音、食べ終わってお腹落ち着いたら一緒に風呂入ろっか」
「ん……」
それを見かねた隆文が湊音を入浴に誘う。
特に断る理由もなかったため、素直に湊音も頷いて食後に二人で浴槽に浸かる。
「歌舞伎の演技大変か?」
「……杉田さんは良い人で教え方もわかりやすいから、思ってたよりできてる」
「実はな。ちょっと心配してたんだ」
「何を?」
隆文が良くも悪くも珍しく父親らしいことを言い出して湊音から怪訝そうな目を向けられる。
友達家族という形はみなみと話し合った結果とはいえ、愛しい息子からそういう目を向けられる痛みはない。ないったらない。
「湊音が初めて一人で仕事することが心配だったんだよ。
いっつも睦ちゃんと一緒だったから、寂しかったりするのかなって」
主に睦が振り回している側ではあるが、周囲からそれなりに仲良し双子に見えていて、そういう風にメディアに出ていることは、世間にとっては良いことなのだろう。
「……別にそこはなんとも」
本音を飲み込んで嘘を吐いた。
本当は安心している。隣に睦が居なければ比べられることもなく、『若葉湊音』はそこに居ても良い。
演技が得意でもないのに、舞台に立とうと思ったのは、誰かが『若葉湊音』を見つけてくれたら、それはきっと救いなのだろう。
(あ……そういうことか……桜も多分そういう気持ちなんだ……)
湊音の中でナニかがカチりと音を立てて噛み合った。
稽古二日目。
湊音は昨日の会話を元に表情を作って五分間立ちっぱなしの稽古に望む。
(……虚しい。誰かに見つけてほしい。でも、触れてほしくない)
何にも興味を持たず、何かを求めるわけではない目をして生きているのに、口元は何かを期待しているようで何も期待していない微笑みを浮かべる。
そんな立ち姿を見せられた杉田は一夜にして何があったのか、それすらどうでも良いくらいに、そこには『桜』が居た。
「お、できてるじゃん。あとは衣装着させて姿勢固定すれば使えるな」
時計を片手に湊音を見守っていた杉田の隣に監督がやってくる。
監督は今初めて湊音の立ち姿を見ているが、その姿が湊音を指名した狙い通りのモノで満足そうに湊音に聞こえない程度の小声で杉田に声を掛けた。
「監督、本当にアレで良いんですね?」
「良いに決まってるだろ。素人の子供に求める演技なんて、あってないようなもんだ。それによく言うだろ。
思わざれば花なりき、思えば花ならざりきってな」
監督が湊音を指名したのは、睦が女子だからではない。
湊音が睦に何かしらのコンプレックスを持っていそうなことを見抜き、メディアに映る時の仮面を外した彼の表情こそを監督は欲した。
ただ、そのままの理由を伝えても首を縦に振るとは考えられない。
だから、本当の理由は伝えずに湊音を歌舞伎の舞台に上げることを考えた。
そうこうしている間に五分が経過していて、その間湊音は身動ぎ一つしなかった。
それからはトントン拍子で稽古は進み、通し稽古すら問題なく進み、あっという間に初公演が始まろうとしていた。
「……」
「……何?」
楽屋で衣装の黒地に花模様の着物を身に纏った湊音に掛けるべき言葉がわからず、睦は黙って彼を見つめていた。
歌舞伎の稽古が始まってから湊音が一度も目を合わせてくれない。
何か嫌なことをしたのかと思い、言葉選びが下手な自分なりに言葉を選ぼうとして何も出てこなかった。
湊音が目を合わせずに動きも台詞もないのに台本を読みながら睦に問い掛ける。
「……湊音、今回の嫌だった?」
「別に。いつも通り」
何も変わっていない。
自分の顔もいつも通りで、気分も変わらない。世界も変わっていない。
素っ気ない湊音に、また睦は口を閉じてしまう。
集中してる時に話し掛けようとした自分が悪い。もう一人の自分ならうまくやれたかもしれない。
双子として何かをしている時は距離を感じることはあっても、普段は目を合わせてはくれないが会話はしてくれるのに、稽古を始めてからの湊音は少し冷たい。
「湊音くん。そろそろ」
「じゃあ、行ってくる」
「……うん、いってらっしゃい」
杉田に呼び出された湊音が楽屋から出ていく。
番傘を持たされ舞台の中央に立たされた湊音は稽古通りに表情と立ち姿を作ると、歌舞伎の開幕を告げる柝の音が聴こえる。
(……多分これで演技をやるのは最後なんだろうな)
空っぽの自分の身体に柝の音が良く響く。
(……いや、こんなの演技ですらないか)
心の奥底にしまった感情を吐き出しているだけのそれを演技というのは、きっと違うのだろう。
最後に大きく打たれた止め柝の音を聴くと、桜吹雪が舞う。
(まぁ、いいや、あと二十四回やればいいだけだ──)
こんな自傷行為を残り二十四回も繰り返すと思うと憂鬱な気分にさせられる。