湊音と初華は海を走るフェリーの上で海風に吹かれていた。
「涼しい……」
「可愛いと三回書いて飲む可愛いと三回書いて飲む可愛いと三回書いて──」
純粋に景色を楽しんでいる初華とは逆に湊音は必死に酔うまいと手のひらに可愛いと書いては口に当てて飲み込んでいた。
「もしかして、船苦手?」
「昔、船に乗った時に身体の水分全部抜けるくらい吐いたんだよ」
「た、大変だね……酔い止め飲んだ?」
初華の言葉に湊音は飲んだ。と短く返す。
あまりにも余裕のない湊音の様子を見て苦笑いが漏れる。
「なんかこういうのダメなの意外だね。睦ちゃんは平気そうなのに……今朝の様子見てると我慢してただけの可能性もあるけど」
「どっちなんだろうな。俺にもわかんないや」
睦のことは全部理解していたつもりだった
なのに、最近になって空が出てきて、その彼女のことに関しては何も知らない。
空曰く、昔から時々入れ替わっていたらしい。なのに、湊音は何も気付いてあげることが出来なかった。
「ずっと一緒だったのに?」
「だからだよ。身近だからわかんないこともあるのかもしれない」
海の上から空に手を伸ばして湊音は目を細める。
酔い防止には遠くの景色を見た方が良いとも聞くが、あまり気分は晴れなかった。
「……そうかもね」
初華は同じ湊音と空を見上げて、自分が置き去りにしてしまったことを思いを馳せる。
そういう意味でも湊音が持っているモノが妬ましく思えてくる。
それからも湊音は酔うまいと必死に耐え続け、やがてフェリーは目的の港へと到着した。
「到ちゃーく。青い海、白い雲、可愛い俺。夏と言えばこれだよなぁ」
解放されたこともあり、港に降りて早々に海をバックにした自撮りをして湊音は上機嫌になる。
海以外は数えるほどしか建物が見えず、小さな港と民宿以外に目立つ建物がない静かな場所だったが、それはそれで波の音が良く聴こえるので湊音は嫌いではなかった。
「じゃあ、今日の撮影だけど──」
二人に続いて船を降りてきたスタッフが今回の撮影について説明を行う。簡単なロケーションやディレクションを受けた後に、二人はそれぞれ別の場所で撮影を始める。
「じゃあ、今日はお願いしますね」
着替えとメイクを終えた湊音は裸足で砂浜を歩く。
「いいねぇ……!」
今回の衣装は、肩を隠した膝下丈の白いワンピースで、ただ砂浜を歩くだけで、シャッター音が止まらない。
顔も良いことは前提として、立ち姿だけで話題を呼んだ湊音は、動くだけでも画になる。
それほどまでに、若葉湊音という被写体は人を魅了していた。
「そのまま振り返ってこっちに視線ちょうだい」
湊音はカメラマンの指示に従いながら身体をくるりと回すように振り向きながら歩いて微笑みを浮かべる。
これは湊音が可愛い自分になるために身に付けた動作である。
「冷たっ!」
ぽつりと一粒の雨が湊音の頬に落ちる。
思わずビクッとして声をあげた直後に霧のような雨が降り始める。
「湊音くんは屋根の方に! 機材早くしまって!!」
「天気予報外れちゃいましたねぇ」
すぐにどしゃ降りになった雨にスタッフが慌てて機材が濡れないように撤収している横で笑いながら走ってる湊音を、桟橋の屋根の下から初華は見ていた。
(……いいなぁ)
自分には持っていないモノを持っている。
それが初華が一番欲しい祥子の笑顔だと思うと、妬ましさが混ざり込む。
「ふぃー、夏とはいえ雨降ると冷たいな」
「お疲れ様。大丈夫? お化粧崩れてない?」
湊音が桟橋の屋根まで来て、一息ついて初華から少し離れた場所に腰を落ち着ける。
「水も滴って可愛いじゃん?」
「風邪だけ引かないようにね?」
普段の口調は崩れないものの、お互いに濡れているからか、湊音は初華を見ないようしつつ、少し動きがぎこちない。
「……この雨、長引きそうですね」
「こりゃあ最終便、厳しいだろうな」
一瞬の静寂の中でスタッフ同士のそんな会話が初華の耳に入る。
今日はきっと帰れないだろう。
この風と雨なら、船はまず出ない。島で育った初華には、それが嫌でもわかった。
「二人とも、ごめん……」
その一言だけで、十分だった。
続く言葉を聞くまでもなく、初華にはわかってしまった。
◇ ◇ ◇
「あー、良い温泉だった……露天風呂には入れなかったけど」
『湊音くんさぁ……帰ったら何とかって言ってたじゃん』
「仕方ないだろ帰れないんだから」
突然の大雨のせいで、帰りのフェリーが最終便まで欠航してしまい、湊音達は島の民宿に泊まることになった。
自身に割り振られた部屋に戻った湊音は空と通話をしていた。
温泉も堪能し、羽織った浴衣が心地良かったが、電話口の空は不機嫌そうな声を漏らす。
『明日には帰ってこれそうなの?』
「波が収まってたら、な」
スマホを当てている耳とは逆の耳には激しい雨音が入ってくる。
『こっちは祥子ちゃんがずっと睨んできて大変だったのに、温泉楽しんでずるいじゃん。私も入りたーい!』
「嫌なら睦と代われば良いだろ。いつまでも空のままじゃ睦だって大変だろうし……」
『湊音くんにはわかんないよ! そんなだから……っ! おやすみ!』
一方的に通話を切られてしまった。
さっきまで聞こえていた空の声が消えて、雨音だけが聞こえてくる。
(相変わらず、あいつのことはよくわかんないな……)
何もないこの部屋の湿った空気と畳の匂いが身体に入り込んでくる。
修学旅行でも行楽の旅行でもない。
偶発的なこの宿泊でやることなどあるわけもなく、そろそろ寝てしまおうかと思った途端、廊下の床が軋む音がした。
「……湊音くん。起きてる?」
襖越しに初華の声がする。
「起きてるけど、どうかした?」
「少しだけ……いい?」
「明日も早いし……少しだけなら」
雨で取り止めになった雑誌の表紙の撮影についてだろうか。
スマホを枕元に置いて初華を迎え入れる。
ゆっくりと襖が開く。
雨音の中に畳を跨ぐ初華の足音が混ざる。
「ごめんね。こんな時間に」
「ちょっとだけだからな。ほら、座って」
ちゃぶ台を挟んだ対面に浴衣姿の初華が座る。
いつも通りの穏やかな表情なのに、ここには居ない誰かを想っているようで、どこか視線が定まっていない気がした。
「ねぇ、湊音くん……どうして可愛くなろうと思ったの?」
「そりゃ、世界で一番可愛いからに決まってるじゃん」
「……さきちゃんが、そう思わせてくれたから? 私、聞いたんだ。昔の、さきちゃんと初めて会った頃は普通の男の子だったって」
雨音がやけに大きく聞こえる。
睦か祥子か。どちらにしても、人づてに聞いたのだろう。
「まぁ、さっちゃんから言われたからって言うのはあるよ……ちょっとだけ、気にしてた時期だったし」
今まで初華と絡みがあったわけではないが、嘘を付いても意味がないため、ぼんやりと肯定だけしておく。
「じゃあ、私が言ったらどうなる?」
「そういうことじゃないだろ。ほら、聞かなかったことにするから部屋に戻りな」
何を話すことがあるのかと思えば、予想外の方向に話が転んでいく。
現役アイドルの初華が男の部屋を訪ねていること自体、問題なのにそんな話をするのはリスキーである。
「……違うよ」
小さく、初華が首を振る。
「だって……私はさきちゃんだったから救われたのに」
「……何の話?」
「教えてあげる……私の秘密」
ゆらりと幽霊のように立ち上がった初華が湊音の後ろに回る。
「初、華……?」
呼び掛けに答えはなく、そのまま腹に手を回される。
「長くなるけど、ちゃんと聞いてね……」
触れられた瞬間、祥子に押し倒されかけた時の記憶がよぎった。
「初華、ダメだろ。これは……アイドルなんだから」
「……私ね。本当は『三角初華』じゃないんだ」
雨音すら聞こえないほど湊音の身体が強張り、振り払おうとしても、指先すら動かない。
「私は三角初音」
吐息のように溢されたその名前に覚えがある。
以前出会った、初華にどこか似た雰囲気の少女──ハツネと同じ名前だった。
「さきちゃんの祖父……豊川定治の妾の子なんだ」
「妾……?」
背後からの体温が、逃げ場を塞ぐように張り付いてくる。
トラウマのせいで心は冷えていくのに、人肌の温もりに頭が壊れそうになる。
「初華っていうのはね」
「お母さんの再婚相手との間に生まれた、妹の名前なの」
「それを、使わせてもらってるんだ」
湊音が返事をする間もなく、言葉が押し寄せてくる。
離れようとしても、今の湊音にそれだけの力は出ない。
わずかに動いた身体も、背後から回された腕にすぐに押さえ込まれる。
「私という存在が知られたら豊川家の沽券に関わる」
「だから、この島みたいな何もない小さい場所で暮らしてた」
「でも、さきちゃんと出会えた。私はそれで救われた」
「私でも生きていて良いって言ってくれたような気がして……」
「私はさきちゃんに全部あげたい」
声音から温度が消えていく。
「それなのに」
「さきちゃんは湊音くんのことしか見てない。私のことなんて見てない」
「さきちゃんを笑顔にできるのは湊音くんしかいないのに」
「なんでダメなの?」
次の瞬間、背後から回されていた腕に強く引かれた。
「っ——」
バランスを崩した身体が、そのまま畳に押し倒される。
「本当にさきちゃんが嫌いなら」
「私の身体を好きにしてくれてもいいよ」
「だから、私からさきちゃんを取らないで」
はだけた浴衣の隙間が、否応なく目に入る。
視線を逸らそうとしても、どうしても目が離せない。
「やめ……」
「湊音くん。私にさきちゃんを──」
「やめろ!」
湊音はようやく大声を出せた。
それと同時に荒々しい呼吸が止まらなくなる。
「俺にどうしろって言うんだよ!」
祥子の家に纏わることだけではない。
今、湊音を取り巻く全てに対しての言葉だった。
「さっちゃんに手を差し出したとして!」
「手を掴んださっちゃんが一緒に沈んでしまったら」
「その先で俺はさっちゃんと笑うことなんてできないよ……」
ずっと飲み込んでいた言葉が、止まらずに溢れる。
「……それは」
初音の言葉が続かない。
湊音を押さえつける腕が脱力していく。
「私は……私は……」
そのまま湊音の上から離れて、初音は部屋を出ていく。
その後ろ姿を湊音は力が入らないまま眺めていた。
「なんで皆……俺にそういうことするんだよ」
ようやく聞こえてきた雨音に紛れて、湊音の声は誰にも届かなかった。