「今日は起きてますのね」
アレから毎日祥子が顔を出してくる。
胃に負担を掛けない料理を用意したり、ただ湊音の隣で座っているだけだったり、とにかく毎日、生存確認をするように訪れていた。
「……」
今日も祥子は持ってきた保温容器をテーブルに置く。
「野菜のスープですわ。食べられそうなら温めますわ」
それだけ言って会話は途切れる。
以前なら気にならなかった沈黙も、毎日続くと妙な圧迫感があった。
祥子は何も言わないし、責めないし、問い詰めない。
だからこそ気まずい。
「……睦は」
気が付けば喉を鳴らしていた。
「睦はどうしてるの……」
湊音が最後に見たのは空の人格だったが、あのワガママっぷりで『睦』をやり通せているのか。不安で仕方がない。
「それは──」
祥子は僅かに目を見開きながら言葉を吟味する。
空のことを聞きたくても、湊音が空についてどこまで知っているかわからないし、今の彼にそんな余裕があるとは思えない。
「……元気ではないみたいですわ」
「……そう」
「気になりますの?」
「……別に」
睦の近くに居なければならないというのに、指一つ向かおうとしない湊音は自分が嫌になる。
空が表に出てきたままで、戻ってこない睦のことを考えれば普通でないことくらい想像してもわかることだった。
「湊音はどうですの?」
「……俺は」
可愛くない姿なのに、祥子が隣に居ることで体調が崩れそうだった。
乾いたとはいえ、雨でずぶ濡れになった化粧品や道具では満足に化粧などできるわけがない。
されど、家に帰って取りに行くわけでもない。
「……わかんない」
踞って祥子から顔を逸らす。
とにかく顔を見られまいと、祥子から逃げ続けている。
「嘘ですわ……」
本当にそうなら、湊音が顔を背ける筈がない。
「湊音、わたくしに顔を見せて──」
「見ないで!!」
湊音の拒絶が響く。
祥子が何かをした訳ではない。ただ顔を見てという言葉に反射的に漏れた。
自分が拒絶してしまったせいで、こんなことになってしまっているのに、息が苦しくなる。
「──っ! ごめんなさい……」
言葉を間違えた。
呼吸が荒くなる湊音を見て、祥子は自分の愚かしさを呪う。
例え湊音の身体の調子が良くなっていたとしても、自分が許されているかどうかはまた別の問題である。
「……ぁ、ちが……くて、ちがっ──」
拒絶したかったわけじゃない。けど、見られたくない。
自分でもどうしたいのかわからなくて声と思考が混濁していく。
「二人とも、少し離れなさい」
リビングの様子を見に来た友希那が湊音の視界から祥子を遮るように割り込んで、祥子に視線を送る。
それを察した祥子は、小さく頭を下げて廊下へ出る。
「……何があったのかしら?」
湊音の呼吸が落ち着くのを確認してから、友希那は廊下へ出て、少し顔色が悪くなった祥子に問う。
「……少し、欲をかきましたわ」
「……」
「顔を見て話したくなってしまいましたわ」
それが純粋な思いだとしても、今の湊音には早すぎたらしい。
この様子ではお互いに落ち着いて話もできないだろう。
「今日はもう帰りなさい。明日の朝まで様子を見てから
連絡するわ」
「……はい」
祥子の背中が見えなくなった後、友希那は小さく息を吐いた。
リビングでは湊音が眠っているのを確認して、友希那はカズの部屋に戻る。
「……世話が焼けるわね」
そう呟いてからスマホを手に取る。
呼び出し音が数回鳴った後、カズが出た。
『もしもし?』
「私よ。そろそろ帰ってきてほしいのだけど」
カズに通話を掛けたのは、決して、そろそろ会えなくて寂しいとか。そういう気持ちはない。
カズの部屋のベッドの上で枕を抱いていたとしても、そんなことはなかった。
『わかった。明日の夜には一度戻る』
「頼むわよ……大体、カズが拾ってきたのにどうして私とリサが面倒見てるのよ」
友希那やリサには一切説明がないままカズはどうして離島に行ってまで漁船に乗り込んでいることに、少し腹を立てていた。
『姉貴にはごめんって言っといて』
「私には謝らないのね」
『まぁ、友希那さんだし……それじゃあまた明日』
「えぇ、また明日」
通話を切ると、友希那は横に倒れて無言で青薔薇のピアスに指を伸ばす。
◇ ◇ ◇
(……今回は入れてくれると良いのですが)
祥子は帰りの途中に若葉家に寄って睦――正確には今は表に出ている空の様子を確認しに来た。
予めメッセージアプリで湊音の現状について話があるとだけ伝えていたが、それで会ってくれるかはわからなかった。
『ご用件をどうぞ』
「豊川です。睦の様子を見に来ました」
インターホンを押すと、家事手伝いが出たため簡潔に用件を伝えて、しばらくすると鍵が解錠される音がした。
(……こういうことをしなければ入れてくれないくらいには嫌われてますのね)
事前に湊音のことを伝えていなければ、門前払いされていただろう。
「……お邪魔しますわ──っ!」
玄関から入って、睦の部屋の扉を開けるとすぐさま熊のぬいぐるみが勢い良く祥子の顔に飛んできた。
咄嗟のことで避けられなかったが、幸いそこまで痛みはない。
「どの面下げて来たの」
湊音程ではないが、やつれた顔をしている空が眉をしかめて祥子を出迎えた。
「……やっぱり、睦ではないのですね」
「睦ちゃんが起きないんだから仕方ないじゃん」
空はそう言いながらも、隣に祥子が膝をついてもテレビから目を離さない。
画面の中では幼い睦と湊音の映像が流れている。
今の空には、それだけが双子を感じられる唯一の手段だった。
「で、湊音くん見つかったの?」
「……見つかりはしましたわ」
祥子の言葉に空はピクリと反応を示すも、視線はテレビから外さなかった。
「……でも、来てくれないんでしょ」
安堵の表情を一瞬だけ見せた後に、空は諦めの感情を浮かべた。
自分のせいで睦は消えて、その睦が居なければ湊音は帰ってこない。
そうでないなら、湊音の身にもっとおぞましいことがあって、それから守れなかった自分のアイデンティティーが崩壊してしまう。
「祥子ちゃんのせいなのに」
祥子が居れば湊音は大丈夫という空の言葉を知らない祥子に押し付ける体の良い呪いだった。
「えぇ……わたくしのせいですわ」
あの夜のことも、今日のことだって、湊音を追い詰めたのは祥子自身で、それから逃げるつもりもなかった。
その言葉は、空の怒りを少しも和らげなかった。
「……っ」
だから、空は祥子が嫌いだ。
Ave mujicaのことだって、湊音のことだって、CRYCHICのことだって、全部自分のため。
何もかも受け入れているようで、他人を理解した気になって、結局は自分本位な彼女が大嫌いだ。
「祥子ちゃんは知らないみたいだから、教えてあげる……」
「ぐっ……」
ゆらりと立ち上がった空に服の襟元を掴まれて喉が絞まる。
それに抵抗すらしない様子を見た空の瞳に温度を感じなかった。
「祥子ちゃんは楽になろうとしてるだけ。誰かに罵ってもらって自分の罪を形にしてそれに向き合おうとしてるだけ!」
空の言葉に祥子は息を呑む。
反論は思い浮かんでも、そのどれもが言い訳にしか思えなかった。
「こうやって私のとこに来たのも、私を利用して湊音くんをどうにかしようとしただけ! どうせ、湊音くんにも私の名前を出して釣ろうとしたんでしょ? ふざけないでよ」
「けほっ……! けほっ!」
不意に空が手を離したせいで、尻餅をついて咳き込む。
「帰って! 嫌い! 大嫌い! 二度と私の前に出てこないで!」
「──」
幼い頃からずっと一緒だった。
半身のように、本当の姉妹のように思っていた睦と同じ顔、同じ声で告げられたその言葉を最後に、祥子のその日の記憶はそこで途絶えていた。