「なごみが飛んでいくのが見えたから動いて大丈夫かな」
妖花はなごみが空を飛ぶ姿を確認してから木の空洞から出た。頭の上の木くずを手で叩き落として、服やズボンに着いていた葉っぱや木くずも叩き落とす。一息ついたところでドっと疲れが押し寄せる。無理もない。山の中を歩き続け、烏天狗に襲われ、親友の正体を知った。心も身体もヘトヘトな私はそれでも進まなければならない。
「先輩のところに行かないと。でも、警戒は怠らない」
なごみが他の天狗を連れていっても油断はできない。他の妖怪が近くにいる可能性はゼロではないのだから。
周りを見渡して気配を感じとる、なんてことは出来ないので耳を使って音を聞き分ける。妖怪の音なんて分からないけれど、微妙な音の変化には気づける。
「誰か潜んでいても気づけるはず。私の耳を信じるしかないけど」
妖花は耳に意識を集中させる。
風が吹く音。葉が揺れる音。
生き物が近くで動いているような音は無い。
周りを見渡しても人の気配も無いため、妖花はなごみから貰っていた水、と言うよりも傷を治す薬を手に取った。
「これ飲まないと。なごみが言ってたんだから大丈夫」
グイッと勢いよく飲み込むと味を感じた瞬間妖花は噎せた。
「うぅ…苦い…」
薬はとても苦く、直ぐに口から出したいと思うほどのものだった。
ただ、飲んでから直ぐに効果は実感した。
「すごい…」
だんだんと傷口が塞がっていく。痛みが引いていく。先程までボロボロだった体はみるみるうちに元の体に戻った。
「こんなものがあるなんて…」
良薬口に苦し。人間世界ではありえないその薬は恐らく妖怪世界のものだろう。だからこそ、この効能がある。
妖花は半分飲み込んだところでその薬の飲み口から離した。
「半分は先輩に」
新道も相当深手を負っている。なごみに貰った薬で少しでも回復してくれるはずだから。
2人揃って無事にこの森から脱出するために妖花は走り始めた。
「よし、行こう」
身体の調子が元に戻ったこともあり、新道の元へ辿り着くのはさほど時間はかからなかった。
「先輩!大丈夫ですか!?」
新道は木にもたれ掛かるように倒れている。未だに意識を取り戻さない先輩の姿を見て心配になったがその心配も直ぐに無くなった。
「ん…」
「先輩、先輩!」
妖花は声を出して新道に声をかける。
「よう…妖花ちゃん…?」
ゆっくりと目を開いた新道を見て妖花は涙目になっていた。
「先輩、良かった。無事で良かったです」
「あれ、ここはどこ?」
「ここはまだ森の中です。烏天狗から逃げてとりあえずここに。先輩の意識が戻ってよかったです」
そう言うと新道はぶるぶると肩を震わせた。
「そ、そう…さっきの化け物はもう居ないのね」
「はい」
それを聞いても新道は体を震わせてまだ怖がっているようだった。傷だらけの身体が何よりもその恐怖を思い出させる。腰が抜けているのか新道は立てそうにもなかった。
「先輩、とりあえずこれを飲んでください」
そんな新道に妖花はなごみに貰った薬を新道の口元に運ぶ。
「これは…?」
そう聞かれて妖花は「水です。喉乾いてると思ったので」そう言う理由をつけると新道は何も疑うことなくその薬を口に含んだ。
「うっ…これ本当に水?」
すごく渋い顔をしてこちらを見る新道に妖花は変な嘘をついたと思い直ぐに本当のことを伝えた。
「すみません、これ薬です。私も飲んで苦い知ってたので水と思って飲んだ方が飲み込めるかなと…」
「そ、そうだったのね。ならいいの…うん、その方が飲み込めるから、助かったわ」
渋い顔をしながら感謝している新道のことを見ていると妖花と同じように傷がみるみるうちに治っていく。
「あれ、痛みが引いてる。この薬凄いね、ありがとう妖花ちゃん」
私に感謝されても困るが本当のことは言えないため妖花は苦笑いを浮かべながら頷くしか無かった。
普通ならおかしいと思うほどに治りの早い薬を飲んでも今の新道は頭が混乱しているのであまり特に何も思わなかったらしい。それが救いだ。
「妖花ちゃん、烏天狗の事だけど」
「はい、なんでしょう」
「あれはやばいよ!警察に早く言わないと!」
やはり正常に判断ができていないらしい。仕方がない、あれほど危険で怖い目にあったのだからこれが普通の反応だ。
「先輩、落ち着いてください。烏天狗のことを話したところで信じてくれる人なんて限られてます。今は落ち着いてください」
涙目になっていた新道の目から大粒の涙が落ちた。
「そ、そうだよね…信じてくれる人なんていないよ。仮にあの烏天狗がやった木の切れた所を見せても信じられるわけない」
「ですから、このことは私達の心にしまって起きましょう」
「そんなこと出来ない!烏天狗は危険で、それで、いつ人間が襲われるか分からないのよ!」
新道の言う通りだ。その通りだ。妖花だって普通そう思う。だけど本当のことを話すことは出来ない。烏天狗の存在を公表するということはなごみが天狗だったことがバレてしまうかもしれない。そんなことを話せるわけがない。
だからここは何とか場を収めるしか無かった。
「先輩!分かってます。分かってるんです。私だって…」
「どうしたの?」
妖花は涙を流しながら訴えかける。
「私だって先輩の言う通りだと思うんです。ですがそれは絶対に言えないんです」
「何でなの?」
妖花が涙を流したことでようやく新道は自分の自我を取り戻したのか親身になって妖花の背中を撫でた。
「どうしたの、何があったの?」
「それも言えないんです…。ただ、絶対に大丈夫だってことだけは言えます。それ以上は言えない、私、私…」
すると新道は笑みを浮かべて妖花に伝える。
「分かった。分かったよ。だからもう泣かないで、怖い思いをしたけどそれ以上に妖花ちゃんも何かを体験したのよね?」
「はい…言えないですけどもう烏天狗のことは大丈夫なんです。私達や他の人間のことは大丈夫なんです」
「分かった、妖花ちゃんの言う通りにする。私は警察のところにも行かないし、他の誰かにこのことを話すことはしない。それでいいのよね?」
新道がそう言ってくれて妖花は罪悪感に押しつぶされそうになるが今はこれしかないと思った。
「はい。ありがとうございます」
妖花がそう言うと新道は妖花の頭を優しく撫でた。
「うん、分かった。妖花ちゃんの言う通りに従う。これは私の力を話したから起こったことだもの。私もこの力を他の人に知られるのはまずいから」
「先輩…本当にありがとうございます」
「うん、いいのよ」
2人はお互い涙を落としながらその場で心を休めた。妖花は新道の優しさに触れて、新道のことを本当に大切な先輩だと改めて自覚した。
「それじゃあ先に行こうか」
「はい!」
2人は揃って歩き始めるのだった。
♢♦
『おい、ここなのか?』
なごみの声を聞いて笹尾坊は答える。
『そうだとも。ここだ』
場面は変わり、赤い太陽の日を浴びながら滑空する三体の天狗はある場所にいた。それはある森の中。周りには何も無い、ただ木々が立ち並ぶだけ。静かだが妙な気配がある。
森の中なのに森の中ではないような。
『本当にか?』
もう一度聞かれて御嶽坊がうなづいた。
『あぁ、そうだとも。ワシもここだと思わんかったがな』
『着いてこい』
そう言われてなごみは2体の天狗の後に続いた。
そして木々が立ち並ぶ森の中に降りたった。
『よし、では行くぞ』
そう言われても何処に行くのか分からなかったがすると笹尾坊が木々の隙間を指さした。
『あそこだ』
『あの隙間か?』
隙間の奥には鈴がぶら下がっている。笹尾坊はその鈴がぶら下がる木の隙間に手を突っ込んだ。するとカランカランと鈴がなる音が聞こえる。
『一体何が起こるというの?』
すると森と思っていた場所の景色がみるみるうちに変わり、目の前には立派な村が姿を表した。
『これは一体…?』
頭の中では理解ができない。これが隠家というものなのか。まるで幻術にでもかけられているみたいだ。
『着いたぞ』
そう言われて一歩足を踏み入れるとそこはもう本当に村の中だった。先ほどまでの木々が広がった景色が嘘のように立派な木造出てきた建物が立ち並んでいる。
『初めてこんな場所にきた。これはどうなっているのか、元々この村があったのか、それとも私達が移動したのか…』
『移動はしていない。元々ここにはこの村があったんじゃ。人里離れたここならばバレる心配はないからな』
『たしかにその通りね。それにしても味のある建物ばかり並んでいる』
建物を見渡していると笹尾坊がこちらを見ながらぶつぶつと文句を言っている。
『おい、天野家の。そんなことよりもやることがあるだろう、景色に浸ってるんじゃねえ』
笹尾坊にそう言われてなごみはたしかにそうだと思い、笹尾坊のところへと向かう。
『それでどこへ宝寓坊を連れていく?』
なごみがそう聞くと御嶽坊が教えてくれた。
『あそこだ』
御嶽坊が手で示したところは村の中でも一際大きな建物。
その建物の前には木造の門が目立ち、門の奥の建物は大きな平屋がある。その家屋を取り囲むように壁がそり立っている。
明らかにこの家屋を所有している者がこの村で一番位が上であることがひと目で理解出来る。
『あそこに…あそこにあの方がいらっしゃるのか。近くに来ているとは聞いていたけれどこんなに近いところにいらしているとは…』
なごみはその門の目の前まで行くと女天狗が立っていた。
女天狗は長い頭髪に口紅やおしろいで化粧をし、歯にはお歯黒をつけていた。
服装はなごみが見る限り、着物と言うよりは小袖の五ツ衣を身にまとっていた。
『あの方は?』
すると女天狗はこちらを見るなり、一礼して一言だけ
『お待ちです』
そう言った。
『分かりました』『はい』
笹尾坊も御嶽坊も返事をして女天狗について行く。なごみも移動する2体について行く形で宝寓坊を肩に背負いながらゆっくりと進んだ。
『こちらからお入りください』
門を通り抜け、建物の入口の前で女天狗に言われた通りにその平屋の引き戸に手をかけようとした直後、勝手に扉が開いた。
『扉が勝手に開いた?』
『どうぞお入りください』
なごみのリアクションに誰も反応することなく、御嶽坊も笹尾坊も会釈をして平屋の中に入った。
なごみも続いて建物の中に入った。
中に入って初めに目に入ったのは長いどこまで続くかもわからないような障子や襖に囲まれた廊下だった。
廊下を目にしたあとすぐに玄関に下駄を置き、入口の間に足を踏み入れる。
足の裏にひんやりとした感触がした。こうして他人の家に上がるのは久しぶりに思う。
そんなことを思っていると笹尾坊や御嶽坊はすでに下駄を脱ぎ捨てて入口の間にいた。
女天狗も中に入り、なごみが下駄を脱いだことを確認してから話し始めた。
『では、こちらです。ついてきていただけますか?』
『もちろんだ』
御嶽坊の言葉の通り、なごみ達は女天狗について行く。
長く続く廊下を歩き、突き当たりを右折するとまた廊下が続いていた。
この建物はどれほど広いのだろうかとなごみは内心思っていた。
歩き、歩き、歩き続ける。ただ、この廊下を進む事に圧を感じる。凄まじい圧。緊張が高まる。自然と汗が止まらなくなる。なごみは一緒に入った2体に目を向けると同じように酷く汗をかいていた。
圧を感じたまま3体は歩き続けると女天狗が立ち止まる。
『こちらです』
手で示した襖の前に三体は立った。身体からは大量の汗が出ている。まだ襖の前に立っただけなのに。
『お前らも少し力を抜け』
『えぇ、宝寓坊のことを報告したらすぐに帰るとする』
頭をかきむしりながら笹尾坊はこちらを向いた。
『なんでお前がやったって証明のために俺たちがここまで来なきゃなんねえんだろうな』
『そうでもしないと私を信じてくれるものはいない。そこに関しては御嶽坊に感謝する』
『気にするな。こんな老いぼれのことなど』
素直に伝えると御嶽坊は優しく答えた。女天狗は会話が終わったところで一礼した。
『お入りください』
御嶽坊は襖に手をかけて開いた。
『失礼します』
開いた先は特に何もない和室だった。
『あれ?誰もいない』
すると目の前の襖が順番に音を立てて開いていく。
一、二、三、四、五────
数え切れないほど開く襖を見ながら三体の天狗はその場にとどまるしかなかった。
そして最後の襖が開いたのかその後から襖の開く音は聞こえなくなった。
『では、そのままお進み下さい』
足が竦む。なごみは緊張、圧その両方が進む事に強まる。1歩ずつ歩みを進める。
目線の先には御簾が見える。
『影、誰かいる…』
御簾の奥には影が見える。それが誰なのかは一瞬で理解できた。共に緊張が一気に押し寄せた。