暗殺者黒猫   作:ねこみみすき

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第一話[逃避行]

 黒猫は逃げた。

 爆風によって大穴が空き、炎上し始めたソレは、最早、家としての機能を失していた。机の上に残されていた財布をとっさに持ち、遊んでいたぬいぐるみはそのまま抱いて、只々、父から、この燃える家から遠く離れようと必死になった。必死になって逃げた。

 爆発の結果がどうなったのかは分からないし、確かめることもない。

 

 黒猫には、何故、父が突然狂ったか分からない。何故、突然母を殺して、黒猫を捕らえようとしたのか……分からぬからこそ、逃げなければならない。全てが分からないまま黒猫は走った。夜の深まっている方角へ向かって走り続けた。

 

 着の身着の儘、折角の白く美しいパーカーは血と煤と土とで灰色とも言えないぐちゃぐちゃとした色に汚れ、無惨な見た目になっていた。ただ、ぬいぐるみは無事で、そのことに黒猫は安堵する。これは、今ある唯一の母の形見であり、黒猫にとって離れることのできない、黒猫の家族……言うなれば妹であるのだ。

 このぬいぐるみは喪うまいという気持があることを、焦って走り続けている状況ではありつつも、思考の片隅の冷静な部分で黒猫は認識した。

 

 家のあったちょっとした大きさの集落を離れ、少しすれば、舗装された山道が延々と続く様子だけが人と文明を感じさせるような、何かがあるわけでもない山の森の中に入ってゆく。

 山の中を進み続ければ、充分に夜も深まったのか、数歩先も見えないほど暗くなってきた。時々、木の葉によるのか滑りそうになったり、飛び出している木の枝に刺さりそうになる。それでも黒猫は走り続ける。

 

 しかし、幼い体での長距離走は相当難しいものがあった。息が絶え絶えになるというのもまだ甘い表現なほど呼吸が錯乱してきた。

 酸素を取り込むために、早歩きに切り替えて、呼吸を整えてからまた走り出す。

 どれくらいそれを繰り返しただろうか。空腹と眠気と体力の限界に抵触する頃には、朝日が昇ってきていた。日が大地の裏側を通り抜けるくらいの時間を走り続けていたようだ。

 

 ……危機管理能力は働くのか、それだけしか頭が働かないのか、限界だということに気が付いてからは、とにかく休むべきだ、という思考だけが黒猫の頭を支配した。

 道から外れ、森の中、木々に隠れるように、黒猫は簡易的な、小屋とも言えないような、ただ雨風をしのげるだけの天幕のようななにかを魔法で作り、そこに入った。

 

 漸くひと息つける……そう感じた途端、色々な思い——専ら不安が襲ってきた。

 限りあるお金に、これからのことに父のことに、考えることにも、考えてもしょうがないことにも、黒猫は一杯いっぱいだった。

 希望も余裕もない。幸福というのは何だったかを思い出すことも叶わない。眠気が限界でうつらうつらとしているのに、とうてい眠ることができないかもしれない感じがした。

 水をたくさん飲み、簡単に毛布を敷いて、様々な気持に苛まれつつ、体を横にしていると、結局は寝ることができた。

 

 最悪の寝起きはオレンジ色の空とともに迎えた。昼も通り越してしまったようである。

 

 黒猫は、走らず、歩き始めた。これまでの道よりも更にくねくねと蛇行している管理の行き届いていないような道——起伏が激しく、木の葉によって滑りやすくなっており、木の根によってところどころ大きく隆起したり、逆にところどころ舗装が剝がれ、土が見えている・陥没しているような道——であったからであり、また黒猫の泣けなしの体力も回復できる見込みすらも立っていないからであり、昨日とは一転、心を冷静にして、慎重な行動を心掛けるようにした。山はなにがあってもおかしくはないし、森も然りであるから、より慎重に。

 

 小柄な黒猫にとっては、はっきり言えば崖に等しい道々だ。しかし、その歩みを止めることはなかった。

 もしもは意味の無い仮定だけれど、もしも——黒猫が父から逃げられていたが魔法が使えなかったとしたらそろそろ死んでいただろう。それが理由ではないが、だからこそ歩き続ける。

 

 道に沿っておおよそ一日以上歩き、そして漸く、新たな街と云えるのか、集落と云うのか、人の居るところに辿り着くことができた。

 ただ、これほど時間を掛けてしまい、黒猫は這々の体であった。何せ、水はあっても肝心の栄養、食糧の摂取は無かったのだ。

 真っ先に黒猫は、その街の中の食事処を見付けると、そこへ入ってゆく。

 

「……ごはんをください」

「は〜い……って、どうしたんだいその格好は!」

「……すぐ綺麗にします」

 

 山の森の中での事実上のサバイバルを生き抜いた黒猫のその外見は、とてつもない事件があったことを如実に思わせるものだった。血などはもはやどす黒くなって、服と木の葉や土をつなぐ接着剤となってしまった。嗅ぎ慣れてしまったが、全てと混じり合い、相当な悪臭がしていることだろう。木の枝や草でついた傷も足や腕のあちらこちらにある。見る人が見れば発狂してしまうのではないだろうか。

 だが、黒猫は魔法を使って、服の汚れを落とし、傷も治すまではいかずとも、治すことを補助する魔法を掛け、あんな姿だったとは想像もできない程、綺麗になった。食事にありつけるとなると、もう体力に気を付ける必要が無くなったのだ。

 変身の様子をみた店員は、少しほっとしつつ、やはり先程の光景が目に焼き付いているのか、心配そうに黒猫の目線に合わせて黒猫に訊ねた。

 

「なにかあったのかい? ご家族は?」

「……ごはんください」

「……わかったよ。このメニューの中から選んでくれ。一番に届けるからね」

 

 不都合な事柄があればそれを断固として無視するという気持で、もしこれ以上追求されたらすぐに逃げられるようにして黒猫は店員と話す。その様子に何を察してくれたのか、ただの優しい店員として、黒猫に接してくれた。

 

「……このカレーライスがほしい」

「はいよ。そこの席で待ってて」

 

 それほど待つことなく、注文したカレーライスが届いた。

 黒猫の手にはまだまだ大きいスプーンいっぱいに米とルーを乗せて、口に運んだ。

 久々のご飯はただただ美味だった。空のお腹にご飯が落とされ、お腹がびっくりしていたが、もっと満たされたいとお腹がそう強く願っているようだった。母の、もう食べられないご飯のことを思い出しながら一心不乱にスプーンを動かし続ける。

 

 人が居るという当たり前の温かみがきっかけか、美味しくあたたかいご飯がを食べたことがきっかけか、お腹が満たされるほど、色々な、考える余裕もなかったことたちが頭の中に戻ってきた。

 家族との思い出・母を目の前で喪ってしまった悲しみ、苦しみ・父の凶行への嘆き、怒り、苦しみ。……そして、絶望。

 遂に、黒猫は泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、泣きながら、そのご飯を、小さな体にも関わらず吸い込むかのように食べた。

 

 そして、食べ終わっても尚——寧ろ余計に涙が溢れてきてしまい、胸の中で何かが引っ掛かっているのか、呼吸もかなり乱れてうまくできなかった。サービスのコップに入った水を飲み込むタイミングも見付からない。

 視界はひどく歪んでいた。涙だけの所為ではなかった。目の前に在るはずのテーブルが目の前に——いや、現実に在るような実感すら持てず、カレーの皿だけが目の前に取り残されているように、浮かび上がっているようにひどく目立って見えた。

 うまく座れているのかさえ分からない。平衡感覚も失しているようで、地震が来た時のように世界がぐわんぐわんと揺れているようだった。足の感覚があるかも怪しい。きっと立ち上がるのも難しいのだと思えるほどで、出られる状態では全くなかった。

 それでもすぐに泣き止むことができるわけではなく、暫くそのままで居ると、肩をとんと叩かれ、テーブルを見るとパフェが置かれてあった。

 

 このままでは食べられないと、深呼吸をして、どうにか呼吸だけは整えてから、そのスプーンを手にして、今度はなるべく落ち着くように努めて食べ進める。

 甘いパフェを食べていると体の感覚も戻り始め、食べ終わる頃には、涙も出尽くしたようだった。

 

「……ごちそうさまでした」

 

 見えるようになった視界で周りを見てみると、店員も他の客も明らかに心配の目をしていることが分かった。これはきっとあたたかな視線で、このあたたかさに包まれたからこそ安心してご飯を食べることができ、安心して泣くことができたのだろう。

 しかし、落ち着いた今、その視線の一つ一つがピアノ線のような堅さで、黒猫を縛り付けにきているように感じてしまった。

 

 ……とにかく、早めにこの店から撤収して、更に逃げなければ。

 

 充分体力を回復できた、店員がどこかへ行った隙をついて、お金をテーブルに置いて、さっと店を出て、前よりも必死ではないが、走って逃げた。

 

 十分ほど走ってから息を整えるように歩く。まだまだ集落は続きそうであった。

 改めて冷静な思考を取り戻す。実際のところ、財布の中身は全く以て潤沢ではない。今日は食事を食べることができたが、一月も経てばとっくになにも食べることはできないほどに財布の中身は軽くなっているだろうし、そもそも都合良く街があるかはそれほど分からない。

 以前よりもクリアな思考で考えた末、財布の中身の殆どを使って、食糧を買い込んでしまうことにした。

 

 そして、街の店をいくつか回り、野菜や肉など、二週間分程度の食糧を手に入れることができた。これが尽きた場合のことはまだ考えられないが、二週間でどうにかしなければならない。

 食材などは魔法で収納した。これで嵩張ることはないが、維持するためには力がほんの少し必要だ。

 

 ……これまでは、そのほんの少しの力さえ温存せざるを得なかったと思うと、この食糧を無駄には決してできないという思いが強くなる。

 

 そして、準備とも言えない最低限の支度も終われば、黒猫はこの街を離れた。地図の書かれた看板を見付けたため、ある程度の道筋と行き先の目安も付けることができたのだ。それは、都市の方向、人が沢山居る方向、大きな道路に従って山を下る方向だ。

 人が多く居る方がきっと、衣食住の問題やお金の問題は解決しやすいだろう、そして、もし倒れた時に見付けてもらえるだろうからということが都市を理由だ。以前、黒猫が連れられて都市に旅行に来た時の人混みの印象も強く影響しているのだろう。

 

 目標を明確にしてから、黒猫は山を下り続けた。困難という困難に特別直面するわけではなかったが、減り続ける食糧に比例して恐怖は増していった。一方で、ぽつぽつと道に沿って点在する集落などで野菜などをお裾分けしてもらうこともあり、その時は心が満たされた。

 そして、おおよそ二週間が経った歩いているある時、山の森の隙間から、これまでとは全く違った景色が遠くに広がっているのが見えた。それは、山の麓、見えなくなるほど遠くまでの平野のその殆どが建物と概ね規則的に通る道で埋め尽くされた白・灰色の都市であり、その更に遠くの天球に張り付く清々しいほど澄んだ水色をした大空であった。

 

 圧巻だった。湧き上がる何かの感情を感じた。広く澄んだ大空の下に、どこまでも続く人の築いた文明の芸術だ。

 きっとこれが都市であり、目指している地なのだと直観することができた。それ以外有り得ないと確信ができた。

 何十分も目を奪われていた。感慨だろうか、安堵だろうか、名前の分からない感情が目に少しづつ貯まっていたようで、それを拭って目にその景色を焼き付けようと必死になった。

 

 気持を再び整理してから歩き出し、それ程時間を掛けずに最後のぽつぽつと民家とくねくねとした道のある集落を降りきると、そこはその先からはずうっと家々が建ち並び、整備された概ね真っ直ぐな道が真ん中を貫く——まさしく、都市の中だった。

 これまでとは全く異なる大きさの街だった。どれほど歩き続けても景色は変わったようで変わらず、逆側の端にはとうてい辿り着きそうにない。大きな通りに出てみると、そこを歩く人と車の量は圧倒的で、大きな店がどこまでも連なり続けていて、これまでとは全く規模の違う所だった。

 生活で使う色々なものが沢山売っている店があり、食料品だけを売っている店もあり、色々な食べ物の専門店らしき店も多くあり、贅沢も贅沢な景色だった。

 

 ——これまで、逃げても逃げても、終わりが見えてこなかった毎日だった。もう、逃げるのを止めてもいいのだろうか。そう思ってしまった。これ以上逃げ続けるという選択肢は最初から無かったというのに、いざ都市の中に立っているとちっぽけながら消極的にそう思ってしまうのだ。

 

 だが……いざここで止まってもいいと思っても、それだけだ。だからどうしたというのだろう。都市に着いた以上のことが起きるわけではなかった。取っ掛かりがない。

 食糧は尽きかけていて、お金は尽きている。魔法が使える以外、黒猫が持つものはない。目的も無いようなものだ。何をしなければならないのだろう。

 

 歩き回って見付けた公園の東屋の中に落ち着き、考えるべきことは何かをまず考える。

 ……まず、黒猫は命の危機の状況にある。父のことを除けば、それは、食糧を得られる見込みがないことに起因する問題だ。それは、お金を手に入れられる見込みがないからである。すなわちお金のことを考えなくてはならないということだ。

 

 では、お金はどのようにして手に入れられるのか。それを考えなくてはならないが……考えるまでもなく明らかなことで、お金は働くことによって手に入れられる。つまり、これから黒猫がすべきことは、働くところを見付けることだ。

 

 食糧をあと一日分にして、黒猫は働く場所を見付けるため、早速、店の沢山ならんだあの大通りへ行き、行く店行く店の店員に黒猫は働かせてくださいと懇願した。

 だが、その反応は、非常に悪かった。次の店、次の店と尋ねてもだめであり、終いには逃げ出すことになってしまった。

 反応は主に、「子供は働けないよ」や「保護者の方は居る? お父さんとかお母さんとか」といったものであり、遂に警察を呼ばれそうになったのだ。

 

 息を整えつつ、再び公園の東屋へと戻る。

 「子供は働けない」……どこへ行っても言われたのだから、これはつまり、今の黒猫では、働いてお金を得るということができないというのが常識ということだ。そして、保護者……父と母の存在を確認されたということは、子供には保護者の存在が必須で、それが常識であるということだ。黒猫自身も、漠然と母や父が居ない生活を考えたことはこれまで無かったし、突然働かなければならない事態になるなど思ってもみなかったことだ。

 だが現実として、父は母を殺し、黒猫までをも殺そうとした。そして、黒猫は子供と言われる年齢で母を喪い、父から命を掛けて逃避している。

 

 何もさせてもらえない子供が独りぼっち。これが絶望でなくてなんだと云うのだろう。

 

「死にたくない」

 

 黒猫は死にたくない。

 そうだ。死にたくないのだ。そうでなければ、必死に父の元から逃げたりもしていないし、こうして食べ物を食べる為の手段を考えていない。絶対に、死にたくないのだ。空腹が続こうが、傷がどれほど増えようが、どれだけ不味い食べ物を食べ続けることになっても、死にたくないのだ。

 死にたくないから、この状況が絶望なのだ。

 

 今更戻ることもできない。そもそも、既に食糧も一日分しかないような状況でどこかへ行くという選択肢を選ぶことは叶わない。

 

 であれば……絶望的な状況なのだ。後が無いからこそ保身的にならず足搔き続けよう。限界までは、必死に都市で働く方法を探し続けよう。それでももし限界ならば、食べられるものを盗んで、また逃げて、生き延びよう。殺されるよりも安全だ。それに都市には食べ物が潤沢にあるのだ。

 

 どれほど黒猫は同じ言葉を紡いできただろうか。期待を捨てず、「ここで働かせてほしい」と店を回った。大通りの店がだめならば、そうでないような小道などにある小さな店を。

 

 どれくらい歩いたのか、とっくに食糧は尽きた状態で、それでも数日は店を回り続け、断られ続け……遂に、これでは生きられないと盗みを決行することになってしまった。店から食糧になりそうなものをこっそり魔法で収納して、逃げ足だけは鍛えられてしまったのか、その日は黒猫自身も驚く程遠くまで逃げることができた。その分、都市の際限ない広さにも感心することになったが。

 食べたご飯は、それでも涙が出るほど美味しかった。

 

 盗みによる成功体験は、しかし黒猫を蝕むことはなかった。それでもお金が必要である状況に変わりは無かったからであろう。「ここで働かせてほしい」と言い続ける生活は変わらなかった。

 

 そして、おおよそ逃げ始めてから四週間が経過した頃、黒猫はある、住宅街の入り組んだ小道の中、地下に続く階段を下った先にある店に入った。

 ここは閉店直後のバーのようで、中には人が一人、店長であろう相貌のいかつい、白髪の交じった五十代ほどの黒狐のおじさんが居た。

 

「……こんな時間に。……ここは子供の来るところじゃあねぇぞ」

「ここで……働かせて」

「子供が働くようなところでもねぇ」

「働かせて……ほしい」

 

 グラスを拭く手から目線を外して黒猫を見て、少し眉を嚬める。

 

「……おめぇ、親は居ねぇのか?」

「居ない」

「そうかよ……何ならできる」

「言われたことは……する。魔法も……つかえる」

「そうかよ」

「…………」

「取り敢えず、飯を食って寝ろ。おめえはどう見てもぼろぼろに見える。話はそれからだ」

 

 出されたご飯は、決してあたたかなご飯というわけではなかったが、盗んで食べたものよりも美味しいものだった。

 

 食事中も話し掛けてこない……店長は、これまで出会ってきた人とは全く異なる、無愛想で、黒猫の事情に興味がなさそうな風に接してくる人だった。しかし、黒猫の触れられたくない部分に触れようとしてこない優しい人だった。

 それがどうにも黒猫にとってはどうにも心地良く、食事を食べ終えて、黒猫はそのまま言う通りにソファに倒れ込むことができた。こんなに安心感を感じられたのはカレーを食べた時以来だった。

 そのまま毛布を掛けられて、黒猫は、初めて泥のように眠ることができた。

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