「一心様、それは?」
「酒だ」
「飲みすぎは体に悪いですよ、一心様」
「そう言うな。これはあの隻狼が持って来てくれたものだ。貰い物ならば飲まぬ方が悪いというものだろう?」
「またそんな屁理屈を仰って……」
呵々と笑っているように見えて、その実一心の体はもう限界が近い。病と老いは確実にその身を弱らせており、刀もあと幾度振れるかというほど。
ゆえに、最早虎口の櫓に天狗が出ることももうない。一心の数少ない楽しみもなくなった今、酒が少しでも気晴らしになるならと、エマは苦言を呑み込んだ。
「それにしても、あの方がお酒を……」
「珍しいこともあったものだろう。相変わらずの仏頂面で、手に入れたからと不愛想に差し出してきたのだ」
「手に入れたから……ですが、それは」
「左様。竜泉……まったく、酒好きならば一も二もなく飲まずにはいられぬ名酒を、何の衒いもなく差し出す男は初めてよ」
竜泉。これを語るに言葉はいらず、飲めばわかる酒の中の酒。滅多に手に入らぬものだが、一心も酒好きの例に漏れずこれを好んでいた。
「しかし……」
「はい」
「どれだけ美味い酒だろうと、最早真に酔うべき時も過ぎた……それだけは些か勿体ないことをした」
「それは……」
酒は飲めば酔うというものでもなく。心と時に余裕がなければ、真に酔えるものでもなし。
そう思えば、一心が真に酔えたのは泡沫の夢だったのかもしれない。若かりし頃の葦名は弱く、美味い酒はあれど酔うことはできず。
国乱れて天守まで辿り着いた時、初めて真に酔ったのだ。腐れ縁ともいえる馬鹿者どもと盃を囲んだ、あの頃のなんと楽しかったことか。
しかし、今再び葦名に斜陽が差している。孫までもが変若水に魅入られたこのような時に、真に酔えるわけもない。
考えてみれば、一度は国を盗ったという事実が己の周りを狂わせたのかもしれない。酔った頭にそんな考えが過って尚、ありし時に天守で飲んだ酒の味が忘れられぬというのだから、本当に酒とは仕方のないものだ。
「……エマよ、おぬしには苦労をかけるな」
「一心様……」
「全てが終われば……おぬしも、あの狼と酒でも飲めばよいかもしれぬのう。あの時の、わしと梟のように」
「……あの御方は、酒にはお強いのでしょうか」
「カカカ! さてな……梟の倅ゆえ、弱いやもしれぬな。梟も、飲めばすぐにあのでかい図体を真っ赤にしていたものだ」
盃に湛えられた水面を眺め、ほんの少し目を細めた。源の水は美味く、ゆえに葦名の酒も美味く。けれど、酒がどれだけ美味くともそれだけでは無意味。
己は酒の本当の味を知ることができたが、まだ幼いあの子にそれを遺してやることはできなかろう。それだけが老いたこの身の、幾許かの心残りか。甘く苦い記憶を刺激する水にひとつ瞬き、過去を映す水面ごと一息に飲み干した。