葦名の城を逃れた後、落ち延びた先は城下にほど近い寺だった。
寺といっても、坊主の一人もいない。すでに打ち捨てられ、本堂は札だらけの異様な様子。ここを最後に去った坊主は、余程恐ろしいものでも見たというのか。
そう思えば不気味な気はしたが、今の葦名はどこもかしも危なくて仕方ない。この荒れ寺は城下にほど近い割に、静かで安全なようだった。深い竹林に囲われ、侍たちもここまでは追ってこないようだ。
得体の知れない怖ろしさと、実体のある恐ろしさ。どちらを取るかと言われれば、前者を我慢する方が命は助かろう。そう思い、荒れ寺を眺めながら背嚢を下ろした。
その荒れ寺には先客が二人いた。一人は怖ろしい猿のような風貌の仏師。仏頂面で静かな割に、一瞥するだけで妙な威圧感を感じる人物だった。
もう一人は真面目くさった侍。風体は落ち武者と称するに相応しく、供養衆であった頃に数え切れぬほど見た死体のような男だった。けれど、その男は決して死体にはならない男だった。どうにもこうにも、死なぬのだ。
「こりゃ驚いた……かつて仲間と共にいた頃、世の中には死なぬ者もいると聞いたが、まさか自分がお目にかかることがあろうとは」
「気味が悪いか?」
「いや? 死体よりはマシだな」
「……変わった奴だ」
「俺からしたらあんたの方が変わってると思うが……」
仏師に比べれば話せる奴だったが、それ以上の会話はなかった。
飽きるほどに無残な死体を見てきた自分からすれば、死なない体というのは実によさげなものに思えたが、その侍は常にぼうっと所在なさげにしていた。あれでは商いもできぬのだから、会話が弾むはずもない。
かといって、害になるわけでもない。仏師と違って見るだけで恐ろしく思うほどでもないのだから、あまり気にすることもなかった。だから、次にその男について思い出したのは、自分を助けた隻腕の忍びと再会した時のことだ。
「お前は……」
「よう、久しぶりだな」
少し驚いたものの、この忍びならば驚くほどのことでもない。何せ、城を守る数多の兵すら単身掻い潜ってしまうほどの力量なのだ。きっと望めばどこへでも行けるのだろう。
忍びの男は相変わらず無愛想だったが、他に客のいない此処では貴重な相手だった。会話は弾まないが、商いは捗る。
久々に銭を数える最中、時折竹林の奥からあの侍と忍びが話している声を耳に挟むことがあった。立場は違えど刀を振る者同士、自分よりかは話すことがあるのだろうか。侍の男が動くことは相変わらずなかったが、竹林の奥から出てくる忍びの男はいつもより少しばかり穏やかなようにも見えた。
それが変化したのは、ある時忍びの男が奇妙な大太刀を背負って現れた日のこと。一度いつものように竹林の奥へ向かったかと思えば、忍びの男はすぐに戻り、仏の前に難しい顔で座り込んでいた。
そうしてしばらくして再び竹林の奥へ戻ったかと思えば、ふと風に乗って血の匂いがしたのだ。かつて供養衆にいた頃、嫌になるほど嗅ぎ慣れた匂い。その時、何となしに悟った。どういうわけかは知らないが、きっとあの侍は死んだのだろうと。
「……あの真面目侍、ようやく死ぬことができたのか」
「……話したことがあったのか」
「まあ、少しな」
戻ってきた忍びと少しばかり話し、カラカラと笑った。人死にの話題に笑い声とは不謹慎だと思われそうだが、死体というのはやっぱり嫌になるほど見慣れている。慣れることが嫌で衆を抜けたが、そう簡単に性分は変わらぬものだ。
この忍びも、さぞ血生臭い生き方をしているようだ。笑ったぐらいで咎め立てされることはあるまいと踏んでいたものの──
「……ならば、いい」
こんな風に呟かれるなんて、思ってもみなかった。一体何がいいというのか。困惑した心境が伝わったのか、忍びは珍しく目を細め、静かに口を開いた。
「忍びも侍も、敗れ落ちた先で骸となれば、墓どころか記憶にも残らぬ。だが、お前があの侍について知っていたのなら……少なくとも、あいつは誰かの記憶に残るのだろう。ならば、いいのだ」
虚を突かれ、思わず黙り込んだ。確かにその通りだ。そして、思えばそのために供養衆というものはあったのだ。
侍は名誉のために腹を切るという。ならば、その骸には名誉が残るのだろう。忍びは忠義のために毒すら煽るという。ならば、その骸には忠義が残るのだろう。
けれど、それらを見届ける者がいなければ、それはないのと同じではないのか。何かを遺すために骸になるが故に、当人にはもう語る口がない。ならば、誰かがそれを見届けてやらねば。
「……そうだな。そうだ。あいつは本当に、真面目すぎて嫌になるような奴だったよ」
「……そうか」
今、葦名のそこかしこで溢れているような骸に、何が残っているのかはわからない。けれど、あの半兵衛という名だった骸には、自分が見届けた矜持が残るのだろう。去っていく忍びの背を一瞥し、ちゃりんと銭をひとつ鳴らした。