狼の掌篇   作:華歳ムツキ

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怨嗟の鬼

誰もいなくなったお堂の中、義手に最後の調整を施していた。

これから変若の御子を連れ、西にあるという神なる竜の故郷へ向かうのだ。本当に辿り着けるのかはわからない。けれど、どうあっても戻ることはないだろう。ゆえに、ここでこうして義手を触るのも最後になるのだろう。

ふと手を止め、お堂の中を見回した。鬼仏ばかりなれど、彫りかけのものはない。仕上がりに差はあれど、どれも一応は形を成している。まるで、己の身に起きることを受け止め、きちんと支度を済ませてから出ていったかのようだ。

 

調整に使う蚤を置き、虎口の櫓にいた老婆の言葉を思い出した。

歪みをもたらすのは何も回生だけではない。どういった出来事にせよ、良くない出来事というのは人の世に歪みを生む。

回生は竜咳という形で現れる。ならば、戦によって溢れた怨嗟はどこへ向かうのか。

 

今までずっと、為すべきことを為すためにただ斬り続けた。それの是非や善悪を考えたことすらなかった。ただそういうものだと思っていた。

だが、斬った者が意識しようとしまいと、斬られた者より怨嗟は溢れる。そして、戦ともなればその流れも強く、そのままにすれば世は破綻する。

どこぞでその流れを自覚し、世を憂い、受け止めようと決めたのが仏師だったというのか。その結果が、落ちた城の虎口に現れた炎の鬼か。

今でも、あの鬼を斬った時のことは忘れられない。留めを刺すその刹那に聞こえた「ありがとう」という言葉。あの声が今も、耳の奥で焼けている。

 

こうして最後に仏師がいた場所へ戻ってくると、ほんのわずかに決意が鈍った。

主のためにも、ここを去らねばならない。けれど、戦が終わったわけではないのだ。これからも怨嗟は流れるだろう。だがもう、受け止める者はいない。

怨嗟の鬼を倒さなければよかったとは思わない。あれは苦しんでいたのだ。誰にも告げられず、一人静かに苦しんでいたのだ。それを終わらせてやれたのだから、それでいいのだ。

けれど、彼が苦しんでまで留めていた流れを放って立ち去ってよいのかと考えてしまう。ぼんやりと考えに沈みかけたその時、壁際にあった鬼仏がひとつ軽い音を立てて倒れた。

 

どうやら風で倒れたらしい。そういえば少し前に、この御堂は隙間風がひどいのだと仏師が言っていた。

その時は状況が状況だったため、その言葉の裏を汲み気まずくなったものだが──

 

 

「……いるのか?」

 

 

そんなわけはない。此処の主はもういないのだ。自分がそれを一番よくわかっている。けれど、無意識の内にそんな言葉が出ていた。

当然、返事があるはずもない。けれど、ずっとずっと彼がいたこの場所には、彼の思いが漂っているように思えた。

仏は彫る者の心を映すという。ゆえに、自分には怒り貌しか彫れぬのだと仏師は呟いていた。けれど、怒りと一口に言ったところでそれが悪いものだとも限らない。誰かのために怒れるのは、性根の優しい人間だけだろうて。果たして彼の見た怒り貌は、誰が何に対して怒っていたものなのか。

 

まじまじと手の中にある鬼仏を眺めた後、改めてそれが倒れぬよう壁際に置いた。この位置ならば、割けた壁の隙間風で倒れることもないだろう。今度は部屋の中から壁の裂け目を一瞥し、今度こそお堂を出るために踵を返した。

もう一度だけ、仏師が座っていた場所を振り返る。最早主なき場所。けれど、だからこそ今ならば言えるのかもしれない。主がいる内に言っていたなら、どんな不愛想な顔が返ってきたものかわからぬものだから。

 

 

「……いってくる」

 

 

これでよかったのだろうか。金剛山へ向かって歩きながら、再びそう思った。けれど、荒れ寺を去る頃には答えを得ていた。これで、よかったのだ。

 

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