山岳地帯の麓に到着したロッドは、息をつきながら辺りを見回した。どうやら担当者はまだ来ていないようだ。期待と不安が入り混じる中、ロッドは持参していたサンドイッチを取り出し、ラナが作ってくれたと考えると自然と笑みがこぼれる。
「腹が減っては戦は……戦をしにきたわけじゃないけどな」
そう呟きながら一口かじったところで、背後から軽い足音が聞こえた。振り返ると、そこには見覚えのある姿が。
「……パル、だよな?」
「ああ、そうだ」
パルリーネは冷静な表情で頷いた。
「今回も君の担当になった。不満でもあるのか?」
「い、いや……ちょっとホッとしたっていうか……」
どこか気恥ずかしそうに目を逸らすロッド。パルはそんな彼に視線を向けたまま、ふと手に持っているサンドイッチに気づく。
「それは君が作ったのか?」
「違うよ。幼馴染が作ってくれたんだ」
「……幼馴染、か」
その言葉に、パルの指が一瞬ピクリと反応する。
「幼馴染……女なのか?」
「ああ。料理が上手くてさ、外で仕事するときは、よくこうやってサンドイッチを作ってくれるんだ」
ロッドは少し自慢げに言いながらサンドイッチを差し出す。
「一つ、食べるか?」
「私は忙しいんだ。君ものんびりとしてないで準備を――」
パルの言葉が途切れた。その原因は、彼女のお腹から聞こえた、明らかな音。
「……」
「……」
短い沈黙の後、ロッドは笑いを堪えながらサンドイッチをもう一つ取り出した。
「ほら、最後の一つ。これで俺も気兼ねなく次の準備ができるよ」
パルは一瞬ためらい、意固地になろうとしたが、お腹の主張には逆らえないらしい。無言でサンドイッチを受け取ると、小さく呟いた。
「……礼を言う」
その仕草がどこか可愛らしく見え、ロッドは思わず口元を緩めた。
「さて、腹も満たしたし、準備はできたな」
そう言いながら、ロッドは再び山を見上げた。
山道を進むロッドとパルリーネ。険しい岩肌を抜けるたびに風が肌を撫で、彼らの息遣いが自然の静けさの中で小さく響いていた。だが、この山道はただの登山道ではない。試験の名の下に設置された数々の罠――ベアトラップや、ピアノ線に引っかかると起動するボーガン――が至る所に仕掛けられている。
「……やっぱり嫌な山だな」
ロッドは溜息をつきながら周囲を警戒する。
「せめてトラップの詳細くらい教えてくれればいいのに」
「それが試験というものだ。手探りで進むことも冒険者の力だと教えられただろう?」
パルは前を歩きながら振り返り、軽く肩をすくめた。
ビーストの出現しやすいエリアやトラップが仕掛けられている場所の概要は事前に知らされていたものの、詳細な内容までは伏せられている。それゆえ、ロッドは慎重に足を運びつつも不安を隠せない。
そんな中、茂みから現れたのは、鋭い目を光らせたクマ型のビーストだった。
「こいつは……やばいな」
しかし、パルリーネは冷静だった。
「落ち着け。クマ型のビーストは音を立てずに近づくと気づかれにくい。茂みの影を利用して背後に回り込むんだ」
彼女の助言に従い、ロッドは慎重に動いた。そして、クマ型ビーストが気づく前にその場を離れることに成功する。
「ふぅ……助かったよ」
その後もシカ型のビーストに遭遇したものの、パルの的確な指示とロッドの機転で危機を乗り越え、二人は着実に山を登り続けた。そして、山の中腹に差し掛かった頃だった。
「ここで少し休憩しよう」
パルが立ち止まり、険しい表情を和らげながらロッドに向き直った。
「実は、この近くに温泉があるんだが、まだ時間もある。どうだ?」
「温泉?」
「山の中腹に湧き出ている秘湯だ。試験の一環として、休息のタイミングを見極めるのも重要だろう」
ロッドは一瞬驚いたものの、すぐに顔をほころばせた。
「大自然の中の温泉か……うん、一度入ってみたかったんだ」
パルリーネも満足そうに頷き、二人は山道を外れ温泉地を目指すことにした。
木々が生い茂る小道を進むうちに、次第に温かな湯気が漂い始めた。岩に囲まれた静かな温泉が目の前に広がると、ロッドは思わず感嘆の声を漏らした。
「すごいな……本当にこんな場所があるなんて」
パルリーネは小さく微笑みながら背負っていた荷物を下ろした。
「さあ、君もリラックスするといい。だが、油断は禁物だ。ここも試験の一部かもしれないからな」
温泉地に到着した二人は、それぞれ順番に入浴することにした。パルリーネはリュックから薄い布を取り出し、簡易的な仕切りを作る。
「これで互いに気を使わずに済むだろう」
そう言い残し、パルリーネは温泉の側に設けた仕切りの裏で着替えを始めた。
ロッドはその間、焚き火のそばに腰を下ろし、水筒に入れてきたミルクをすすりながら体を温める。山の静寂に包まれ、焚き火のはぜる音が心地よく響いていた。
しかし、ふと視線を上げたロッドは絶句する。
仕切り布越しに、パルリーネのシルエットがくっきりと映し出されていた。温泉の湯気が照らすランプの光のせいで、彼女の肢体が布一枚を通して浮かび上がっていたのだ。
「……っ!!」
ミルクを飲んでいたロッドは、思わず勢いよくそれを吹き出してしまう。
「……大丈夫か、ロッド?何か喉に詰まらせたか?」
着替えながら心配そうに声をかけるパルリーネ。その様子に、ロッドは冷や汗をかきながら手を振った。
「い、いや!なんでもない!気にしないでくれ!」
しかし、ロッドの視線はどうしても布越しのシルエットから離せない。凹凸のはっきりしたラインが目に焼きつき、彼の理性を激しく揺さぶっていた。
「……落ち着け、俺。こんなの見るつもりじゃなかったんだ……」
なんとか正気を保とうとするロッドだったが、パルリーネが仕切りの向こうで温泉に浸かる音が聞こえるたび、いたたまれない気持ちが増していく。
しばらくしてパルリーネが湯から上がり、仕切りの外に出てくると、ロッドは焚き火をじっと見つめ、まったく目を合わせようとしない。
「……どうした?急に静かじゃないか?」
パルリーネが首をかしげると、ロッドは苦笑いを浮かべながら一言、ぼそりと言った。
「着替える時は……ランプを消した方が、恥をかかなくて済むぞ」
その言葉を聞いた瞬間、パルリーネの顔がみるみる赤く染まる。
「なっ……!?君、まさか――」
ロッドはそれ以上何も言わず、仕切り布の向こう側へと足早に入って行った。
一人取り残されたパルリーネは、ロッドの言葉の意味を理解すると、顔を手で覆いながらため息をついた。
「……まったく、なんてことだ。次は気をつける……特殊な力を使ってないだろうな?」
「使うわけないだろ。俺の目は透視する力じゃない。というか俺を変態みたいに言うな!」
「そこまでは言ってないが……」
そう呟きながら、彼女は焚き火の近くで体を温めるロッドの背中をちらりと見やった。その姿は、どこか気まずそうでありながらも、少しだけ楽しそうにも見えた。
ロッドは温泉に浸かる準備を始めていた。服を脱ぎ、丁寧に畳んでいると、温泉の湯気が彼の周りを薄く包み込む。
その時だった――
「さっきのお詫びと言ってはなんだが、この入浴剤……」
突然、仕切り布が開かれ、パルリーネが顔を覗かせた。
「――っ!!」
ロッドは驚きの声を飲み込むと同時に、身を屈めて慌てて隠れる。だが、既に手遅れだった。
「……す、すまない!」
パルリーネはロッドの体を見て硬直し、すぐに顔を赤くして布を閉じようとした。しかし、気まずさを振り払うように布の隙間から入浴剤を差し出す。
「これを使ってみてくれ。体の疲れは取れると思うから」
「……なんで一言声をかけてから開けないんだよ……」
ロッドは深いため息をつきながらも、入浴剤を受け取った。
「ありがたく使わせてもらうよ」
その後、ロッドは温泉に浸かり、湯気とともに心身の疲れを解きほぐしていく。湯の中で目を閉じると、先ほどの出来事が脳裏に蘇り、つい笑みが漏れる。
そんな中、ふと気になったことを尋ねた。
「パルはどうして冒険者検定の試験官になろうと思ったんだ?」
湯気の向こうから返ってくる声は、いつになく慎重で静かなものだった。
「……過去の自分から逃げたかったからだ」
「逃げたかった?」
ロッドは首をかしげながら問い返す。
「いつも失敗ばかりしていたからな。私は一人の方が気楽でいいと思った。だから山を登っていれば、自分の世界に没頭できる。そんな単純な理由だよ」
湯に揺らぐロッドの表情が柔らかくなる。
「でも、こうして一緒にいると、全然失敗ばかりの人には見えないけどな」
「……お世辞はいい。事実は変わらないから」
パルリーネの声には、どこか諦めにも似た響きが混じっていたが、ロッドはそれ以上追及しなかった。ただ、湯気の中でぽつりと呟く。
「もし何かあったら、俺が手を貸すよ。今は検定中の受検者だけどさ」
その言葉に、パルリーネは驚いたように目を見開き、そして小さく微笑んだ。
「……君に頼るようなことがあれば、その時は考えよう」
そう言って背を向ける彼女の顔が、少しだけ柔らかくなっていることをロッドは知らなかった。
険しい山道を抜け、二人はようやく指定されたエリアへとたどり着いた。目の前には、待ち構えるように立ちはだかる巨大なオオカミ型のビースト。
その白い体毛は太陽の日差しを反射して輝き、逆立つ毛並みが威圧感を放つ。鋭い牙を剥き出しにしながら、よだれを垂らすその姿は、獲物を狩る捕食者そのものだった。
「オオカミ型ビーストって俊敏な動きと驚異的な視力が特徴だよな?」
ロッドは額に汗を滲ませながら、緊張気味に問いかける。
「敵は一体とはいえ、懐に飛び込むのは容易ではない。その目を使うか?」
パルリーネが静かに提案する。その言葉にロッドは一瞬ためらい、彼女の顔色を伺った。
「使いたいけどさぁ……」
ロッドの躊躇を見て、パルリーネは深いため息をつく。
「仕方ない。今回だけ、私が隙を作ってやる。その間に敵の弱点を見つけるんだ」
彼女の声には、迷いのない決意が込められていた。パルリーネは迷うことなくリュックを地面に置き、登山道具のピッケルを手に取ると、ビーストに向かって駆け出した。
その俊敏さと果敢さにロッドは驚き、思わず腰が引ける。
「よ、よし。この間に……弱点を探さないと!」
ロッドは気を取り直し、意識をビーストに集中させる。周囲の光景がぼやけ、目の前の敵だけが鮮明に見えるようになった。彼の能力が発動する。
「弱点は……目?どういうことだ?」
ロッドは目の前の光景を観察しながら、頭の中をフル回転させる。しかし、考えがまとまらない。そんな時、足元に置いてあったランプが目に入った。
「……そうか!これか!」
ロッドはランプを掴み、ビーストに向かって走り出す。
「パル、あと少しだけ時間を稼いでくれ!」
パルリーネは彼の叫びに頷き、ビーストの足元に滑り込むようにして注意を引き続けた。
ロッドは全力で走りながらランプの芯を調整し、明るさを最大にした。そして――
「これで目を開けてられるか、試してみろ!」
彼はランプをビーストの顔に向けて振りかざした。突如放たれた眩しい光に、白狼のようなビーストは目を細め、苦しげに頭を振る。その隙を逃さず、ロッドは手に持ったナイフを構えた。
「これで終わりだ!」
勢いよく飛び出したロッドの一撃が、ビーストの喉元を捉えた。白い体毛が揺れ、巨大な体が地面に崩れ落ちる。
「助かったよ。パルのおかげで――」
息を切らしながらも、ロッドはパルリーネの方へ振り返った瞬間、異変が起きた。
「――っ!」
白狼のビーストが突然目を開き、絶命したと思われたその体が起き上がる。剥き出しの牙を振りかざし、ロッドに襲いかかってきたのだ。
間髪入れず、パルリーネが疾風のように駆け出す。その足取りは神がかっているようだった。彼女はロッドの右腕を掴み、そのまま握られていたナイフをビーストの開いた口の中へ押し込んだ。
――グシャッ。
鋭い刃がビーストの喉を貫き、今度こそ巨体は完全に動かなくなった。
「……これで終わりだな」
静かに呟きなから、パルリーネはナイフを取り出してに差し出す。
「ビーストが絶命したかどうかを確認することも、冒険をする上で必要不可欠なことだ。一つのミスが命取りになる。ランクDの検定が加点式だから減点対象にはならないが、ランクCの場合一回のミスで即不合格になる。肝に命じておくように」
「……あ、ああ……」
ロッドは複雑な表情でナイフの血を拭き取りながら頷く。ふと、パルリーネの言葉が心に響いた。
「罪のない生き物の命を奪うのは耐え難いものだ。私たちは常に与えられている存在。人間の傲慢さ欲深さが生き物をビーストにしてしまうんだ。でも命の重み、尊さだけは決して忘れないでいてほしい」
パルリーネの真剣な眼差しと言葉に、ロッドは思わず息を飲む。
少しの静寂が流れた後、パルリーネは胸ポケットから合格証を取り出しロッドに手渡した。
「おめでとう。君の検定は合格だ。次も――」
ロッドはパルリーネの言葉を遮るように口を開いた。
「パルは昔、騎士だったりしない?」
「なっ――!?」
パルリーネは顔を赤らめ、慌てて詰め寄る。
「君はどさくさに紛れて、その目を私に使ったのか?」
「使ってないよ!俺の能力は嘘を見つけられても、暴くことはできないんだ。結局、詳細までは自分で推測するしかないんだよ」
「じゃあ、どうして私が騎士だと思ったんだ?」
「さっきのビーストを相手にした時の動きが、並の冒険者の動きとは思えなかったんだ。素人の俺でも、パルは凄腕の冒険者なんじゃないかなって思っただけだよ」
ロッドの言葉に、パルリーネは一瞬だけ目を伏せた。そして小さく息をつくと、静かに口を開いた。
「……そうか」
「でもさ、パルが騎士だったとしても、そうじゃなかったとしても、俺にとって今の担当者はパルであることに変わりはないんだけどさ」
その言葉に、パルリーネは少しだけ目を見開いたが、すぐに小さく微笑んだ。
「生意気なことを言うな。ただ、そう思ってくれているなら、それでいい」
空が茜色に変わり始め、二人の間に流れる空気は少しだけ柔らかくなっていった。ロッドは手にした合格証を見つめながら、
「次のランクの担当者は……さすがにパルじゃないよな?」
横を歩くパルリーネは一瞬眉をひそめたが、すぐに軽く鼻で笑った。
「私なら簡単に合格を出すと思っているのか?」
その声には微かに棘があったが、ロッドは慌てずに肩をすくめるだけだった。
「そんなこと、思ってないよ。ただ……」
ロッドは空を見上げ、小さく息を吐いた。
「パルならちゃんと俺のことを評価してくれるんじゃないかって、期待してただけさ」
その言葉にパルリーネは一瞬だけ言葉を失った。彼の真っ直ぐな視線と素直な言葉が、彼女の胸を微かに揺さぶる。
「……評価するに値する実力を見せることだな」
パルリーネが素っ気なくそう言うと、ロッドは少しだけ笑みを浮かべ、
「次も頑張るよ、じゃあな」
と足早に村へ向かって歩き出した。その背中を見送りながら、パルリーネは目を細める。
「期待……か」
自分でも気づかないように、彼女の口元にわずかな笑みが浮かんだのは、冷たい風のせいではなかった。