僕が診療室に先回りして、コップやら猿轡やらをせっせと準備していると、トイレを出たり入ったり繰り返していたフォンファが下を向いたまま挙動不審にフェードインしてきた。
ドアはちゃんと開いていたはずなのに、後から気づいたみたいに、彼女の輪郭だけが遅れてついてくる。
(さては、この子──)
後ろを向いて中腰のまま動かなくなったと思うと、歯医者の椅子、通称ユニット、めがけて後ろっとびした。
パキョン
愛椅子から聞こえてはいけない音がする。ゴーレムの超重量級ボディプレス200万回試験を突破しました、と営業の子は笑顔で言っていた。
なるほど、二百万一回目には対応していないらしい。うん、今決めた。診療代に上乗せしよう。
全身が「どうだ」と叫んでいた。くしゃくしゃに丸めて広げた紙のやつな皺が目の周りに集まっていた。全力で目を瞑っている。
「ウチは! まな板の上の鯉っす! せいぜい、煮るなり、焼くなり、好きにするっす!!」
その宣言に、僕は内心で深々とため息をついた。いや、もちろん良い意味で、だ。
(──強がってんのか)
ビビりイキりキョンシーヤンキー美少女。
属性を単語に分解すると暴力的だが、まとまると妙に完成度が高い。刺さる人には心臓まで届くだろう。
だからといって顔に出すわけにもいかないので、僕はできるだけ「何も感じていません」という顔を作る。
「はあい、じゃあねえ、椅子倒しますよお」
あまりにも淡々とした僕の態度に、フォンファは一瞬だけ動揺したように見えた。その眉がピクリと上がるのが、なんだか妙に人間らしい。
「あん? ……なんかユルくっすか? さっきまで逃げ回ってた奴っすよね?」
相変わらず目は閉じているが、目の周りの皺が取れてきた。
「万全なのでね」
一拍おいて、僕は続ける。
「それにさ」
「な、なんすか」
僕はボタンを操作して椅子を倒した。
「勇気、出して来てくれたんでしょ?」
ユニットのモーター音が止まる。
「──っ!! ……べ、べつに、まぁ、歯医者なんて怖くねえっすし」
口調はぶつぶつ強がり交じりだけど、彼女は大人しく口を開けた。
「来てくれた以上、診るよ。僕が、勇気を出す番だ」
抵抗の気配はなし。ようやく始まる診察。
フォンファは瞑っていた目を恐る恐る開く。
目を丸くしたのは、ほんの一瞬だけだった。その驚きはすぐに呆れへと降格し、ジト目に更新された。
「なんすかその格好。それがアンタのいう勇気の証なんすか」
「さ、どこが痛いんだ?」
「アンタのその格好っす」
僕は返事の代わりにフルプレートアーマーのガントレットをグーパーしてチャカチャカ鳴らす。歯医者さんに必要な音では、決して、無い。
先に断っておくが、普段の僕は真面目にグローブをしていた。今、この時まで。
僕の異様な装備が逆に安心材料になったのか、フォンファは大きく息を吐いたあと、ようやく本題に入った。
「四人パーティの冒険者が襲いかかってきたんっす。どう見ても強そうなウチにっすよ? 愚か者っす。面倒っすから、一人だけ食って。ハラいっぱいで帰ろうとしたら、三人がかりでまたきて。骨まで食べてやったっす。もったいないっすから」
得意げに語りながら、フォンファは胸を張ってふんぞり返る。その態度があまりにも堂々としているせいで、言ってる内容の異常さが一瞬頭からすり抜けていきそうになる。でも、冷静になればなるほどツッコミどころが多すぎて、僕の思考回路が軽くフリーズする。
「はあ、へえ。食べ残しの倫理観とかあるんだ」
自分で言いながら、妙に疲れる。だって、普通の医療面接じゃないだろう。それとも僕が間違ってる?
「バックパックごといったら、なんか硬いもの噛んじゃって。これ」
フォンファが何かを差し出してくる。反射で受け取る。
「いやそんな魚の小骨みたいな言い方──」
見慣れたような、白い。細い。長い。
歯、に見えなくもないが、どちらかというと牙だ。蜘蛛系のモンスターを連想する。
ただ、牙にしては長すぎて、歯にしては鋭すぎる。中途半端に嫌な存在感。
伺うように目線をフォンファに戻すと、こちらを上目遣いするフォンファと目がバチリと合う。その仕草に、一瞬だけ僕は言葉を失った。さっきまでのイキり具合が嘘みたいに、少しだけ無防備な表情だ。
──危ない。
寝かされているせいで、いろいろと物理法則が仕事を放棄している。
それに、寝てるせいで胸元がゼログラビティ……いや、誤用、御用。これは良くない。相手は患者だ。ていうかキョンシーだ。冷静になれ。コホン、と咳払いして異物を金属のトレーに置く。コトンと金属と金属が合わさるような音が響く。
最初の恐怖感がすっかり消え失せているのが自分でも分かる。代わりに、彼女の顔立ちが妙に際立って見えるのは、角度の問題なのか、それとも単なる気のせいか? どっちにせよ、僕の仕事は歯を見ることだ。それ以外を見る余裕なんて、あるわけがない。
被りを振ると、横倒しになった異物の先から何かが垂れ、白煙を立ち上らせてシューシュー言ってる。嫌な音ランキングがあれば、かなり上位に入るタイプのやつだ。
──火?
いや、違う。
これ、毒だ。
すっかり消え失せたはずの恐怖心が、シャトルランの如く、全力疾走してくる。金属のトレーが溶け始めていた。
──瞬間、理解する。
触れていた時間が、ほんのわずかでも長ければ、どうなっていたか。
……診る側が、死ぬ。
その事実に、背筋が遅れて冷える。
モンスター歯医者とは、未知と共にするという持論は、今は、置いておこう。フォンファだけでも手一杯なのに、これの正体を突き止める余裕なんて、あるわけがない。
無理。
僕は即座に、窓を開けて、それをトレーごと外へ放り投げた。シューシュー音がドップラー効果を教えながらどっかへ行った。
解決。
「オッケー。もう一回口をあけてくれる?」
僕はそう言いつつ、頭の中でスイッチを切り替える。
「え、どこやったんすか」
診療モードに移行する。余計な邪念を振り払うためにも。
「うん。はい、あーん」
これが僕の防衛手段だ。見なかったふり。
キョトンとしつつ従命した彼女の口の中を覗き込むと、右上の犬歯が露髄してる。そら痛いわけだ。
「うん、全部抜いて入れ歯にしましょう」
冷静を取り戻すために、軽く冗談を言うと、すぐにカウンターが飛んでくる。
「更地にしてリゾート地にしましょうのテンションで言うなっすよ」
「だって、もし僕を食べようとした時、入れ歯だったら外せる」
軽口を叩き合う間にも、僕の頭の中では処置の手順を組み立てている。このくらいなら想定の範囲内だ。たぶん。
フォンファはというと、椅子の端を掴んだまま、露骨に引いている。ごめん。
「冗談さ。神経が生きてるかどうか調べるね。電気流すよ」
両手をかざし、微弱な電流を彼女の欠けた犬歯に流す。歯髄電気診という人間にも使う魔法診断。痛ければ神経は生きていて、痛くなければ神経は死んじゃってる。
「痛い?」
「まあたあく」
あんぐりと開けた口から間延びした答えが返ってきた。
「……神経が死んでるのか。いや、そもそも本体が死んでるのか。腐敗してる? それとも……」
自分で言っておいて、言葉の矛盾に少し笑ってしまう。腐敗云々を考えるのも変な話だが、これでも真面目にやっているのだ。頭の中で専門書のページをめくってみるが、「キョンシーの歯」について記載されていた記憶は一切ない。歯科医としてここまで未知の症例に当たることがあるなんて、思いもしなかった。
「ふん。ウチの方が詳しいっすね。本当にモンスター専門の歯医者なんすか?」
うるせえ黙ってろ素人め、と強く念じていると、フォンファが得意げにキョンシー談義を語り始める。
「キョンシーは腐らねーっす。そもそも、RESが高いから電気なんか効かねーっす。ちなみにDEFもたけーっす」
なるほど。厄介な種族だ。おまけに物理も魔法にも強く、硬いときた。それって診療する側からすると地獄でしかなくない?
まあ、そんなことを口に出しても仕方ない。僕は首に下げていたルーペを装着し、視線を透視モードに切り替える準備を始めた。
「透視と視野拡大、使うね」
「は? 変なことに使うんじゃないっすか!?」
ユニットに寝転んだまま、フォンファは両腕で自分の胸元を抱きしめるようにガードして、じろっと僕を睨む。そんな反応も想定内だ。僕は特に動揺することもなく、平然と返した。
「そうだとしたら、
「それはそうっすけど、言い方癪っすね」
ルーペを装着し、両目に片手をかざす。
魔法陣をルーペの間を挟むようにして多重展開する。
この時ばかりは少しテンションが上がる。だって、格好良いじゃないか。自分で言うのもなんだけど、仕事中にしか見せないこの真剣な表情と魔法の光の組み合わせは、なかなか決まっていると思う。
もちろん、フルプレートアーマーを着てなかったらの話だ。
閑話休題。本題に戻ろう。
血液は黒っぽい色をしている。それだけ見ると、どう見ても「死んでる」と言いたくなる。でも、わずかに血流らしき動きもあるようだ。微妙だ。腐敗しているわけではなさそうだし、拡大像に炎症性細胞の浸潤もない。
「麻酔なしでいいか?」
「痛いのだけは嫌っす!!!! 帰りまっす!!!!」
裏返った声で返事をするフォンファ。強(気)キャラのわりに、椅子の端をより強く掴んでいる。
メリメリ悲鳴を上げる愛椅子を横目に、その姿が妙に人間臭くて、微笑ましく感じる。やっぱり歯医者は、種族を問わず怖い存在なんだな。
強気だったのも、実は怖さを隠すためだったのかもしれない。隠せてはないけど。
ちょっとだけ頬が緩んだ、その瞬間だった。
何かが弾け飛び、ルーペを貫いて、僕の瞼へ、ソフトなキスをした。
「ひえっ」
間の抜けた声が口から漏れる。
引き抜く。これは、愛椅子の破片。愛椅子ったら。まさかそこまで僕のことを。
破片を置く。カタ、と一度鳴って、それから細かく震え続けた。
恐怖とは、伝染するものらしい。それも、物理的に、だ。