怪物の歯医者さん   作:寳田 タラバ

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最新話を執筆していたところ、構成的にさらに良くできそうな手応えがあり、現在「Haisha of the Dead」章を中心に大幅な改稿を進めています。

既存話についても順次ブラッシュアップ予定のため、多少の差異や揺れが生じる可能性がありますが、ご容赦いただけますと幸いです。

また、改稿に伴い伏線や描写の意味合いも強化されていく予定ですので、既読の方も「Haisha of the Dead」を読み返していただけると、より楽しんでいただけるかと思います。

今後とも『怪物の歯医者』をよろしくお願いいたします。


Haisha of the Dead Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 ——なのに。

 

 指は、止まらなかった。

 

 止めたはずの思考の外側で、手だけが勝手に動く。誰の命令でもないのに、筋肉が了解している。

 

 ほんの数ミリ。

 

 たったそれだけで、世界は十分に壊れる。

 

 リーマーが、さらに奥へと沈む。

 

 逃げ場のない細い管の、そのさらに奥。存在してはいけない“余白”へ。

 

 その瞬間。

 

 “向こう側”が、こちらを掴んだ。

 

 ——ぬるり、と。

 

 金属越しに伝わるはずのない感触が、直接、神経に触れてくる。

 

 媒介が、意味を失う。

 

 距離が、無効化される。

 

 手応えだけが、こちらの中に直接“置かれる”。

 

 柔らかい。

 

 粘つく。

 

 温度がある。

 

 呼吸はしていないのに、拍動みたいなリズムだけがある。

 

 生きている。

 

 いや、違う。

 

 生きている“みたいに振る舞っている”何か。

 

「——っ、が……ッ!」

 

 脳の奥が、焼ける。

 

 焼ける、という比喩が足りない。

 

 もっと雑で、もっと原始的な“壊れ方”をしている。

 

 噛み砕かれる前の、内側から裂ける感覚。

 

「アマギ先生!? どうしたゆ!? 麻酔うつゆ!」

 

 視界の端でキリアが動く。

 

 慌てふためいて僕の周りを駆け回っている。

 

 僕は、手で制した。

 

 ここで麻酔を入れたら、この違和感は“ただの痛み”に回収される。

 

 それは敗北だ。

 

 痛みの正体が分からないまま、痛みだけを消す。

 

 それは医療じゃない。逃げだ。

 

 見ていられないのか、キリアが目を覆っている。

 

 ——いや、違う。

 

 見えているから、外している。

 

 僕は歯を食いしばりながら、続ける。

 

 止めない。

 

 止めたら、たぶん、戻れない。

 

 歯じゃない。

 

 僕の口腔でもない。

 

 もっと奥。

 

 名称のない場所。

 

 存在の境界線が曖昧なところを、内側から引き裂かれるみたいな痛み。

 

 同期は成立している。

 

 だから、これは——フォンファの痛み。

 

 そのはず、なのに。

 

 混ざっている。

 

 痛みの中に、明確に“異物”がある。

 

 方向が違う。

 

 質が違う。

 

 これは、単なる侵害受容じゃない。

 

 信号じゃない。

 

 接触だ。

 

 “触られている”。

 

 しかも——こちらが触れたからじゃない。

 

 向こうが、触りにきている。

 

 リーマーの先が、わずかに引かれた。

 

 僕の手じゃない。

 

 器具でもない。

 

 もっと内側。

 

 歯の中で、何かが、動く。

 

 あり得ない。

 

 あり得ないはずだ。

 

 歯の内部構造に、こんな可動域は存在しない。

 

 閉鎖空間だ。

 

 逃げ場も、余白も、そんなもの——

 

 ——ある。

 

 “あるから、触れている”。

 

 思考がそこに届いた瞬間、視界がぶれた。

 

 何かが二つ、首元に飛び込んでくる。

 

 速い、というより、最短だった。

 

 空間をショートカットしてきたみたいに、途中がごっそり抜け落ちている。

 

 ガチン、と。

 

 嫌な音がした。

 

 硬質な何かと、柔らかい何かが、噛み合う音。

 

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

 

 遅れて、衝撃が来る。

 

 ——僕の首元。

 

「……は?」

 

 視界が、近い。

 

 近すぎる。

 

 距離感が壊れている。

 

 さっきまでフォンファは、ユニットに寝ていたはずなのに、

 

 いつのまにか身体を起こして、

 

 ——僕の首を覆うように置かれたキリアの腕に、食らいついている。

 

 その動きに、躊躇がなかった。

 

 迷いも、ためらいも、判断もない。

 

 結果だけがそこにあった。

 

 狙ったわけじゃない。

 

 でも——

 

 最短で、そこに届いている。

 

 偶然じゃない。

 

 計算でもない。

 

 そのどちらでもないのに、最適解だけが選ばれている。

 

 おかしい。

 

 狙ってやった動きじゃない。

 

 もっと、反射に近い。

 

 いや、それすら違う。

 

 反射ですらない“何か”。

 

「……ッ、なに、して……」

 

 言葉の続きが、出ない。

 

 理解が追いつかない。

 

 追いつく前に、状況が先へ行く。

 

 フォンファの目が、近すぎる。

 

 さっきまでのそれとは、明らかに違った。

 

 焦点が、合っていない。

 

 でも、外れてもいない。

 

 “目”を見ていない。

 

 その奥。

 

 もっと、別の何かを——

 

 ——排除するみたいに。

 

 ぞわり、と。

 

 背筋に遅れて理解が走る。

 

 これ、は。

 

 敵意じゃない。

 

 ——違う。

 

 一拍、遅れて理解が追いつく。

 

 これは、

 

 排除だ。

 

 フォンファに同期しようとしている魂を、

 

 その“内側”にいる別の誰かが、

 

 外側ごと、まとめて噛み砕こうとしている。

 

 対象の特定が、雑だ。

 

 雑なのに、正確だ。

 

 守るために、壊す。

 

 そのロジックだけが、綺麗に通っている。

 

 ぎり、と。

 

 キリアの肉を食い破る音が聞こえた。

 

 繊維が裂ける、現実の音。

 

 ファンタジーが、現実に食い込んでくる音。

 

「んあッ!」

 

 短い声。

 

 でも、そこに焦りはない。

 

「キリちゃん!!」

 

 叫んでいるのは、僕だけだ。

 

「……、あ」

 

 フォンファの喉が、小さく鳴る。

 

 遅れて、表情が揺れる。

 

 今の今までそこにいた“何か”が、

 

 少しだけ、奥へ引っ込む。

 

「……なん、で……」

 

 力が、わずかに緩む。

 

 噛むための力じゃない。

 

 噛んでしまった“後”の力だ。

 

 自分でやったことに、自分が追いついていない顔。

 

「……ウチ……?」

 

 問いが、空中でほどける。

 

 その一瞬。

 

 ——噛みついているのが、“誰か”から“彼女”に戻る。

 

 境界線が、元の位置に“戻される”。

 

 さっきまで確かに存在していたはずの“別の気配”が、

 

 何事もなかったみたいに、引いていく。

 

 残るのは、血の匂いと、

 

 状況だけを理解していない当事者の顔。

 

 その隙間に、僕は息を吐いた。

 

 長く。

 

 遅れて。

 

 やっと、呼吸という行為を思い出したみたいに。

 

 隙間に、僕は息を吐いた。

 

 ……いや、吐いたつもりだった。

 

 肺が、うまく動かない。

 

 代わりに、喉の奥に、別の何かが溜まっていく。

 

 熱い。

 

 焼ける、というより——滲みてくる。

 

 痛みが、遅れて形を持つ。

 

 同期の回路を通って、フォンファの痛みとは別の“何か”が、こっちに流れ込んでいる。

 

 さっき触れた、“あれ”だ。

 

 歯の中にいるはずのないもの。

 

 構造の外側にあるはずのもの。

 

 それが——

 

 まだ、繋がっている。

 

「……っ、ぐ……」

 

 声が、漏れる。

 

 抑えたつもりだったのに、喉が勝手に鳴った。

 

 まずい。

 

 このままじゃ、引きずられる。

 

 痛みだけじゃない。

 

 “あっち側”に。

 

「アマギ先生?」

 

 キリアの声が、すぐ近くで落ちる。

 

 腕はまだ、フォンファに噛まれたまま。

 

 なのに、声はいつも通りだ。

 

 ちょっとだけ安心する。

 

 ちょっとだけ、腹が立つ。

 

 なんでそんな平常運転なんだよ。

 

「……キリちゃん、そのまま」

 

「このままゆ?」

 

「いい。離さないで」

 

「了解ゆ」

 

 即答だった。

 

 迷いがない。

 

 未来視、ってこういうときズルい。

 

 こっちは今、命削って判断してるのに。

 

 いや、だからこそか。

 

 ズレがない。

 

 最短距離で、正解を踏み続ける。

 

 だったら——

 

 こっちも、最短でやる。

 

 僕は片手で口元を押さえながら、もう片方でポケットを探る。

 

 冷たい金属が、指先に触れた。

 

 引き抜く。

 

 音がした。

 

 チャリ、と。

 

 場違いなほど軽い音。

 

「……それ、なにゆ」

 

「保険」

 

「顔が、保険使う人の、顔じゃない、ゆ」

 

「使うときはだいたいこうなる」

 

 軽口を叩きながら、僕はそれを指に引っ掛ける。

 

 歯列に沿うように、金属を滑らせる。

 

 カチ、と。

 

 噛み合う。

 

 ——装着完了。

 

 患者から模って作った。

 

 バンパイアのグリルズ。

 

 見た目はただの悪趣味なアクセサリー。

 

 機能は、全然ただじゃない。

 

 吸着。

 

 固定。

 

 そして——

 

 吸引。

 

「ちょ、それ」

 

 キリアの声が、ほんの少しだけ低くなる。

 

「それ、使うやつゆ?」

 

「使うやつだよ」

 

「やばいやつゆ」

 

「うん、やばいやつ」

 

 認識は一致してる。

 

 だから話が早い。

 

 僕はフォンファに近づく。

 

 正確には——

 

 キリアの腕と、フォンファの口元、その“交点”に。

 

 まだ噛みついている。

 

 まだ、離れていない。

 

 なら——

 

 そこが、いま一番“繋がっている場所”だ。

 

「……フォンファ」

 

 声をかける。

 

 反応は、遅れて返ってきた。

 

「……っ、な、に……っす……」

 

 息が荒い。

 

 目が揺れている。

 

 さっきまでの“別の誰か”は、引っ込んでいる。

 

 でも——

 

 完全に消えてはいない。

 

 奥で、まだ、こっちを見ている。

 

 分かる。

 

 さっき、触ったから。

 

「ちょっとだけ、我慢して」

 

「……もう、してるっす……」

 

「もうちょっとだけ」

 

「ブラック企業っすか……」

 

「ご覧の通りホワイトだよ。命の保証はないけど」

 

「最悪っす……」

 

 軽口が返ってくる。

 

 大丈夫だ。

 

 まだ、こっちにいる。

 

 だったら——間に合う。

 

 僕は、グリルズを噛み締める。

 

 内部機構が起動する。

 

 微細な振動。

 

 圧の変化。

 

 吸引路が、開く。

 

 狙いは二つ。

 

 キリアの中に入ったキョンシーの感染物質と、

 

 さっき、繋がった“異物”。

 

 痛みの中に混ざっていた、あれ。

 

 あれを——

 

 引き剥がす。

 

「……いくよ」

 

 誰にともなく言って、

 

 僕はそのまま、キリアの腕——正確には、そこに噛みついているフォンファの口元へと、自分の口を重ねた。

 

 ぐ、と。

 

 距離が、ゼロになる。

 

 視界が、近すぎて歪む。

 

 呼吸が、混ざる。

 

 キリアの腕越しに、フォンファの息がかかる。

甘い匂いと、鉄の匂いが、混ざっていた。

 

 境界が、また曖昧になる。

 

 でも今度は——意図的だ。

 

 グリルズが、喰らいつく。

 

 肉じゃない。

 

 血でもない。

 

 もっと奥。

 

 “接続”そのものに。

 

 次の瞬間。

 

 ——来た。

 

 引っ張られる感覚。

 

 違う。

 

 引っ張っているのは、こっちだ。

 

 なのに、向こうも、離れない。

 

 絡みつく。

 

 粘る。

 

 抗う。

 

 まるで——

 

 意思があるみたいに。

 

「……ッ、く……!」

 

 喉の奥で、何かが暴れる。

 

 吐きそうになる。

 

 でも吐いたら終わる。

 

 これは外に出すものじゃない。

 

 抜くものだ。

 

 ぎり、と歯を食いしばる。

 

 金属が軋む。

 

 顎が悲鳴を上げる。

 

 でも止めない。

 

 止めたら、たぶん——

 

 戻る。

 

 あっちに。

 

「……アマギ先生」

 

 キリアの声が、近い。

 

「それ、引けてるゆ?」

 

「……半分」

 

「半分は?」

 

「向こうが持ってる」

 

「綱引きゆね」

 

「負けたらどうなると思う?」

 

「考えたくないゆ」

 

「僕も」

 

 軽口が、震える。

 

 でも、まだ笑える。

 

 だったら——

 

 まだ、負けてない。

 

 ずるり、と。

 

 何かが、動いた。

 

 境界の奥で。

 

 剥がれる音がする。

 

 音じゃない。

 

 感覚だ。

 

 でも、確かに“剥がれている”。

 

 もう少し。

 

 もう、少し——

 

 そのとき。

 

 不意に。

 

 フォンファの目が、かっと見開いた。

 

 さっきと同じ。

 

 でも、違う。

 

 焦点が——

 

 合った。

 

 僕に。

 

 真正面から。

 

「——あ」

 

 声が、重なる。

 

 僕と、

 

 それと。

 

 同時に。

 

 ぞわり、と。

 

 全身の毛が逆立つ。

 

 掴んでいる“何か”が、

 

 こっちを認識した。

 

 その瞬間。

 

 引き合っていた力の向きが、反転する。

 

 引く、じゃない。

 

 ——引き込む。

 

「……っ、待——」

 

 遅い。

 

 次の瞬間、視界が暗転した。

 

 飲み込まれるみたいに。

 

 意識が、内側に落ちる。

 

 音が消える。

 

 感覚が途切れる。

 

 最後に見えたのは——

 

 フォンファの口の奥。

 

 じゃない。

 

 そのさらに奥。

 

 “歯の中じゃない場所”が、口を開けている光景だった。

 

 

 

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