——なのに。
指は、止まらなかった。
止めたはずの思考の外側で、手だけが勝手に動く。誰の命令でもないのに、筋肉が了解している。
ほんの数ミリ。
たったそれだけで、世界は十分に壊れる。
リーマーが、さらに奥へと沈む。
逃げ場のない細い管の、そのさらに奥。存在してはいけない“余白”へ。
その瞬間。
“向こう側”が、こちらを掴んだ。
——ぬるり、と。
金属越しに伝わるはずのない感触が、直接、神経に触れてくる。
媒介が、意味を失う。
距離が、無効化される。
手応えだけが、こちらの中に直接“置かれる”。
柔らかい。
粘つく。
温度がある。
呼吸はしていないのに、拍動みたいなリズムだけがある。
生きている。
いや、違う。
生きている“みたいに振る舞っている”何か。
「——っ、が……ッ!」
脳の奥が、焼ける。
焼ける、という比喩が足りない。
もっと雑で、もっと原始的な“壊れ方”をしている。
噛み砕かれる前の、内側から裂ける感覚。
「アマギ先生!? どうしたゆ!? 麻酔うつゆ!」
視界の端でキリアが動く。
慌てふためいて僕の周りを駆け回っている。
僕は、手で制した。
ここで麻酔を入れたら、この違和感は“ただの痛み”に回収される。
それは敗北だ。
痛みの正体が分からないまま、痛みだけを消す。
それは医療じゃない。逃げだ。
見ていられないのか、キリアが目を覆っている。
——いや、違う。
見えているから、外している。
僕は歯を食いしばりながら、続ける。
止めない。
止めたら、たぶん、戻れない。
歯じゃない。
僕の口腔でもない。
もっと奥。
名称のない場所。
存在の境界線が曖昧なところを、内側から引き裂かれるみたいな痛み。
同期は成立している。
だから、これは——フォンファの痛み。
そのはず、なのに。
混ざっている。
痛みの中に、明確に“異物”がある。
方向が違う。
質が違う。
これは、単なる侵害受容じゃない。
信号じゃない。
接触だ。
“触られている”。
しかも——こちらが触れたからじゃない。
向こうが、触りにきている。
リーマーの先が、わずかに引かれた。
僕の手じゃない。
器具でもない。
もっと内側。
歯の中で、何かが、動く。
あり得ない。
あり得ないはずだ。
歯の内部構造に、こんな可動域は存在しない。
閉鎖空間だ。
逃げ場も、余白も、そんなもの——
——ある。
“あるから、触れている”。
思考がそこに届いた瞬間、視界がぶれた。
何かが二つ、首元に飛び込んでくる。
速い、というより、最短だった。
空間をショートカットしてきたみたいに、途中がごっそり抜け落ちている。
ガチン、と。
嫌な音がした。
硬質な何かと、柔らかい何かが、噛み合う音。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
遅れて、衝撃が来る。
——僕の首元。
「……は?」
視界が、近い。
近すぎる。
距離感が壊れている。
さっきまでフォンファは、ユニットに寝ていたはずなのに、
いつのまにか身体を起こして、
——僕の首を覆うように置かれたキリアの腕に、食らいついている。
その動きに、躊躇がなかった。
迷いも、ためらいも、判断もない。
結果だけがそこにあった。
狙ったわけじゃない。
でも——
最短で、そこに届いている。
偶然じゃない。
計算でもない。
そのどちらでもないのに、最適解だけが選ばれている。
おかしい。
狙ってやった動きじゃない。
もっと、反射に近い。
いや、それすら違う。
反射ですらない“何か”。
「……ッ、なに、して……」
言葉の続きが、出ない。
理解が追いつかない。
追いつく前に、状況が先へ行く。
フォンファの目が、近すぎる。
さっきまでのそれとは、明らかに違った。
焦点が、合っていない。
でも、外れてもいない。
“目”を見ていない。
その奥。
もっと、別の何かを——
——排除するみたいに。
ぞわり、と。
背筋に遅れて理解が走る。
これ、は。
敵意じゃない。
——違う。
一拍、遅れて理解が追いつく。
これは、
排除だ。
フォンファに同期しようとしている魂を、
その“内側”にいる別の誰かが、
外側ごと、まとめて噛み砕こうとしている。
対象の特定が、雑だ。
雑なのに、正確だ。
守るために、壊す。
そのロジックだけが、綺麗に通っている。
ぎり、と。
キリアの肉を食い破る音が聞こえた。
繊維が裂ける、現実の音。
ファンタジーが、現実に食い込んでくる音。
「んあッ!」
短い声。
でも、そこに焦りはない。
「キリちゃん!!」
叫んでいるのは、僕だけだ。
「……、あ」
フォンファの喉が、小さく鳴る。
遅れて、表情が揺れる。
今の今までそこにいた“何か”が、
少しだけ、奥へ引っ込む。
「……なん、で……」
力が、わずかに緩む。
噛むための力じゃない。
噛んでしまった“後”の力だ。
自分でやったことに、自分が追いついていない顔。
「……ウチ……?」
問いが、空中でほどける。
その一瞬。
——噛みついているのが、“誰か”から“彼女”に戻る。
境界線が、元の位置に“戻される”。
さっきまで確かに存在していたはずの“別の気配”が、
何事もなかったみたいに、引いていく。
残るのは、血の匂いと、
状況だけを理解していない当事者の顔。
その隙間に、僕は息を吐いた。
長く。
遅れて。
やっと、呼吸という行為を思い出したみたいに。
隙間に、僕は息を吐いた。
……いや、吐いたつもりだった。
肺が、うまく動かない。
代わりに、喉の奥に、別の何かが溜まっていく。
熱い。
焼ける、というより——滲みてくる。
痛みが、遅れて形を持つ。
同期の回路を通って、フォンファの痛みとは別の“何か”が、こっちに流れ込んでいる。
さっき触れた、“あれ”だ。
歯の中にいるはずのないもの。
構造の外側にあるはずのもの。
それが——
まだ、繋がっている。
「……っ、ぐ……」
声が、漏れる。
抑えたつもりだったのに、喉が勝手に鳴った。
まずい。
このままじゃ、引きずられる。
痛みだけじゃない。
“あっち側”に。
「アマギ先生?」
キリアの声が、すぐ近くで落ちる。
腕はまだ、フォンファに噛まれたまま。
なのに、声はいつも通りだ。
ちょっとだけ安心する。
ちょっとだけ、腹が立つ。
なんでそんな平常運転なんだよ。
「……キリちゃん、そのまま」
「このままゆ?」
「いい。離さないで」
「了解ゆ」
即答だった。
迷いがない。
未来視、ってこういうときズルい。
こっちは今、命削って判断してるのに。
いや、だからこそか。
ズレがない。
最短距離で、正解を踏み続ける。
だったら——
こっちも、最短でやる。
僕は片手で口元を押さえながら、もう片方でポケットを探る。
冷たい金属が、指先に触れた。
引き抜く。
音がした。
チャリ、と。
場違いなほど軽い音。
「……それ、なにゆ」
「保険」
「顔が、保険使う人の、顔じゃない、ゆ」
「使うときはだいたいこうなる」
軽口を叩きながら、僕はそれを指に引っ掛ける。
歯列に沿うように、金属を滑らせる。
カチ、と。
噛み合う。
——装着完了。
患者から模って作った。
バンパイアのグリルズ。
見た目はただの悪趣味なアクセサリー。
機能は、全然ただじゃない。
吸着。
固定。
そして——
吸引。
「ちょ、それ」
キリアの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「それ、使うやつゆ?」
「使うやつだよ」
「やばいやつゆ」
「うん、やばいやつ」
認識は一致してる。
だから話が早い。
僕はフォンファに近づく。
正確には——
キリアの腕と、フォンファの口元、その“交点”に。
まだ噛みついている。
まだ、離れていない。
なら——
そこが、いま一番“繋がっている場所”だ。
「……フォンファ」
声をかける。
反応は、遅れて返ってきた。
「……っ、な、に……っす……」
息が荒い。
目が揺れている。
さっきまでの“別の誰か”は、引っ込んでいる。
でも——
完全に消えてはいない。
奥で、まだ、こっちを見ている。
分かる。
さっき、触ったから。
「ちょっとだけ、我慢して」
「……もう、してるっす……」
「もうちょっとだけ」
「野戦病院っすか……」
「ご覧の通りただの歯医者だよ。命の保証はないけど」
「最悪っす……」
軽口が返ってくる。
大丈夫だ。
まだ、こっちにいる。
だったら——間に合う。
僕は、グリルズを噛み締める。
内部機構が起動する。
微細な振動。
圧の変化。
吸引路が、開く。
狙いは二つ。
キリアの中に入ったキョンシーの感染物質と、
さっき、繋がった“異物”。
痛みの中に混ざっていた、あれ。
あれを——
引き剥がす。
「……いくよ」
誰にともなく言って、
僕はそのまま、キリアの腕——正確には、そこに噛みついているフォンファの口元へと、自分の口を重ねた。
ぐ、と。
距離が、ゼロになる。
視界が、近すぎて歪む。
呼吸が、混ざる。
キリアの腕越しに、フォンファの息がかかる。
甘い匂いと、鉄の匂いが、混ざっていた。
境界が、また曖昧になる。
でも今度は——意図的だ。
グリルズが、喰らいつく。
肉じゃない。
血でもない。
もっと奥。
“接続”そのものに。
次の瞬間。
——来た。
引っ張られる感覚。
違う。
引っ張っているのは、こっちだ。
なのに、向こうも、離れない。
絡みつく。
粘る。
抗う。
まるで——
意思があるみたいに。
「……ッ、く……!」
喉の奥で、何かが暴れる。
吐きそうになる。
でも吐いたら終わる。
これは外に出すものじゃない。
抜くものだ。
ぎり、と歯を食いしばる。
金属が軋む。
顎が悲鳴を上げる。
でも止めない。
止めたら、たぶん——
戻る。
あっちに。
「……アマギ先生」
キリアの声が、近い。
「それ、引けてるゆ?」
「……半分」
「半分は?」
「向こうが持ってる」
「むこうって──ゆゆ。綱引きゆね」
「負けたらどうなると思う?」
「考えたくないゆ」
「僕も」
軽口が、震える。
でも、まだ笑える。
だったら——
まだ、負けてない。
ずるり、と。
何かが、動いた。
境界の奥で。
剥がれる音がする。
音じゃない。
感覚だ。
でも、確かに“剥がれている”。
もう少し。
もう、少し——
そのとき。
不意に。
フォンファの目が、かっと見開いた。
さっきと同じ。
でも、違う。
焦点が——
合った。
僕に。
真正面から。
「——あ」
声が、重なる。
僕と、
それと。
同時に。
ぞわり、と。
全身の毛が逆立つ。
掴んでいる“何か”が、
こっちを認識した。
その瞬間。
引き合っていた力の向きが、反転する。
引く、じゃない。
——引き込む。
「……っ、待——」
遅い。
次の瞬間、視界が暗転した。
飲み込まれるみたいに。
意識が、内側に落ちる。
音が消える。
感覚が途切れる。
最後に見えたのは——
フォンファの口の奥。
じゃない。
そのさらに奥。
“歯の中じゃない場所”が、口を開けている光景だった。