頭が、どうにかなりそうだった。
とにかくうるさい。
言葉になりきれない「 」が、四方八方を飛び交っている。
怒り。
痛み。
悲鳴。
安堵。
懐かしさ。
名前の付かない感情まで、雨みたいに降ってきては身体を通り抜けていく。
雑踏だった。
駅前より、人間だった。
一人分の頭蓋骨に収めるには、多すぎる。
僕の考えが僕のものかどうかすら怪しくなる。
その中で。
一つだけ。
そこだけ空気が違った。
雑踏のど真ん中に鳥居が立っているような。
誰も近寄らない空白。
「おまえ」
声は低かった。
怒鳴ったわけでもない。
なのに、それだけで周囲の喧騒が一歩引く。
「出てけよ」
意味は分からない。
でも。
たぶん、僕に言っている。
それだけは理解した。
だから僕も、考えなかった。
考えたら遅い。
ここはそういう場所だと、本能だけが知っていた。
僕は駆けた。
男との距離は数歩しかなかった。
近付いたというより、最初からそこだった気もする。
腕を掴む。
冷たい。
いや。
温度なんてなかった。
掴めるという事実だけがあった。
その瞬間。
男の力が爆発した。
振り払われる。
肘が跳ねる。
肩が軋む。
引き千切る勢いで暴れる。
必死だった。
理由は知らない。
でも。
何かを守ろうとしている力だった。
だからこそ。
余計によく分からない。
「悪いけど」
何に対して謝ったのか、自分でも知らない。
ただ。
放したら終わる気がした。
僕は全体重を乗せて腕を引く。
男も引く。
僕も引く。
綱引きだった。
勝敗だけが先に決まっていて、理由だけが遅れてくるタイプの。
ふと。
男が初めて僕を見た。
白衣。
スクラブ。
首元のルーペ。
口元のグリルズ。
その視線だけが、ゆっくり動く。
そして。
ほんの少しだけ。
口元が緩んだ。
笑った。
嘲笑じゃない。
安心でもない。
もっと。
どうしようもなく呆れた笑い。
──なんだよ。そら痛え訳だわ。しょーもな。
そんな気配だけが流れ込んできた。
もちろん。
一言も喋ってなんかいない。
ただ。
その一瞬だけ。
抵抗が消えた。
僕は迷わなかった。
在らん限りの力で。
引き抜いた。
ぶつり。
何かが抜けた。
肉じゃない。
血でもない。
もっと曖昧で。
もっと深いところ。
痛みの根っこだけを、そのまま引き抜くみたいに。
世界が、静かになった。
悪夢から覚めたみたいに、肺が勝手に空気を欲しがった。
「──っ、はぁ……!」
息を吸う。
吸い過ぎる。
むせる。
酸素ってこんな美味しかったっけ。
生きているだけで肺はブラック企業だな、とどうでもいいことが浮かぶくらいには、戻ってきていた。
全身がびっしょりだった。
汗なのか。
血なのか。
精神世界って代謝するんだっけ。
歯学部で習った記憶はない。
「ゆ、ゆぅ……」
横を見る。
キリちゃんがドクターチェアにもたれかかっている。
いつも眠そうだけど、今日は本当に倒れそうだった。
反対側ではフォンファが、
「っす──……」
ユニットの上で酸欠になった金魚みたいに口をぱくぱくさせている。
いやキョンシーって酸素いるの?
まあ今さらか。
「……みんな、生きてる?」
「僕は痛みを感じすぎたのか、逆に全然痛くない」
「ウチもっす」
そんなことある?
人体ってこういう時、雑だよね。
彼女は、人体じゃないけど。
キリちゃんが力なく片手を上げる。
「私は血を抜かれすぎて立つ気力がないゆ……」
「あ、それは、その。ごめんね」
「あと三日はおやつ豪華にするゆ」
「善処します」
「その言葉、信用度ゼロゆ」
「牛と豚と鶏のレバーだったら、キリちゃんどれがいい?」
「せんせいの中でそれらは、お菓子なんゆ?」
沈黙。
三人とも、しばらく天井を眺めた。
天井も、たぶん困っていた。
「……で」
フォンファが先に口を開く。
「なにが──どうなったんすか」
いい質問だった。
百点満点だ。
僕も知りたい。
むしろ僕が知りたい。
だから胸を張って答えた。
「あらゆる手は尽くしましたが」
二人が少しだけ不安そうな顔をする。
ごめん。
「よく──」
間。
診療室が静まり返る。
「分かりませんでした!」
「「はぁ──!?!?」」
シンクロ率だけは高い。
「いやだってさあ!!」
僕もその叫びに加わりたい。
「歯の神経の治療しようとしたら精神世界に連れていかれて、知らない男と綱引きしてみたら、現実に戻ってきたんだよ!? 歯科医師国家試験では聞かれなかった!!」
「聞かれてたら、その国家が終わってるゆ」
「ウチもそう思うっす」
非常識な日常で、常識だけは謎に共有できていた。
今日の診療は、たぶん成功だったと思いたい。
抜けたのは、神経だけじゃなかったみたいだけど。
「ふぅっ」
僕は、今まで呑み込んでいた息を、診療室いっぱいに吐き出した。
ついでに現実も見渡す。
見なきゃよかったかも。
特注ユニットは、現代アートとしてなら高く売れそうな造形になっていて、
器具は謎の毒液でチーズみたいに穴が開いている。
キリちゃんは血まみれなのに、本人の血色だけがなくて、
床には散乱したエトセトラ、アンド
天井には突き刺さったエトセトラ。
エトセトラって便利な言葉だ。
現実逃避を五文字で済ませられる。
詳細を書き始めたら、保険会社より先に営業さんが泣く。
さっき吐いた空気を返してもらいたくなって、もう一度深く息を吸う。
「──すぅ……げほごほんっんぐっ」
患者の受け入れは拒否できないのに、肺が現実の受け入れを拒否した。
臓器にも労働基準法は必要なんだと思う。
「……あ、じゃあ、お会計なんだけど」
フォンファが慌てて財布をごそごそ漁り始める。
その真摯な姿勢は認めよう。
報われないだけで。
「あ、うっす。保険効くっすか?」
「五千万ルビーになります」
「あほなんすか??」
食い気味だった。
ガンも飛んできたし、ついでに唾も飛んできた。
どっちも避けられなかった
気持ちは分かるよ。
僕も請求する側じゃなければ同じことを言っているんだろうに。
僕は絡み合った視線をほどくように、診療室を一周見回してから彼女へ戻した。
「たしかに、これはウチのせいかもしれないっすけど!」
勢いよく周囲を指差す。
「ここまで壊したのは、あんたらが勝手にやったことっす!」
「ユニットが前衛芸術になることは我々に予見できたのかしらゆ」
「ぐぅ……」
そこだけは反論できないらしい。壊れないもん。
「とはいえ」
僕は咳払いをひとつ。
「僕もそこまで鬼じゃない」
「へえ」
「聖人君子として近所では有名だからね」
「ここの近所、治安終わってるんすね」
「代案を出してしんぜよう」
フォンファの目が少しだけ輝く。対してキリアの目はじとっと鈍くなる。
「嫌ゆ」
早かった。
まだ主語すら言ってない。
「人手が足りて無「却下ゆ」
「なんでよ!! キリちゃんだって忙しくて困ってるじゃないの!!」
「そんなことないゆ。私ならワンマンでいけるゆ」
「僕をカウントされておられない!? 歯医者さんなのに!?」
キリちゃんは目を瞑って、口を一文字に結んで腕を組み、人差し指を高速でとんとん叩いている。
未来視している時の癖だ。
「この前なんて、診療中のすれ違い様に、腹いせで僕に下痢の呪いかけてったじゃないの!! 大変だったんだからね!!」
ぴたり。
指が止まる。
未来は見えても、過去は消せないらしい。
「あれは患者の気持ちになれっていう神の試練ゆ」
「どこの神様!? 腸だけ担当してるの!?」
「専門職ゆ」
可哀想に、神様にも配属ガチャはあるらしい。外れ部署だろう。
そのやり取りを見ていたフォンファが、小さく吹き出すと、堰を切ったように笑いはじめた。
数分前まで僕の首を噛み千切りかけていたとは思えない笑い方だった。
……いや。
キョンシーに「数分前まで死にかけてた」は、国語の先生案件かな。
ひとしきり笑った後、フォンファは直立して僕に真っ直ぐ目を向けた。
「はは……雇ってくださいっす」
「ダメゆ」
即答。あのう。人事は私です。
「なんでっすか!」
キリちゃんは立ち上がる。
そのまま、フォンファの鼻先まで歩いていく。
近い。
近すぎる。
「まだ」
一拍。
「面接してないゆ」
フォンファは目をぱちくりさせた。
三秒。
いや、四秒。
考えていた。
その結論は、実に単純だった。
勢いよく頭を下げる。
「キョンシーのフォンファっす! よろしくお願いするっす!」
診療室が静かになる。
静かになったところで。
キリちゃんが、この日一番深いため息を吐いた。
「せんせい」
「ん? 嫌な未来でもみえた?」
「嫌な、予感、しかしないゆ」
「そう?」
「うゆ」
「でも」
僕は笑う。
「キリちゃん」
「……んゆ?」
「笑ってるよ」
ぴくり。
キリちゃんは自分の口元へ触れる。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「……事故ゆ
口角が上がっていた。
「さっ、採用試験するゆ!」
くるり、と背中を向ける。
でも。
歩き出しても、その口元だけは最後まで戻らなかった。
こうして。
怪物の歯医者さんは、二人目の助手を迎える準備を始めた。
もっとも。
迎えようとしたのは助手だけじゃない。
面倒事も。
災難も。
たぶん、一緒に。