怪物の歯医者さん   作:寳田 タラバ

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Haisha of the Dead Rising Ⅰ

 

 

 

「初日から、だいぶハードっすね」

 

 左手だけが壁に縫い止められたまま、フォンファがぼそりと言った。

 

 全体重が左手にかかっているはずなのに、口調は軽い。

 

 新人教育という言葉の定義を辞書から殴り直したくなる。

 

「ハードっていうよりも、ルナティックゆ」

 

 ちなみに、縫われているというのは比喩じゃない。

 

 僕とキリちゃんとフォンファ。

 

 三人まとめて、待合室の壁へ蜘蛛の糸で磔にされていた。

 

 待合室は、もともと白かった。

 

 なのに今は、もっと白い。

 

 壁も、床も、椅子も、受付も。

 

 何もかもが蜘蛛の糸に塗り潰されて、医院というより巨大な繭だった。

 

 蜘蛛って、こんなに自己主張の強い生き物だったんだ。

 

 知らなかった。

 

 知らないまま歯医者を辞めたかった。

 

 その白の中で、たった一色だけ異物がある。

 

 

 

 フォンファの左腕から、彼女の体へ流れ落ちる黒い血。

 

 そこだけが、世界から色を盗んできたみたいに黒かった。

 

 僕とキリアは、

 

 腕も。

 

 肩も。

 

 胴も。

 

 息ができる程度の自由だけを残して、壁に飾られている。

 

 美術館なら、入場制限ものだ。

 

「まだ、雇ってないよ」

 

「こんなヤバい職場、逃げるなら今ゆ」

 

「はは。労災って降りるんすか?」

 

 一度、

 

 自身の左腕を見上げた。

 

 黒い血が、ぽたりと床へ落ちていく。

 

「だからまだ雇っ──」

 

「ウチがやらなくて、誰がやるんすか」

 

 

 笑い声が掠れていた。

 

 強がるためでも。

 

 覚悟を決めるためでもない。

 

 そういう笑い方じゃなかった。

 

 理由なんて分からない。

 

 ただ、

 

 妙に自然だった。

 

 

 足裏が壁と擦れる音がする。

 

 一度。

 

 二度。

 

 力を確かめるみたいに。

 

 大きく息を吸う。

 

 肺いっぱいに空気を詰め込む。

 

 そして。

 

 止まる。

 

 嫌な予感が、僕の胸の中で先に動き出す。

 

 ぶちっ

 

 湿った音だった。

 

 蜘蛛の糸が切れる音じゃない。

 

 もっと柔らかくて。

 

 もっと、生き物らしい音。

 

 僕の身体は一ミリも動かない。

 

 じゃあ、今のは。

 

 まさか。

 

 首は動かない。

 

 だから眼球だけを限界まで滑らせる。

 

 見えた。

 

 最初に見えたのは壁だった。

 

 次に。

 

 左手だった。

 

 

 白い蜘蛛の巣を伝って、黒い血が何重もの線になる。

 

 糸は一本も千切れていない。

 

 千切れたのは。

 

 フォンファのほうだった。

 

 

 ──────

 

 

 

「に、したって!!」

 

 診療室に地震が起きた。

 

 いや違う。

 

 フォンファだった。

 

 どかん。

 

 どごん。

 

 飛び跳ねるたびに、半壊していたユニットが追加ダメージを受ける。

 

 金属が悲鳴を上げて、何かの破片が景気よく飛んだ。

 

 僕にはもう、何の部品なのか確認する気力もないです。

 

「フォンちゃん。院内ではお静かに」

 

 静かにお願いしたところで、静かになる未来が見えない。

 

 というか、それ以上やるとユニットじゃなくて診療所そのものが紙カルテになっちゃうよ? 

 

「痛くも、痒くも、なくなったっす!!」

 

 さっきまで精神世界で魂ごと抜髄されていたとは思えない元気さだった。

 

 全壊だ。

 

 いや、全快か? 

 

 漢字一文字で意味が真逆になる日本語って、たまに性格が悪い。

 

 フォンファはぴょんぴょん跳ねる。

 

 キョンシーだから、跳ねる。

 

 なるほどね。

 

 これが正しい用法なのか。

 

 

「血が……血がたりねえゆ」

 

 ユニットへ力なく沈み込んだキリちゃんが、今にも吸血鬼へ転職しそうなことを呟く。

 

 爆撃みたいな着地のたびにユニットが揺れて、そのたびキリちゃんの身体もふわっと浮く。

 

 遊園地ならアトラクションだけど、ここ歯医者なんだ。

 

「もっかいグリルズでキョンシーの感染物、吸い出そうか?」

 

 ドクターチェアだけをくるりと回して、キリちゃんへ向き直る。

 

「これ以上血抜きされたら、干物になるゆ」

 

 起き上がることすら放棄して、天井に向かって喋っている。

 

 ああいう人は、大抵もう限界だ。

 

「人魚の干物って、これまた珍味そうっすね」

 

「やめて。想像すると倫理委員会が来るよ」

 

 ようやく。

 

 ようやくフォンファの爆撃が止まった。

 

 助かった。

 

 あと五回跳ねられていたら、僕じゃなくて診療所が吐いていたと思う。

 

 診療室に静寂が戻る。

 

 静寂って、こんなにありがたいものだったんだ。

 

 

「こいつ、しばいていいゆ?」

 

 

 ご自由に、と口を開こうとしたとき、がらんがらんと玄関のドアベルが鳴る。

 

「すみませえええん! きゅうかんですううう!!!」

 

「自分で言うかゆ。先生、みてきてゆ」

 

 起き上がりもせずに、受付嬢が指示してくる。司令系統おかしない? 

 

「へいへい」

 

 応召の義務。

 

 歯医者は急患を断れない。

 

 そういう職業だ。

 

 だから歩く。

 

 のそのそと待合室へ向かう。

 

 聞き覚えのある音がした。

 

 じゅう。

 

 じゅう。

 

 何かを焼いているみたいな音。

 

 白い煙まで見える。

 

 待合室には、大蜘蛛がいた。

 

 ……正確には。

 

 妖艶な女性の上半身と、大蜘蛛の下半身。

 

 大事な部分はロングヘアで隠れた巨大なおっぱ。

 

 いや違う。

 

 今はそこじゃない。

 

 口元から垂れた透明な液体が、

 

 床へ滴り落ちている。

 

 じゅうううう。

 

 床が。

 

 溶けていた。

 

「ンヌァ!!!! 床ァァァ!!」

 

 

 

 

 

 

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