じっ。
毒液が床を見つめている。
いや違う。
床が毒液に見つめられていた。
どっちでもいい。
恋は実らない。実らせない。
「キリちゃああん!! なんか硬そうなやつ! 持ってきて!!」
慌てふためいている間にも、床は順調にリフォームされていく。
しかも施主の了承なし。
「知り合いにデバック頼まれてるゆ。動けんゆ」
我が医院のエースは、寝そべったまま携帯ゲームに勤しんでいた。
「ゲームより、きっと現実の方がバグってるよ!? うちのデバックもして!?」
「これは、リカバリーでもあるゆ。心の」
森林浴でもしてんのかと思うくらいの平穏な声が届く。
このままだと歯じゃなくて歯医者に穴が開く。やむをえまい。
「フォンちゃん。不本意だけど、初仕事頼めます?」
「なんすか。その物言い」
不満はあるらしい。が、動くタイプみたいだ。
ぶんっ
診療室から待合室へ、何かが放物線を描いて飛んできた。
反射で受け止める。
重い。
視界の端に映った銀色でようやく理解した。
フルプレートアーマーのグレートヘルムだった。
「いやこれ」
さっきまで着てたやつ。まあまあするんだけど。
資産というより、もはや文化財に近い。
じゅう。
そんな感想を整理する暇もなく、毒液が一滴落ちる。
「南無三!」
咄嗟にヘルムを突き出す。
ぽたり。
ぽたり。
毒液は金属の底へ溜まっていく。
煙は上がる。
でも。
貫通は、していない。
金属が勝った。
人類の英知が勝った。
「えと……きょ、今日は、どうー」
ぽたり。
床へ落ちたのは毒液じゃない。
僕の冷や汗だった。
「どうされましたかねー」
冷や汗を拭い、笑顔を顔面に出力した。
医療面接はアイコンタクトが大切だ。
患者さんの目を見て話しましょう。
大学でもそう習った。
だから見る。
なるべく蜘蛛じゃない方を。
なるべく柔らそうな方を。
いや違う。
女体の方──という言い方も違う。
上半身の方を。これも違うか。
……歯医者って、思ったより視線配りが難しい職業なのかもしれない。
「子供の時から生えてる歯が最近になってゆれてきてええ」
「毒も出っ放しで、困ってるのおお」
確かに揺れていた。
おそらく乳……歯が。
「たしかにすんごい揺れてますねー」
身体が。
診療室の空気が。
そして、たわわも。
最後の一つ──いや二つだけど──は、重力への礼儀が完璧だった。
「お名前と、診察券とかってー」
毒液が左右に振られる。
僕は視線を一点、二点から逸らさず、ヘルムで受け止める。
この装備、本来は暴漢相手に用意したものなんだけどな。
まさか女性の体液を防ぐことになるとは、防具屋のおじさんも想定していないだろう。あ、柔らかそう。
「診察券忘れちゃってええ。アラクラネと申しますうう」
曲線美って、この世の問題の八割くらいを「まあいいか」に変えるよね。診察券なんていくらでも作り直します。ええ。
万有引力もリンゴじゃなくて、こっちならもっと早かったと思う。
じゅっ
「あ痛い!!」
ヘルムから逸れた毒液が、僕の指先を掠めた。
痛い。
邪念まみれの一秒前の僕を殴りたい。
それでも、彼女が揺れているのか、僕が揺れているのか、地面が揺れているのか、僕にはさっぱり分からない。
「痛いで済んでるのは私のおかげゆ。存分に励むといいゆ〜」
間延びした御神託が真横から聞こえる。ゲームに夢中のキリアがいつのまにかいた。いや、夢中だったのは僕か。
手伝え、我が女神。
「これっすか」
フォンファが何の音もなく壁を這って女体によじ登っている。
リッカーでも、もう少し遠慮する。
重力とは、一部にしか適用されない法律なのかもしれない。
「それじゃ、取ればいいんすね」
揺れている歯へ迷いなく指を伸ばす。
その動きには一切の躊躇がない。
「せーの、でいくっすよ!」
歯を抜くというより、庭の雑草を抜く様を彷彿とさせる。
「「「へ」」」
僕とキリアとアラクラネさんの声が、診療室で綺麗に三和音を奏でた。
こんなに息の合った声は、できればもっと平和な場面で披露したかった。
「せーっ」
「アラクネ種は、外的刺激から防御反応で──」
一歩。
「──の?」
いや、数十歩遅かった。
「い、いやあああ」
世界が、一瞬だけ音を失う。
そして次の瞬間。
診療室という密室に、「防御反応」というにはあまりにも攻撃的すぎる現象が炸裂した。
閃光。
爆音。
もう何が何だか分からない。
視界が真っ白になる。
鼻を突く刺激臭。
耳鳴り。
何かが砕ける音。
何かが飛ぶ音。
そして、
「ぎゃああああっ!!」
たぶん僕。
十中八九、僕。
ヘルムが僕の手を離れる。
あ。
と思った頃には、もう遅い。
蜘蛛の糸が視界を割る中、
毒液をなみなみ湛えた鉄兜は、
くるくると回転しながら、
世界で一番嫌な流れ星になっていた。