寄生生物: 喜多郁代 【I'm COMEing let's go】   作:kisuzu

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喜多郁代が好きだから書いた。でも普通にいちゃつくのは想像できなかった。

こうなった。↓




伊地知虹夏

早朝の静まり返った街を歩きながら、男はいつものライブハウスへ向かう。

その見た目は高校生くらいのはずなのだが、その独特の雰囲気、濁った瞳と社会に揉まれた者特有の無気力さが彼を少し大人びてみせた。

 

彼は背負ったバッグ——中にはノートPCやケーブルなどが入っている——を揺らしながら、灰色の瞳を周囲に走らせる。

 

駅前の賑わいとは打って変わって、この通りは人影もまばらだ。自販機の隣にたたずむ猫がじっとこちらを見つめているのが目に入ったが、男は視線を返さず歩を進めた。

 

何事もない普通の朝

男――橘直樹は、そんな朝を何度繰り返してきたのか覚えていない。

 

大学卒業の翌日に目を覚ますたびに高校一年の春に戻る。この現象を「ループ」と呼ぶことに決めたのは、何度目かの反復を経てからだ。最初は単なる夢だと思った。しかし、過去の出来事がすべて正確に繰り返されることを確認し、そして自分だけがその記憶を保持していると知ったとき、これは現実であると理解せざるを得なかった。

 

再び同じ7年間を生き直すのは大変な苦痛で、始めは戸惑い、次第に恐れ、やがて諦めた。

 

一度目のループでは、ただ戸惑うばかりだった。最初の高校生活の経験と知識をそのまま活かし、無意識に同じ行動をなぞっていた。しかし、それが「ただの再現」ではなく、「自分が選び取る新たな時間」であると気づいた瞬間、直樹よ心には大きな不安が芽生えた。もしかしたら、これは終わりのない牢獄なのではないか、と。

 

二度目、三度目のループでは、何とか「より良い結果」を目指そうと努力した。しかし、どんなに素晴らしい結果を残しても、時間が巻き戻るたびにそれらは失われる。入試でトップの成績を収めようが、クラスメイトと親密な関係を築こうが、その成果は次のループでは何の役にも立たない。ただ、自身の記憶として積み重なっていくだけだった。

 

そこで彼は少し方針を変えた。目的を「結果」から「知識」に切り替えたのだ。時間がリセットされても残るのは、自分の記憶だけ。ならば、記憶そのものを武器にするしかない。まずは勉強だった。ループが進むごとに、高校の教科書を隅々まで読み込み、大学受験用の参考書に手を伸ばし、さらには司法試験や公認会計士試験のテキストへと学習の範囲を広げた。

 

最初のうちは学ぶ内容の多さに圧倒されたが、何度も同じ時間を繰り返す中で、「効率」という概念を徹底的に磨いた。試験範囲を分析し、必要な情報だけを取捨選択し、記憶の中に確実に刻み込む。初めての司法試験の受験では失敗したが、次のループではその失敗を徹底的に分析し、合格への道筋を最短距離で見出した。同じように公認会計士の試験も乗り越えた。

 

だが、これらの「資格」に実質的な意味はない。どれほどの知識や資格を持とうと、次のループに進んだ瞬間には、それはただの「記憶の断片」に過ぎなくなる。だからこそ、その知識を「現実的な利益」に変える術を模索した。それが株式市場への投資だった。

 

未来の株価や経済動向を正確に知っている直樹にとって、投資は最も効率的な「ゲーム」に思えた。例えば、

未来の大きな出来事が市場に与える影響を知っている直樹は、大抵の場合動き出すタイミングを完璧に見極めることができた。さらに、同じ未来が繰り返されるという点を逆手に取り、複数の戦略を試すことで最適解を見つけ出すことも可能だった。

 

しかし、それでも完全ではない。一点一画まで完璧に同じ未来が繰り返されるわけではないからだ。些細な行動の違いが予測に影響を与えることがもある。

 

例えば、ある年では大成功し、ベストセラーとなる本まで書き上げた投資家が、次のループでは一切表に名前を出さず、ポツンとこの世からいなくなることもある。

 

社会や経済の動きが、思うほど単純ではないからだ。

それはまるで生き物のようなもので、人が完璧に同じ行動わ取らないのだから、その人に動かされる経済の動きはより多動的になりやすい。

 

また、どれだけの資産を築こうと、このループが終わるとすべてがリセットされる。その事実が、やがて直樹の中に奇妙な虚しさを植え付けはじめる。どれだけの努力を積み重ねても、それは最終的にはゼロに還る運命なのだと。それでもはこのループの中で、「効率的に生きること」をやめることはできない。知識を積み重ね、利益を追求し、そしてまたゼロに戻る。それがこの「世界」の仕組みである以上、抗う術などないのだから。

 

今回ループ始まりから3カ月。

 

そうして今日もまた、変わらない始まりの日を迎える。

湿ったアスファルトの表面には昨夜降った雨の名残が光を反射していた。通りに並ぶ店々のシャッターはどれも閉じられ、無機質なパネルの連続が風景を単調にしている。

 

目的地――直樹のバイト先であるライブハウスの看板は、階段下にあるものの、くすんだ蛍光色で夜には目立つはずなのだが、今は薄曇りの空の下で、まるで忘れられたオブジェのように漂っている。

 

足元には捨てられた紙コップが一つ、誰にも拾われることなく湿気を吸ってぐったりしていた。シャッターの隙間からは、ライブハウス特有の匂いがわずかに漏れ出している。それは汗、アルコール、煙草、そして使い古した木材が混じり合った独特の香りだった。

 

鍵束がポケットの中で金属音を立てる。直樹はその音を手のひらで押さえながら、ライブハウスの前に立ち止まった。

 

直樹は手袋を外し、指先に冷えた空気を感じながら鍵束を取り出した。古びた鍵は使い込まれてわずかに黒ずみ、エッジも丸くなり、握るたびに微かな手垢の感触が指に残る。彼は錠前に鍵を差し込み、回そうとする。金属のひんやりとした感触が指先に伝わる。だが、錠前は簡単には応じない。固い抵抗を押し返すように、彼は少し力を込める。

 

「……よし。」

 

ようやく鍵が回り、隙間から漏れ出した埃と金属の匂いが、夜の残り香のように鼻腔をくすぐる。彼は片手でドアを引いた。重い音が短いエコーを伴い、通りの静寂に響く。

 

「よっ……っと。」

 

小さく声を漏らしながら力を込めると、錆びついた金属がきしむ音を立て、鍵がようやく回った。空気の重みとともにわずかに埃の匂いが鼻をかすめる。

外の朝の空気が薄い膜のように店の入口で途切れ、店内に入ると、昨日の残り香――アルコールと機材の金属臭――が薄く漂っている。

 

一歩足を踏み入れ、壁際にある室内灯のスイッチを探す。目が慣れるまでの暗闇の中、直樹は薄暗いフロアの光景をぼんやりと思い浮かべた。暗闇に沈んでいるであろうステージ、ずらりと並ぶ客席、カウンターに置かれた使い古しのグラス。

 

その奥に広がる店内が闇の中から姿を現すのを待たず、彼は奥へ進みながら、壁沿いに指を滑らせた。そこには無数のライブ告知ポスターが貼られている。色褪せたもの、破れたもの、新しく張り替えられたものが混在し、それぞれが異なる時代の記憶を物語っているようだった。

 

スイッチを探り当て、指先で軽く押し込むと、パチッツという音とともに、少し遅れて白熱灯がぼんやりと明かりを放つ。店内に伸びる影が、床を柔らかく染めた。店内全体が光の薄い膜で覆われる。コンクリートの冷たい壁面、無骨な天井の鉄骨、そして観客たちの熱気を吸い込んだ古びたフロアマット。アンプとスピーカー、客が使い残したコップの輪郭、そして舞台袖に立てかけられたマイクスタンド。

 

直樹はドアを後ろ手に閉めてから、裏手の扉に向かった。

 

昨夜のステージが終わった後、飲み残されたペットボトルやカウンターに置き忘れられたメモ帳がそのまま残されているだろう。

 

どこかに、まだ音楽が残っている気がした。昨夜のアンプの振動、観客の歓声、そして消えていった音符たちが、この空間のどこかで息を潜めているようだった。

 

今度は鍵束から小さな銀色の鍵を選び、裏手――事務扉の鍵を開ける。カチリという乾いた音が響くと同時に、冷たい空気が鼻腔をくすぐった。

 

錠前に鍵を差し込むと、内部の歯車がかすかな音を立てて回転する。しかし、錆びついた部分が抵抗を示す。彼は鍵を回す手に力を込め、慎重に動かした。数秒後、ようやく鍵が回り切り、錠が外れる音が短い金属音を鳴らす。

 

ガチャッ!

 

「修理手配もするか…」

 

ぼやきながら直樹はカウンターに向かうと、まず自前のパソコンの電源を入れた。スクリーンが静かに光を放つ間、彼はフロアに目をやる。テーブルの上に忘れられたコップがひとつ。その向こうには、客が落としたのだろう、スマホのカバーが床に転がっているのが見えた。

 

「さて、と。」

 

直樹は腕まくりをしながら小さく息をつく。掃除から始めるべきか、それとも昨夜の売上をまとめるべきか。今 日も一日が始まるのだと、胸の内で呟きながら彼は作業に取り掛かる準備を整えた。

 

彼は深く息を吸い、作業に取り掛かるべく半ば自身専用とかした机へ向かう。

 

奥に設置された事務机に座り、電源を入れたノートPCの画面に映るのは、昨日の売上データが入力されたExcelファイルだ。列には「ドリンク」「物販」「チケット」といったカテゴリが並び、それぞれの売上が数式で集計されている。ピボットテーブルを使い、ドリンクの売上推移をグラフ化して確認する。特に最近はハイボールの注文が増えている傾向がある。

 

オーナーである星歌が現れる前に、直樹はいつものように業務の開始準備に取り掛かった。

 

まずは昨夜の売上集計だ。残業ができないために、土曜日のデータは入力だけ済ませて、税金含めた諸々の集計はまだ終わっていないのだ。木製のカウンター奥にある古びたキャッシュドロワーを開き、札束を一枚ずつ数え、レジ締めの報告書を作成する。途中、ドリンクの売上や物販コーナーの売れ行きに目を通しながら、在庫状況を把握していく。メモ帳に「ビール:残り12本」「ハイボール:17本」などと記し、倉庫での確認作業に備えておく。

 

「ハイボールの在庫、これでギリギリか……」

 

直樹は ブツブツと独り言を漏らしながら、画面右下の仕入れ表を開く。仕入れ先とのチャットアプリを立ち上げ、担当者にメッセージを送る。

 

件名: ハイボール(ブラックニッカ)仕入れのお願い

宛先: 株式会社サンライズリカー 仕入れ担当 中川様

本文:

中川様

いつもお世話になっております。

ライブハウスSTARRTのマネージャーの橘 直樹です。

本日は以下商品の追加発注についてご相談です。

商品名:ブラックニッカ(ハイボール用)

数量:12本

納品希望日:12月22日(金)まで

お手数ですが、在庫状況と納期のご確認をお願いできますでしょうか。また、もし他にお勧めの商品がございましたら、併せてご提案いただけますと幸いです。

納品先やお支払い条件については、これまで通りで問題ございませんが、何か変更点がございましたらお知らせください。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

ライブハウスSTARRY

マネージャー : 橘 直樹

連絡先: 03-1234-5678

メール: [email protected]

 

確認後、注文内容をエクセルの「仕入れ状況」タブに記録し、在庫表を更新した後は、出演バンドの名前が並ぶ台帳に目を通し、リハーサル時間と本番時間を確認する。今日は2組のバンドが出演する予定で、それぞれ30分ずつのリハーサルが割り当てられている。PAスタッフとの打ち合わせを兼ねて、音響や照明の調整内容を確認する必要がある。特に二組目のバンドは新規の出演者で、楽器のセッティングに少々手間取るかもしれない。

 

「おはよう、直樹くん」

 

そこまで確認したところでオーナーの伊地知星歌がフロアに入ってくる。いつものカジュアルな黒いTシャツに身を包み、首元のチョーカーがキラリと輝いて見える。

 

「おはようございます。今日のバンドは少し早めに到着する予定らしいので、リハーサルの準備を進めておきます」

 

すかさずの直樹の言葉に、星歌さんは静かにうなずきながらカウンターに向かう。その背中を横目に見ながら、直樹は倉庫に向かった。

 

倉庫は雑然としていた。段ボールが乱雑に積み上げられ、その間にケーブルやアンプが無造作に置かれている。必要な機材をリストに基づいてチェックしながら、壊れたマイクスタンドを修理するための工具を取り出す。

 

作業が完了した直樹は出演バンドとの連絡業務に移った。スマートフォンを取り出し、今日出演予定のバンドリーダーに確認のメッセージを送る。

 

件名: リハーサル及びライブスケジュールの再確認

宛先: Black Horizon リーダー 中村拓馬様

本文:

中村様

お疲れ様です。ライブハウスSTARRYの 橘 直樹 です。

本日12月22日(金)のリハーサル及びライブの確認について、以下スケジュールでお間違いないか再確認をお願い申し上げます。

リハーサル開始時間:10:00

リハーサル終了時間:11:30

ライブ開始時間:11:40

ライブ終了時間:12:40

使用機材:Marshallギターアンプ(持ち込み) / Roland電子ドラム(当店貸出)

特にお持ち込み機材について、不足や不安がある場合はお知らせください。当日急なトラブルがないよう、事前確認を徹底したく存じます。

どうぞよろしくお願いいたします。

ライブハウスSTARRY

マネージャー 橘 直樹

 

メッセージを送り終えた後、PAスタッフが着ているかを確認するついでに故障した機材を廃棄するため運ぶ。

 

 

「おはようございます、PAさん」

 

倉庫から機材を抱えて出てきた直樹が声をかけると、ミキサー卓の前に座っていたPAが振り返った。ノートに何かを書き込んでいた手を止めて、彼女は軽く片手を挙げる。

 

「あ、おはようございます。朝から大変そうですね、機材運び」

 

「まぁ、いつものことですけどね。今日はリハ早いんで、急がないと」

 

直樹は肩をすくめながら、持っていたケーブルを軽く振ってみせる。

 

「『Black Horizon』って新しいバンドなんですよね?どんな感じなんですか?」

 

PAがノートを閉じて椅子の向きを直樹に向けながら尋ねた。その様子に、直樹は少し考え込む。

 

「うーん、ハードロック系で、ギターがかなり派手。ボーカルも結構ガッツリ歌うタイプらしいです。ベースも主張強めだけど、ドラムは電子で音は生っぽいのを希望してるみたいですね」

 

 

「へぇ、なかなかクセがありそうな感じですね。電子ドラムで生っぽい音って、結構調整難しいんですよね」

 

PAが頬に手を当てて考える仕草を見せる。直樹は苦笑しながら付け加えた。

 

「ですよね。でも、音響のプロにお任せするしかないですから。PAさんに期待してますよ」

 

「プレッシャーかけますねぇ。でもまあ、任せてください。事前に言われてた通りドラムの音は少しハイハットとスネアを強調する感じでいきますかね」

 

「助かります。あ、さっきリーダーに確認のメール送っておいたんで、多分機材とかは大丈夫だと思います。返信きたらまた共有しますね」

 

「了解です。でも、たまにリハ中に急なリクエスト来たりするんで、それだけ注意ですね。もう当日変更ないならない、あるならあるで返信きてたら楽なんですけどね」

 

PAは軽く笑いながら肩をすくめた。その姿に直樹も苦笑を返す。

 

「ですね…」

 

「バンドマンだし…きてませんよねぇ…」

「かもしれないですねぇ…」

 

直樹はその言葉に曖昧に頷き、スマートフォンを取り出して画面をチェックする。中村からの返信が届いているのを見つける。

 

指でスクロールしながら目を通した。

「お、リーダーから返信来てます。楽器は予定通り持ち込むみたいです。トラブルがなければ、大丈夫そうですね」

「それなら、ちょっと気が楽ですね。後は本番直前で何が起きるかですけど」

 

PAは冗談めかして肩をすくめた。今度のら冗談だとわかっていたので—–というどうにもできない、そうであってくれ―—直樹はその言葉に苦笑しながら、スマートフォンをポケットにしまった。

 

「よし、リハの準備、早めに始めちゃいましょう。トラブルを減らすには、やっぱり行動あるのみですから」

 

「ですね。じゃあ私は卓の調整、始めておきます」

 

 

返信を確認すると、そこにはもうじきつくという連絡と、短く楽器についての情報が書かれていた。

 

「PAさん、二組目のバンドがMarshallのギターアンプを持ち込む予定です。音質に癖があるそうなので、リハーサルで調整をお願いしたいのですが」

「了解。リハーサルのときに音を聞きながら調整しますね」

 

午後になると、バンドが到着し、リハーサルが始まる。直樹はその間、バンドメンバーの要望を聞きながら進行をサポートする。時には彼らの些細な要求に応え、時には機材トラブルを解決する。あるメンバーが「ケーブルの接触が悪い」と訴えると、即座に予備のケーブルを取り出し、問題を解消する。

音響スタッフのPAがPAブースで操作をしているので。声をかけて調整を頼んだ。

 

「もう少しモニターを上げてほしいそうです」

「了解。ギター側のモニターですね?」

数秒後、PAの手元で操作されたミキサーが音量を微調整する。バンドメンバーが頷いたのを確認し、次の調整に移る。

 

そうした過程を経てリハーサルが終わる頃には、開場時間が近づいてくる。

 

その時だった。重い鉄扉を押し広げる音が直樹の耳に届く。土曜の昼の冷え切った空気が漂う。

そして見知った若い顔が入ってくる。

 

「おはようございます。」

 

アルバイトの西野千夏だ。

 

小柄で、髪は肩に届くかどうかの長さ。栗色の髪を無造作にまとめていて、そこから少し飛び出した毛束が、どこか子犬のような印象を与える。

 

「千夏さん。おはようございます。」

「直樹さん! おっはよう!」

 

千夏はこのカフェで働き始めてからまだ半年ほどの新人だが、店の空気に溶け込むのが驚くほど早かった。その明るさと人懐っこさが彼女の持ち味であり、まるで生まれつき人に好かれる才能を持っているようだった。彼女が声を張り上げると、店全体がなんとなく活気づく気がする。その声は大きく、言葉の端々に高揚感が滲み出ており、少しばかり騒々しいと感じる人もいるだろう。しかし、その騒々しさも千夏の魅力の一部だと、周囲はいつの間にか受け入れてしまうのだった。

 

「前にも言ったけど、今日は少し忙しくなるかもしれない」

 

「は〜い! わかりました!」

 

大きく返事をしながら、千夏はいつものようにバッグをロッカーに押し込み、黒い服を身につけた。彼女曰く制服代わりらしい。これをつけることで気持ちが切り替わるんだとかなんとか。

 

直樹もメガネをかけているときは何となく集中している気がするので、それに似たものだと解釈していた。

 

 

 

バックヤードの昨日の夜の名残が散らばっている。グラスは洗い場に積み重なり、フロアには細かな紙くずやテープ。

 

直樹が時間がなかったので全部裏にまとめた結果である。

 

「昨日、盛り上がったんですか?」

 

それを見た千夏が頭に手を当てながら直樹に問い合わせた。

 

「ああ。けっこうね。でも後、片付けが間に合わなくてさ。助かるよ、来てくれて。」

 

直樹はそつ礼を言いながらコーヒーを一口飲んだ。その湯気がカウンター越しに揺れるのを、千夏がぼんやりと眺めている。

 

感情が籠もってないと思われてるのだろうな、と予測を立てつつも直樹は早速バイトを使うことにする。

 

「千夏さん、カシスのボトル補充しといて、あと掃除もお願い」

「了解です。」

 

千夏は文句など零さずに言われた通り、さっさと冷蔵庫を開け、とっととリキュールの瓶を並べ直す。透明なガラス越しに見る赤や黄色の液体が、なんだかきらきらと輝いているように見えた。

 

「ねえ、直樹さん。」

 

瓶を取り出しながら千夏は尋ねる。

 

「この前のバンドの人、また来るんですか?」

 

その問いかけの直後、直樹は数秒そど記憶を探る必要があった。

 

「ああ、来るよ。来月の土曜だっけな。あのドラムの人、千夏さんと話してみたいって言ってたよ。」

 

「えっ、なんでですか?」

 

「さあ?。」

 

直樹は肩をすくめた。

 

「でも、若い子に話しかける理由なんて、だいたい似たようなもんじゃない?」

 

千夏は顔を赤らめながら、小さくため息をついた。

 

「やはり、溢れ出る魅力が…」

 

直樹はコーヒーを口に運び。

 

「だね…」

 

とだけ呟いておいた。

 

そんな芳しくない反応に不満なのか千夏は両手を振って存在を強調しつつ、叫ぶ

 

「直樹さんは相変わらずテンション低いですね!」

 

失礼な発言ともとれるが、長くも短い付き合いのせいか、それとも千夏のさっぱりとした性格か、不思議と不快には全くならない。

 

「お客様が入ってくるよ」

 

ぞろぞろと、受付でドリンク引換券を買い終えた客が入り始めていた。それを指摘すると、千夏もすぐに表情を接客スマイルに切り替え、声を上げる。

 

「ドリンク引換はこちらでどうぞ!」

 

その声に視線を向けたのは、男——土曜の昼間に、ライブハウスでリクルートスーツを着た妙な客。

それも新品のようにシワひとつなく、靴までピカピカに磨かれている。まるで面接に向かう途中で迷い込んだかのようだ。

 

三十代前半と思しきその男は、どこにでもいそうな顔立ちだが、妙に疲れたような目元が印象的だった。

 

ライブハウスになど慣れていなさそうな見た目に反して、古参ファンか何かなのか、嫌に慣れた様子でこちらに歩み寄ってきたその客は、引換券を無言で差し出し、じっと千夏を見つめた。

 

その手の中にはくしゃくしゃになったピンクの引換券、即ちアルコールを指すそれが握られている。

 

「お預かりします!」

 

千夏の手がそれに触れると同時に、男は恐れるように腕を引っ込めた。

 

千夏が飲み物を作りながら、ふと男を観察する。左手の袖口から見えるのは、くたびれた革の腕時計。その表面には細かな傷がついていて、スーツの新品さとは明らかに釣り合っていない。ネクタイの結び目は少しゆるく、喉元に汗が滲んでいるのが見えた。

 

——就活生というわけでもないだろうに

 

「カシスソーダですね、少々お待ち下さい!」

 

狭いカウンターの内側にある冷蔵庫からカシスリキュールの瓶を取り出し、そのラベルを一瞬見つめた。瓶に「アルコール分15%」と記された文字がわずかに千夏の気に障る。

 

薄口のグラスに氷を入れる。その音が心地よいリズムを刻むようだった。続いてカシスリキュールを注ぐ。紫の液体が氷に絡まり、ゆっくりと底に沈む様子はどこか幻想的だ。

 

棚から炭酸水のボトルを取り出し、慎重に開けると、勢いよく吹き出す泡に「おっと!」と少し驚きつつも、こぼさないようにグラスへ注いでいく。淡い紫色の層が透明なソーダによってじんわりと混ざり合い、グラスの中で色彩が変化する。

 

最後にマドラーを手に取り、軽く一度混ぜて完成。

 

「お待たせしました。こちらがカシスソーダです。楽しんでくださいね」

 

千夏が声をかけると、男はぎこちない動きで、それを受け取ろうとする。

 

袖口から覗く革製の腕時計――しかし、その針は動いていなかった。

 

——壊れてる……?

 

千夏は思わず目を凝らした。いや、壊れているというより、止まったまま放置されている、といったほうが正確だろう。革バンドは擦り切れ、時計の文字盤には無数の細かな傷がついている。

 

力加減ができないのか、震える腕で千夏の腕から半ば奪い取るかのようにグラスを取る男。

 

その拍子に腕時計がわずかにずれ、無情に止まったままの針と文字盤が千夏の視界に入る。止まった時刻は、午後三時ちょうどを指しているようだった。

 

男は何を言うでもなく、無言で立ち去った。

 

チケットカウンターの準備、ドリンクカウンターの補充、千夏に指示を出し、ようやくすべての準備が整い本番が始まると、フロア全体が一気に活気づく。

 

直樹はカウンター奥でライブを見守りつつ、客席でトラブルがないか目を光らせる。

 

あの客は壁際に黙って佇み、不思議なことにバンドよりほかの観客に興味があるようで、時折他の人間に視線を向けつつも、壇上に空虚な瞳を投げかけている。

喉が渇いていたのか、グラスは既に空で、氷だけが底で輝いていた。

 

壁によりかかりきらず、中途半端に前屈みになりながら、指先でグラスの縁を撫でている。その仕草は何かに集中しているというより、ただ手持ち無沙汰を紛らわしているようだった。

 

男は不意に顔を上げた。直樹と目が合うかと思いきや、彼の視線はその先、カウンター奥の棚に飾られた古いウイスキーボトルに向かっていた。その目には、懐かしさとも諦めとも取れる感情が浮かんでいる。

 

「……お客さん、大丈夫かな。」

 

隣の千夏がそう呟いた、直樹は手元のグラスを磨く手を止めなかった。

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昼のライブが終わると、少し遅れて昼休憩に入る。

 

店内には人がいるが、バックヤードではバイトやスタッフたちが各々昼食を取り始める。そのざわめきから隔てられた、事務室で直樹は一人、黙々とパソコンに向かって作業をしていた。表計算ソフトの画面に、売上データが並び、彼の指がキーボードを軽快に叩いていく。

 

時計を見ると、もう昼休憩の終わりが近い。だが、直樹は休む素振りも見せず、集中して画面を見つめていた。

 

「直樹くん、お疲れ様!」

 

元気な声が突然背後から聞こえ、直樹は驚きに少し肩を跳ねさせた。振り返ると、虹夏がトレーを片手に立っていた。トレーには湯気の立つカップスープとサンドイッチが乗っている。

 

「お疲れ。どうしたの?」

「どうした、じゃないよ! お昼ちゃんと食べてる? まさか作業ばっかりしてないよね?」

 

虹夏は軽く眉を寄せ、やや怒ったような表情を作って見せる。だが、その顔には怒りというよりも心配の色が強く、直樹は一瞬言葉を詰まらせた。

 

「いや、別に……休憩中でもこういうの片付けた方が楽だからさ。」

「はぁ……やっぱり。そんなことだと思った!」

 

虹夏はため息をつき、トレーを空いている小さなテーブルに置いた。

 

「ほら、これ。直樹くん用に作ったんだから、ちゃんと食べて。」

 

「作ったって……お店のメニューかなにかじゃないの?」

「違うよ! ちょっとお姉ちゃんに言ってキッチンを借りて作らせてもらったの。特別仕様!」

 

虹夏は胸を張り、自信満々に笑う。その笑顔につられて、直樹は小さく口角を上げた。

 

「わざわざありがとう」

「わざわざとか言わないの。直樹くんが倒れたら困るからだよ。」

 

虹夏はそう言いながら椅子を引いて直樹の隣に座る。彼女の制服からはほんのりと洗剤の香りが漂い、近すぎる距離感に直樹は居心地の悪さを覚えたが、口には出さなかった。

 

「うぁあ、でも、すごいね。同い年なのにこんなデータまとめてるなんて。」

 

虹夏はパソコンの画面を覗き込む。そこには売上データや在庫管理の数字が細かく並び、虹夏にはほとんど意味が分からないものだったが、彼女の目には直樹の真剣な横顔が輝いて見えた。

 

「まあ、こういうの好きだから。」

「へぇ、そうなんだ。でも、あんまり頑張りすぎないでね。……あ、そうだ!」

 

突然思いついたように虹夏は声を上げた。

 

「今度バンド作ることにしたから、応援よろしく! それだけ! じゃあね!」

 

元気な音色で宣言だけして、扉の奥へと消えていった。

その姿が消えた後も、直樹の耳には虹夏の明るい声が残っていた。視線を再びパソコンに戻すと、いつの間にか肩の力が抜けていることに気づき、彼は小さくため息をついた。

 

 

 

 

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「ありがとうございました!」

 

ライブが終わった後も仕事は続く。閉店後は掃除と片付けだ。床をモップで丁寧に磨き、飲み残されたカップやゴミを分別しながら回収する。その間、エクセルで「当日集計表」を開き、チケット販売数、ドリンク売上、物販の合計を入力。最後に売上金額が正しいかを確認し、保存後メールで送信する。

 

――今日も意味もなく、1日が終わっていくな

 

コンクリート打ちっぱなしの壁と、黒光りするフローリングが目に入る。天井に吊るされたスポットライトの陰影が、眠気を一気に拭い去り、少し憂鬱な気分になった。

 

「直樹くん、そこのケーブル、しっかり巻いておいてね」

 

星歌の声が聞こえた。入口近くのカウンターで、古びたレジスターを操作している彼女の姿が目に映る。

 

「了解」

 

短く返事をし、直樹はステージ脇のケーブルボックスから手頃なサイズのコードを引っ張り出し、一つ一つ丁寧に巻いていく。作業は地味だが、心を無にするにはちょうど良かった。

 

「今日は思ったよりドリンク減ってましたね、やっぱ勢いあるからなあのバンド」

 

ふと気になったことを雑談ついでに切り出してみると、星歌も同じことを考えていたのかもしれない、素早い反応がかえってくる。

 

「確かにね…直樹くん、ドリンクの在庫、ちょっと確認してきてもらえる?」

「わかりました」

 

指示通りな倉庫に向かう途中、直樹はフロアに目をやる。座席は木製のスツールとテーブルが並び、壁には過去に出演したバンドのポスターが無造作に貼られている。そのどれもが色褪せ、角が少しめくれており、天井近くに取り付けられたスピーカーからは、控えめなジャズが流れている。選曲したのは直樹だ。

 

まぁ星歌からは微妙な顔をされたし、PAからはヘビメタにしてくれないかと懇願されたが、まぁクラブでもないんだし、ライブが始まるまでは、というかジャンル被りの曲を流さないで、落ち着いていた方がいいだろう

 

なんてことを直樹は並べ立てて星歌を説得したが、もちろんただの趣味である。

 

「…やるか」

 

倉庫はライブハウスの裏手にある小さなスペースで、積み上げられた段ボールの隙間からわずかな蛍光灯の光が漏れている。足元にはケーブルやアンプのケースが雑然と置かれ、棚にはドリンクのストックが整然と並べられている。その一つ一つを数えながら、直樹はこの場所の不思議な心地よさを改めて感じた。

 

「直樹くん、どうだった?」

 

星歌が倉庫の入り口に立っていた。いつの間に来たのか、その静かな足取りに驚かされることが多い。

 

「在庫は十分にあります。でも炭酸水が少し少ないかも……次回の仕入れで追加しておきます」

 

飲み物の減りやどの種類のものがどれほど減ったかを覚えているわけではないが、同じではないということだけは断言できる。さすがに同じなら少しは覚えるはずだ。

まぁ全部似たり寄ったりだから覚えていないだけという人もいるかもしれない。

 

「そう、じゃあお願いするよ。ありがとう」

 

星歌は小さく微笑むと、再びカウンターへと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、直樹はふと彼女の肩越しに見えるステージに目をやった。控えめな照明が淡い輪郭を作り、そこだけが浮かび上がっているように見える。

 

夜、2組目のライブが始まると、フロアは観客の歓声と楽器の音で満たされる。その裏で、直樹は次々と押し寄せる業務に追われる。ドリンクを手にした客が「座席が足りない」と不満を漏らせば、追加の椅子を手配し、照明スタッフが「ランプが不調だ」と訴えれば、必要な工具を持って駆けつける。

 

一日が終わると、再び静寂が戻る。最後に機材の片付けを終え、消灯前のフロアに立ち尽くした。そこには、誰もいないステージが微かな余韻を残し、今日のライブの痕跡がわずかに漂っているだけだ。

 

「そっちの片付けは終わった?」

 

背後から聞こえる穏やかな声に振り返ると、そこにはオーナーの星歌が立っていた。

 

「はい、次のバンドのセッティングも終わりましたし、フロアの清掃も済ませました。あとはソフトドリンクメニューを最終チェックするだけです」

 

「いつも助かるよ。ありがとうね」

 

微笑む彼女の表情は、どこか遠くを見つめるようだった。あるいは直樹が彼女を直視したくなかったのかもしれない。

 

ーーーーーーーー

すべての業務を終え、事務室の電気を消して最後にライブハウスを見回す。この場所を満たした音楽と熱気の余韻が、わずかに残る中、店長が椅子に座ってPAと話をしているのを見た直樹は、事務室の扉を静かに閉じた。

その音に気付いた星歌は顔を上げ直樹を振り返る。

 

「お疲れさま。直樹くん、今日は忙しかったね」

 

星歌が、机越しに声をかけてくる。その表情の変化は分かりにくいが、少し口元が緩んでいた。彼女は人を労うときは大体こういう顔をする。

 

彼女は変わらない。どのループでも同じ低く凛々しい声、たまに見せる同じ穏やかな微笑み。

 

直樹には、この場所に何か未練のようなものがある。それが何なのか、言葉で説明はできない。だが、星歌がその中心にいることだけは確かだった。

 

彼女はどうして変わらないのだろう、と直樹は思う。

 

どのループでも、星歌は星歌のままだ。性格も、態度も、優しさも、何一つ変わらない。他の人間は多少の、ループと場合によっては大きく変わることもあるというのに、彼女だけは完璧に同じだ。

 

「まあ、慣れてますから」

 

対照的に淡々と答える直樹に、星歌は小さく笑った。その笑顔に彼は一瞬だけ懐かしさを憶えたが、それもすぐに消えた。感情を動かしても、次のループに持ち越せるわけではない。それなら、初めから何も感じないほうが楽だ。

 

店内には低く流れるジャズ。コンクリート打ちっぱなしの壁と無骨なスピーカー、客席に並ぶ木製のスツール。それはどのループでも同じ光景だ。むしろ、この「変わらなさ」が直樹にとって一種の精神安定剤になりつつあった。

 

「そういえば、今日の売り上げ送ってくれた?」

 

「あれ?」

 

訪ねられた問に、送ったはずだが確認まではしていなかったと思い返し、確認しようと椅子を借りてノートパソコンを膝に乗せる。スマホはバッテリー切れだったので、少し時間がかかるが家に帰ってからだと面倒になってしまうのでここで済ませよう。

 

傍らには、PAと星歌が座っていた。二人とも直樹の体面にいるため、面接のような形になってしまっている。 

 

それが理由かどうかはわからないが、PAからこんな質問が飛んできた。

 

「直樹くん、大丈夫ですか? ご飯食べるとこ見ないし、虹夏さんからも休憩も取らないって聞きましたよ、体、大丈夫ですか?」

 

直樹は少し目を伏せ、苦笑した。

その言葉にPAは頷きながらも、なおも心配そうな表情を崩さなかった。一方で、星歌はそんな会話を聞きながら、直樹に目を向ける。

 

「直樹君って、いつも遅刻してるんでしょ?」

 

直樹の指がキーボードの上で止まる。星歌は、直球を投げるようなその言葉に全く悪気はなさそうだった。むしろ、ただの興味本位のような調子だった。

 

「まあ、そうですね。」

 

直樹はあっさりと認めた。

 

「けど、それで困ることは特にないので。」

 

「ふーん。でもさ、なんでそんなに遅れるの? ちゃんと起きればいいじゃない。ここに来るときみたいにさ」

 

「……僕にとって、学校の時間に合わせて起きる理由が見当たらないから、ですかね。」

 

その瞬間、空気に一瞬の沈黙が訪れた。PAは直樹の横顔を見たが、直樹にそれ以上何も言わなかった。星歌もまた、軽く首を傾げるだけだった。だが、その背後で扉がわずかにきしみ、誰かが入ってきた気配がした。

 

その言葉に星歌は少し眉をひそめたが、特にそれ以上問い詰めることはなかった。PAもまた、何も言わずに黙り込む。どうやら二人とも、直樹にこれ以上何かを言う必要はないと判断したようだった。

 

しかし、そのやり取りを聞いていた者がもう一人いた。ライブハウスの扉がきしむ音とともに現れた虹夏だ。直樹だけに視線を送る彼女は、傍らに立つ二人には声もかけずに、机に近寄ってくると、手に持っていたペットボトルをカウンターに置きながら、鋭い視線を向けた。

 

「ちょっと、直樹君。」

 

明るく通る声に、三人の視線が同時に向かう。虹夏だ。水色のエプロンをつけた彼女が、カウンターにペットボトルを置きながら、いつものようにきらきらとした瞳で直樹を見つめている。しかしその瞳には、普段の天真爛漫さとは違う、どこか真剣さが宿っていた。

 

「何?」

 

直樹は眉を上げたが、その表情には少しだけ面倒くさそうな色が浮かんでいた。

 

「さっきの話、聞いてたんだけど。」

 

虹夏の言葉に、星歌とPAは微妙な表情を交わしながら沈黙した。虹夏は彼らを気にすることなく、直樹に向き直る。

 

「遅刻してるって、本当なの?」

「……あぁ、まあ。」

 

——面倒なことになってしまった

 

 

そう考えながらの発言だったのだが、あまりに無頓着な答えが、虹夏の目に火を灯した。彼女は直樹の正面まで歩み寄り、両手を腰に当てると大きく息を吸い込み、まるで子供を叱る母親のような口調で畳み掛ける。

 

「それでいいと思ってるの? 遅刻なんて全然ダメじゃん!」

 

虹夏の指摘に直樹は彼女を見つめながら、わずかに眉を寄せた。その表情には、反論と観念の両方が入り混じっているようだった。

 

「遅刻したところで誰か困るわけじゃないよ」

「困るとか困らないじゃなくて、自分のためにちゃんとするべきでしょ!」

 

虹夏の声は強く、しかしどこか切実だった。その目は真っ直ぐで、直樹を射抜くように見つめている。直樹はその視線を受け止めながら、小さくため息をついた。

 

「……分った。」

 

虹夏はその答えに一瞬驚いたように見えたが、すぐに表情をほころばせた。そして一歩近づき、ほんの少し顔を傾けながら、さらに追い打ちをかけるように言った。

 

「じゃあ、明日からちゃんと朝行くって、ここで約束して。」

 

直樹はしばらく彼女を見つめた。虹夏の目は冗談ひとつ交えない純粋な光を宿している。その目に根負けしたように、彼は小さくうなずいた。

直樹は一瞬だけ目を見開き、ため息をついた。しかし、虹夏の目の奥にある真剣さを感じ取り、観念したように小さく頷いた。

 

「……明日から、できるだけ早く行くようにします。」

「できるだけじゃなくて、ちゃんとね。」

「……はい。」

「…本当にね?」

「…………はい。」

「朝起きれないなら私が電話をかけるから、よろしくね」

「…え?」

 

虹夏の顔にはようやく満足そうな笑みが浮かんだ。星歌とPAも横でほっとしたように見えた。

 

「じゃあ、それでいいね。期待してるから!」

 

虹夏の表情が、ようやく晴れた。彼女は満足げに頷き、カウンターに置いたペットボトルを手に取ると、軽快な足取りで部屋を出て行った

「マジか…」

 

その背中を見送りながら、直樹は再びため息をつき、手をノートパソコンの上に置いた。しかし、その指は動かない。虹夏の言葉が耳に残り、彼の意識をつかんで離さなかった。

 

 

 

 

 

それは、空腹とも違う、怒りや悲しみとも異なる、得体の知れないものだった。「なに……これ……」虹夏はつぶやくが、その言葉に答える者はいない。窓の外では月が冷たく輝き、彼女の横顔を淡い光で照らしていた。彼女は自分の腕を強く抱きしめ、震える身体を押さえ込もうとした。ここ数日、眠れない夜が続いている。喉の奥に何かが詰まったような不快感と、全身を覆う倦怠感。それに加え、人の近くにいると妙に心臓が高鳴り、喉が渇くような感覚が襲ってくる。「私、病気なのかな……」虹夏は目を閉じ、母親のことを思い出した。幼い頃、母親が優しく彼女を抱きしめ、眠れない夜に歌を歌ってくれた記憶が蘇る。だが、今はその母親もいない。誰にも頼れず、誰にもこの奇妙な感覚を話すことができない現実が、彼女をさらに追い詰めていた。「お母さん……なんでいないの?」彼女は心の中で問いかけるが、答えが返ってくるはずもない。月明かりの中、虹夏は自分の手をじっと見つめた。指先に浮かぶ青白い血管が、なぜかいつもよりもはっきりと見える気がした。そして、ふと気づく。最近、食べ物の味が薄く感じられる。甘いものも、辛いものも、以前ほど美味しいと思えない。それなのに、他人の声や匂いがやけに鮮明に感じられるようになったのだ。特に、クラスメートが何気なく擦りむいた指から血が滲んでいるのを見たとき。彼女の喉が乾き、頭の中が真っ白になった。その記憶を思い出すと、再び胸がざわつき、喉が焼けつくように痛んだ。「いや……違う、そんなこと……」虹夏は必死に首を振り、自分を否定しようとした。しかし、内側から湧き上がる欲望は、彼女の意志を嘲笑うかのようにさらに強くなっていく。「私、どうしちゃったの……」彼女の目から涙がこぼれた。孤独と恐怖、そして自分が壊れていくような感覚。それらが混じり合い、彼女を押しつぶそうとしていた。ライトの中、虹夏の影だけが静かに震えている。その影はどこか歪み、人間らしい形を失いかけているように見えた。

 

 




次は郁代出てきます
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