寄生生物: 喜多郁代 【I'm COMEing let's go】 作:kisuzu
教室に差し込む朝の柔らかな光は、まだ眠たげに机に落ちていた。時計の針は始業まで一時間以上を指している。学校にこんなに早く来る生徒など、部活動に勤しむ者か、ごく稀に見かける早起きの生徒くらいだった。
そんな中村がたまたま今日、朝早く学校にやってきたのには、特に理由があったわけではない。ただなんとなく、友人たちとの集合時間よりも少し早めに登校してみたくなっただけだ。
「……えっ、なんで?」
――教室に入った途端、彼女は驚きの声を漏らした。教室の中にはすでに先客がいたのだ。それも、いつもなら遅刻してきて、授業の始まりとともに滑り込んでくるような男が。
「直樹……くん?」
直樹が教室の隅の席でノートパソコンを開いて何やら作業をしているのを見て、中村は目を見開いた。
「おはよう。」
直樹はノートパソコンから視線を上げることもなく、低い声で返事をした。声には抑揚がなく、まるで中村がそこにいることを確認する必要もないかのような態度だった。それが余計に、中村には彼らしいと思えてしまう。
「え、どうしたの? こんなに早くに。」
中村は不思議そうに首を傾げながら、直樹の近くの机に腰掛けた。彼女はその無防備な笑顔で彼の気を引こうとしているつもりはなく、純粋な興味から質問を投げかけているのだろう。
「別に、大した理由はないよ。」
「いやいや、直樹くんが朝早く来るなんてあり得ないじゃん。いつも遅刻ばっかりなのに。」
直樹はようやくノートパソコンの画面から目を離し、中村に目を向けた。その顔にはいつもの無表情が浮かんでいたが、ほんの少しだけ眉が上がっているのに中村は気づいた。
「……君には関係ないことだと思うけど。」
「なにそれ、冷たい。そんなこと言わなくてもいいじゃん。」
中村はむくれるように頬を膨らませ、直樹の机に肘をついた。彼女の視線はノートパソコンの画面に移り、そこに映し出されている数式やデータの羅列に興味津々といった様子だった。
「これ、何してるの?」
「仕事。別に楽しいものじゃない。」
「ふーん。でもなんか、直樹くんって本当にすごい頭良さそうだよね。テストでいつも一位なのは、みんな知ってるけど、なんで遅刻ばっかりしてるの?」
その質問に直樹は少しだけ眉間にしわを寄せた。答えようと口を開きかけたが、結局、何も言わずにまた画面へと目を戻した。
それを見た中村も、気分を悪くすることもなくそれ以上無理に追及しようとはしない。
「まあ、いいけど。けどさ、ちょっと意外だったな。直樹くんが朝早く学校に来るなんて…やっぱりなんか変な感じ。」
中村はくすくすと笑いながら言った。その明るい笑顔は教室の静けさをふわりと和らげるようだった。
「……早く来ることもある。ただ、それだけさ。」
直樹の声は相変わらず低く、そっけないものだったが、どこか諦めたような響きがあった。それを聞いた中村は、ふっと微笑んで立ち上がる。
「なんか直樹くんって思ったよりも面白い。じゃ、またあとでね。」
その一言を残して、彼女は軽やかに教室を出て行った。
直樹は画面に戻り、朝の光だけが静かに教室に広がる中、彼は再びキーボードに指を走らせた。
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教室の隅、誰からも注目されることのないとまではいかずとも、それなりに目立たない廊下側の席。。直樹はいつものように自分の席でノートに何かを書き込んでいた。授業の内容か、あるいはただの落書きか。周囲の騒がしさとは対照的に、彼の空間だけが切り取られたようにひっそりとしていた。
――あぁ、腰が痛い
直樹は朝から腰痛に悩まされていた。別に精神年齢に引きずられて肉体が劣化したという話ではなく、単純に昨夜も、というか一瞬間以上前から色々あって床で眠ることになっているのが原因だ。
腰の痛みを少しでもましにしようと腕を回して痛む個所を擦す。そんなとき、粗雑な机の表面にふと影が差し込んだ。顔を上げると、そこには中村が立っていた。
「直樹くん」
隣にいた中村が急に声をかけてきた。その声は周囲のざわめきの中でも、しっかりと直樹の耳に届いたが、話しかけられることなど今までなかったため、直樹は一瞬戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。
「……何か用?」
いつもより小声。それでも中村は気にした様子もなく、席の隣に腰を下ろした。
「さっきの数学の問題、答え書いてなかったよね。分からなかったの?」
突然の話題に直樹は少し眉をひそめた。
「……ああ、別にそんなわけじゃないけど、書く気にならなかっただけ。」
「ふーん。」
中村は少し首を傾げ、彼のノートを覗き込んだ。そこには綺麗な字で計算式が並んでいる。問題が解けなかったわけではないことは明らかだった。
「もったいないね。せっかく正解なのに、なんで書かないの?」
中村の問いに、直樹は一瞬だけ目を伏せた。そして、口を開く。
「別に。俺が答え書いたって、誰も気にしないだろうし……」
完全に適当な答えだったが、中村は少し怒ったような口調で
「そういうことじゃないでしょ?」
思わぬ反撃を食らった直樹は少し面食らいつつも、聞き返す。
「そういうことじゃないって?」
彼女は少し笑いながら言葉を続ける。
「誰かが気にするかどうかじゃなくて、直樹くん自身がちゃんとやったことを認めてあげないと。」
その言葉に直樹は目を見開いた。しばらくの間、何も言えないまま中村を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……そうかもな。」
「よし、それでいい。」
中村は満足そうに笑い、立ち上がった。そして、直樹のノートを指差しながら言う。
「次の授業では、ちゃんと書いてみてよ。そしたら、私が一番に気づいてあげるから。」
それだけ言い残し、中村は席に戻っていった。
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直樹は3時間目の授業中、スマートフォンを机の下で操作していた。画面には星歌とのやり取りが映し出されている。
件名: 12月21日分 売上報告
宛先: 伊地知オーナー
本文:
伊地知オーナー
お疲れ様です。マネージャーの 橘 直樹 です。
12月21日(木)の営業分について、売上レポートを作成いたしましたのでご確認ください。詳細は添付のExcelファイルに記載しております。
概要:
チケット販売数:80枚(前売り60枚、当日20枚)
ドリンク売上:¥120,000(主力はハイボールとビール)
物販売上:¥45,000(Noir Arcadia関連グッズが中心)
備考:
昨夜、ハイボールの在庫が逼迫していたため、追加発注を行いました。納品予定は12月22日(金)です。
ドリンクカウンターで「待ち時間が長い」との声がありましたので、金曜日の人員配置を増強する予定です。
詳細についてご不明点がございましたらお知らせください。
よろしくお願いいたします。
マネージャー 橘 直樹
添付:
売上レポート_1221.xlsx
メールを送った数分後、ロインの方にメッセージが飛んでくる。
『ありがとう、でも授業ちゃんと受けな』
こちらを心配しての文言に、素直に『はい』とだけ返信し、スマホで株市場でも見ようとしたところで、またもロインの通知がポップアップされた。
内容を確認すると、『ちょっとした頼み事なんだけどさ』という前置きが書かれ、その後の文章が気になるところだ。
『なんですか?』
その次の彼女からのメッセージは簡潔ながらもどこか切迫感があるものだった。
『最近、虹夏の様子がおかしいから直樹くんの方からも機会があったら何があったか聞いてみてくんない?』
彼は星歌のメッセージをしばらく見つめ、思案する。この内容が示唆するのは、虹夏の不調が彼だけではなく周囲にも認識されるほど大きな変化であるということだ。しかも星歌が直樹にこんなことを頼むとなると相当重い不調であると推測が経つ。
――やはり今回のループは…
『分かりました』
そう返信すると、直樹はスマホを一旦伏せ、授業内容に意識を戻そうとする。しかし、次第に虹夏のことが頭を占め、ノートに取った内容は意味を成さない落書きに変わっていった。
「どういうことなんだ…?」
この時期に何か特別な問題があるとも思えない。だが、それだけに今回の異変は不可解で、彼の胸にわずかな高揚感をもたらしていた。
不謹慎な気持ちを自覚しつつも、彼はその興味を否定できなかった。自分にしか解決できない問題かもしれない、そんな自己陶酔めいた感情が心の片隅で芽生えていたのだ。
もともとそういう気質はあったのだが、ループでの経験と退屈が色々それを悪化させてしまったのが、今回顔を出しかけている。
それを認識した直樹は努め胸を躍らす高揚感のようなものを沈め、気づけば、授業は終わりを告げていた。いつの間にか終わった3時間目のチャイムが、彼の思考を現実に引き戻す。
「昼休みになったら、ロインでも送るか」
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昼休みになると、教室の中は自然と二つのグループに分かれ始めた。おもむろに立ち上がって食堂へと向かうメンバーと、弁当を広げてその場に居座るメンバーだ。食堂派たちは各々の財布を手に軽やかに歩き出すが、弁当組はもう少しのんびりとしている。話題は勉強や部活の話、時には少しの恋愛相談にまで及び、教室は昼休み独特のざわめきに包まれていた。
直樹はスマートフォンを手に持ったまま、微妙に気まずい表情を浮かべていた。原因は右手に握られたスマホにある。
『最近どう?』
と送信したメッセージは、未だに既読にならない。普段なら、虹夏はスタンプのひとつでもすぐに送ってくるのが常だ。内容がどうであれ、彼女が既読をつけない状況というのは珍しい。
「はぁ…」
彼はスマホを一度机の上に置き、軽く頭を掻いた。
いくらなんでも、唐突すぎたか?それとも簡素すぎたか? 自問自答が頭を巡る。虹夏の調子が悪いという話を聞いた直後、あまり考えずに送ったこの短いメッセージが、少し軽率だったのではないかと思い始めたのだ。
「まぁ、やらないよりマシってことで…」
反省しかけたが、考えるのが面倒になり、数秒でその気持ちを放棄した。深刻そうに見えて実は何でもない、そんな可能性だってある。昼休み中に解決できるような軽い問題であるなら、それはそれでいいのだ。
そう割り切ると、直樹は椅子から腰を浮かせ、食堂へ向かおうと立ち上がろうとする。
直樹には弁当を作ってくれる家族も恋人もいない。それに、忙しい朝の時間帯に弁当を作る余裕などあるはずもない。自然と昼食は食堂かコンビニ飯に限られていたが、直樹の中では圧倒的に学食派だった。
「温かいってだけで、美味さが倍増するんだよな」
直樹の持論だ。学食のカレーやラーメンの湯気を思い浮かべるだけで、気持ちが少しだけ明るくなる。
しかし、立ち上がりかけたその瞬間、近くのグループから聞こえてきた話題が彼の耳を引いた。
「でさ、喜多さんってさ、ほんと怒ったとこ想像できないんだよな」
それはクラス人気者、喜多郁代に関する話題だった。
直樹は浮かしかけた腰を椅子に座り直し、会話に耳を傾ける。
どうやら 最初に口を開いたのは、後ろの席に座る佐々木らしい。彼は足を机に乗せるような無造作な姿勢で、片手でペンをくるくる回しながら話しかける。
「確かに、喜多さんが怒るところなんて想像つかないよね」
斜め前の席から中村が振り返りながら同意すると、近くにいた数人がうなずき、視線を郁代に向けた。
「うーん、怒ることって、そんなにあるかな?」
郁代は小首をかしげ、困ったように微笑んだ。その笑顔が自然すぎて、周りの空気が少し和らいだように感じられる。
「でもさ、もし喜多さんが本気で怒ったら
ヤバいんじゃね? 怒らせたら一発アウトみたいな?」
佐々木が茶化すように言うと、男子たちが一斉に笑い出す。隣に座っていた藤井が、肘で佐々木を軽く突きながら加えた。
「お前、怒らせる前にまず謝っとけよ。喜多さんがキレたら、お前みたいなやつ秒で消されるぞ」
「え、俺そんな悪いことしてないけど?」
佐々木が冗談めかして肩をすくめると、さらに笑い声が広がった。
「でも、喜多さんってほんと優しいよね。なんか、絶対人の悪口とか言わなさそう」
中村が静かに言うと、周りの空気が少しだけ落ち着いた。郁代はそれに応じるように視線を上げ、軽く笑みを浮かべた。
「そうかな。悪口を言うほど気が強くないだけだと思うけど」
「いやいや、それがすごいんだって! 最近誰かに相談されたりとかしてないの?」
佐々木が興味ありげに身を乗り出すと、郁代は少しだけ視線を下にそらした。その仕草がほんのりと恥じらいを感じさせたが、彼女はすぐに言葉を続けた。
「まあ、ちょっとだけ。勉強とか、あと家庭のこととかかな」
「やっぱり! なんかそういうの似合うわー。喜多さんって絶対頼られるタイプだもんな」
「それ、ただ都合がいいってことかもしれないよ?」
郁代が少し冗談っぽく答えると、再び周囲が笑いに包まれた。その声の輪の中で、藤井がふと真顔になり、軽く口を開いた。
「でも、頼られるのって大変じゃない? 無理しすぎないようにな」
その言葉に郁代は驚いたように藤井を見つめた。少しの間があったあと、彼女は小さく頷き、静かに笑みを返した。
その笑顔がどこか曖昧で、彼女の心の奥に隠されたものを誰も知ることはできなかったが、教室の空気はその笑顔によって再び穏やかさを取り戻した。
「………」
直樹は何も言わず、微妙な距離感を保ちながらその会話を聞いていた。自分の視界には映らない場所で交わされる言葉たちに、耳だけが敏感に反応する。
……怒らない“人間”なんているはずはない
内心でそう呟きながら、直樹は学食へ行くタイミングを逸してしまった自分を少しだけ呪った。
このままではせっかくの学食が冷めてしまう。
特に得られるものもなかったしな…
直樹は心の中でそう結論づけると、立ち上がり、鞄から財布を取り出した。教室に残る生徒たちの話し声を背に、昼食を抜いてサッカーへと興じる声の聞こえる廊下へと足を踏み出す。
学校の食堂へ向かう途中、直樹は廊下の窓から差し込む日差しをぼんやりと眺めた。昼休みの喧騒が遠くから聞こえ、足元にはいくつもの靴音が重なって響いている。
「今日のメニューはなんだっけな…」
そんな独り言を呟きながら、食堂の扉を開けると、すでに多くの生徒で賑わっていた。列を作る生徒たちがトレーを手に次々と進み、奥ではカウンター越しに給食係の職員が忙しそうに注文を捌いている。
直樹は列の最後尾に並び、掲示されたメニューを眺めた。今日の日替わりメニューはカレーライスと、煮込みハンバーグ定食。それからパンと軽食コーナーもいくつかの選択肢が並んでいる。
「カレーかハンバーグ…」
しばらく悩んだ末、直樹はハンバーグ定食を選んだ。直樹はカレーが大好物である。それはどんなカレーでも食べたら笑顔を浮かべるくらいには好きだ。だがここ一週間、もろもろの事情から晩御飯は決まってカレーライスのみという生活を送っている身からすれば、ここでカレーを食べてしまうのは戦略的敗北である。
というわけで、入り口に入ってすぐ左横にある食券機―-ピークを過ぎたせいでカウンターと対照的にも食券機の周りに人は少なかった――で食券を購入し、窓口のコーナーまで行って食事を受け取るためにお盆と箸を手に持ち、横にスライドするように足を交差させてながら異なる種類の食べ物を受け取っていく。
味噌汁、ご飯といった品物が次々とトレーに乗せられていく様子を見ていると、胃袋が軽く刺激される感覚を覚える。
食券の引換をすませた直樹は、窓際の空いた席を見つけると、そこへ向かって足を運んだ。
座ると同時、ふぅ、と一息ついて手を合わせる。
「いただきます」
箸を使って、目の前の食事をきりほぐし口へと放り込む。
ハンバーグは予想以上に柔らかく、煮込みソースがじんわりと舌に広がる。付け合わせのサラダはシャキシャキとしていて、心地よい歯応えがある。食堂の喧騒に耳を傾けながら、直樹は無心で食事を進めていった。
食事を終えた頃には、外の空気も少し落ち着いてきたように思える。グラウンドでサッカーをやっていた声もいつのまにか止んでいた。
トレーを片付け、食堂を後にするころ、直樹はどこかぼんやりとした熱っぽさを感じた。
教室に戻るつもりだったが、気分が優れない。このままでは午後の授業に集中できそうもないだろう。
「保健室行くか…」
そんな発想に至ったものの、普段ほとんど保健室に行くことのない直樹は、その正確な場所を思い出せなかった。仕方なく、一階の廊下をブラブラと歩きながら、保健室を探す羽目になった。
あそこだったか、いやこちらか? いやいやこっちだったような気もするな。
そんな思考を巡らせながら足を随所へと運んでいる時のこと…
「わたしも、ユーチューバーになれば…働かなくていい…?」
なにやら頭の悪そうな発言が聞き覚えのある声から飛び出てきたため、つい足を止めてしまう。
恐らくここにいるだろうという推測の下、階段裏に顔を回してみると、案の定そこにヤツはいた。
「あ!? すみませんちょっと疲れて休んでるだけで!」
なんか直樹を見つけて必死に弁明を試みているようであったが、それらの言葉は直樹の耳には届いていない。
ーーやはり、違う。
後藤ひとり。入学から一ヶ月常にクラスで浮いていて授業以外で声を聞いたことがあるものは恐らく校内にはいまい。
恐らくボッチという存在をこの学校で決めるとしたら満場一致で認められる真の孤独者、ボッチof ボッチ。
だが、直樹にとってはそれだけの存在ではなかった。
橘直樹はこの後藤ひとりという女になさかつて、多くを学んだ。もっぱら法律については彼女から教示を受けたし、前回のある”事件”では協力者であると同時に、直樹の師匠でもあったのだ。
ーー性格が違いすぎる
目の前にいる彼女は、かつて直樹の知る「後藤ひとり」とは似ても似つかない存在だった。
後藤ひとり――入学してから約一ヶ月、クラスで浮き続け、授業以外で声を聞いた者などほとんどいない。恐らく、学校全体で「ボッチ」という称号を与えるならば、満場一致で選ばれるであろう人物。彼女はその孤独の頂点に君臨する存在だった。
だが、直樹にとってはそれだけの存在ではない。
橘直樹はこの後藤ひとりという女から多くを学んだ。もっぱら法律に関しては彼女の教示によるところが大きいし、かつての「事件」においては協力者であり、同時に師匠でもあった。
――性格が違いすぎる。
あまりにも違う。かつての後藤ひとりは、学内1位の成績を誇り、社交性を兼ね備えつつもどこかミステリアスで、カリスマ性さえ漂わせていた。
それがどうだ。今、目の前で土下座を繰り返し、「ニート計画」を画策しているこのピンクジャージの存在は、かつての彼女の面影をどこにも残していない。
「はぁ…」
失望の感情が堪えきれず、直樹の口からため息が漏れた。その音を聞き取ったひとりは、まるで死んだような顔で涙を浮かべる。
「…!?す、す、すみません」
それを聞いたひとりは死んだような顔になって涙を浮かべる。
「いや、別にそれより保健室の場所知らないか?」
使えるものは使う主義者の場合は思考を切り替え、目の前の存在から保健室のありかを聞き出すことにした。
「あ、それならすぐそこです。」
「そこ?」
ひとりに先導されて長い廊下を突き当たると、
何度か通ったところのはずだが、壁だと思っていた角の先に「ノックしてください」と書かれた立て看板とともに一つの部屋があった。
扉に掲げられた「保健室」の小さなプレートは幾度も手に触れられたのか、角が丸まり、少しばかり鈍い光を放つ
「あぁ、見逃してた。ありがとう助かったよ。」
「いえ、いえ、ではわたしはこれで!」
そう言うとピンクジャージは光の速さで走り去っていく。
「運動神経は元のままなのか…?」
直樹は後で調べる必要があるかもなと考えながら保健室の扉を開いた。
ガラガラッ
扉を開けると、微かに漂う消毒液の匂いが鼻腔を満たす。その匂いにはどこか懐かしいものがあり、子ども時代の夏の日、ひざをすりむいて飛び込んだあの日の感覚が呼び覚まされるかのようだ。曇りガラスの窓からは昼下がりの光が柔らかく差し込み、時折影を落とす木々の揺らぎが、まるで静謐な波紋のように白い壁に映る。
そんな絶好のサボり…もとい憩いの景色もほどほどにあたりをざっと見渡してみる。
どうやら養護教諭も生徒も、誰もいないようで、ただ長椅子の横に保健の先生の愛用らしき湯飲みが置かれているだけだ。
「ラッキーだな」
そう言って直樹が目をつけたのは、天井近くのレールに並ぶ清潔に保たれた白いカーテンに区切られたベッド。
直樹は無言でそのうちの一番奥のベッドまで突き進み。靴も脱がずにそのまま横になった。
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保健室でしばらく休み、体調が良くなった直樹は怠い6時間目の物理を飛ばし、楽に他の作業ができる7限から顔を出した。
こんなのことを偶にしでかすが直樹だが、試験の成績はは学年1位であるため黙認されることが多い。
休み時間にはさらっと教室に戻り。さらっと授業を受け流すと、あっという間に放課後がやってきた。
夕暮れの教室は、日差しに照らされた机の影が少しずつ伸び始める中、ざわめきが漂っていた。既に帰宅部のプロたちは七限終わりに鞄の準備を終わらせていたのか、既に帰り、その他の生徒もチラホラと帰り始める。
そんな中、喜多郁代は窓際の席に腰かけ、クラスメイトたちとのおしゃべりに加わっていた。男子も女子も入り混じり、無邪気な雰囲気が教室の一角を支配している。
「喜多さんさー、週末って暇?」
最初に切り出したのは、中村だ。彼女は席を
離れて郁代の机に肘をつきながら、少し探るような笑みを浮かべた。
「え、今のところ予定はないけど……どうしたの?」
郁代が少し戸惑いながら答えると、その横で佐々木が声を上げた。
「お、いいじゃん。じゃあさ、みんなでどっか行かない?」
「急にどうしたの、佐々木?」
斜め前の席から藤井が顔を上げて苦笑する。佐々木は椅子の背もたれに腕をかけながら、ふざけた口調で言った。
「いやさ、最近ずっと家とバイトの往復だからさ、そろそろどっかで羽伸ばしたいなーと思って」
「そんなに頑張ってるの? 偉いじゃん」
中村が軽くからかうように言うと、佐々木は照れくさそうに鼻をこすった。
「まあな。でもさ、みんなで行ったほうが絶対楽しいじゃん? 喜多さんもどう?」
「うーん……どこ行くの?」
郁代は少し悩むように指先で顎に触れた。その仕草に、中村がすかさず提案を投げる。
「遊園地とかどう? この前新しいアトラクションができたって聞いたよ!」
「いいね、それ!」
他の女子も話に加わり、すぐに賛成の声が上がった。すると、佐々木が少し不満げに口を挟む。
「遊園地かー。いいけどさ、男子も楽しめるやつがいいな。絶叫系ばっかじゃなければ」
「いや、佐々木って絶叫系苦手なんだっけ?」
藤井がからかい半分で尋ねると、佐々木は顔をしかめた。
「苦手ってわけじゃねえけど、ほら、女子が怖がるの見てるほうが楽しいっていうか?」
「最低」
と、中村が即座に突っ込みを入れる。
「まあまあ、それなら水族館とかもいいかもね」
郁代が静かに提案すると、藤井が興味を示したように頷いた。
「水族館か、いいな。そっちなら落ち着いて話もできそうだし」
「なんか大人っぽいな。じゃあ、みんなで水族館行って、その後どっかでご飯とか?」
佐々木が言うと、中村がすぐに反応した。
「それ、賛成! 夜景が綺麗なレストランとかもいいよね」
「え~、私あそこ行きたい、ほら、完全無人化されたカフェ」
沢渡が反対の声とともに自分の希望を叫ぶ。
「あ~あれかぁ、でも高くね?」
バイトの金をPS5のために貯めているらしい佐々木がそれに反対した。
「お前らオシャレすぎだろ。いつも通りサイゼリヤな」
男子たちが苦笑いしながらも、どこか楽しそうにしているのを見て、郁代は自然と微笑んだ。
「じゃあ、土曜の昼からでいいかな?」
藤井がまとめるように話すと、全員が頷き、話は一気に具体的になった。
「なんかこういうの久しぶりだな。みんなで出かけるの、楽しみだね」
郁代がぽつりと言うと、中村が満面の笑みでうなずいた。
「でしょ? こういうのもっとやらなきゃね!」
教室に広がる笑い声が、夕方の柔らかな光の中で響き渡る。穏やかな時間――
――そんな時も悠久に続くわけではない。周りの笑い声がまだ残る中で、郁代は両手を軽く合わせ、首をかしげるようにして、どこか申し訳なさそうに言った。
「ごめん、私そろそろ帰るね」
直樹の耳に郁代の声が響く。懐かしくも憎い声が
「そっか、じゃあね、喜多さん」
佐々木はは少しだけ顔を曇らせ、手で髪をかきあげるような仕草をした。まるで心の中で迷っているかのような様子で、ふわりとした声で言う。
「え~、マジか…」
その声には、まだどこか遊び心が残っている。でも藤井はそれに反応せず、無理に笑顔を作ることなく、淡々と言った。
「仕方ないだろ」
そして、郁代がもう一度振り返り、やや戸惑った様子で言葉を続ける。
「ごめんね?」
「分かってるよ。りょ~かい、気をつけてな」
佐々木が軽く手を振ると、郁代は明るく頷いてから、荷物を軽く肩にかける。彼女が立ち上がり、グループの輪から少しずつ離れていく。その背中を見送りながら、直樹は自然と視線を下ろし、足元に視線を落とす。
そうして、帰る支度を整えた郁代は動き出した。
——直樹の方へと
「――じゃあ、直樹くん。一緒に帰ろう?」
その言葉に、直樹は無意識に心の中で少しだけ身構えるような感覚を覚える。だが、他の誰かに気を取られないよう、無理に穏やかに返事をする。
「あぁ」
その一言だけを発して、先ほどまで郁代と会話をしていたグループからの視線を感じないように顔を下げ、頷くふりをしながら視線をさらに地面に落とした。郁代はその様子を見て少しだけ微笑み、軽く歩みを早めながら直樹のそばに寄り添った
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夕焼けの色が校舎のガラスに映り込む。刻一刻と赤みを増す空は、まるで燃え尽きる寸前の火のようだった。直樹と郁代は生徒たちは帰れるという開放感から楽しげに友人たちと話し合い、自然と列をつくりながら笑い合いながら学校をあとにしていく。
直樹も少し騒がしい校門をくぐり、帰路につこうとする。
「バイバイ! 喜多さ〜ん!」
「うん! またね!」
その隣にいる北郁代はクラスメイト、あるいはそうでない人にも別れを惜しまれながら挨拶を交わす。他愛のない日常の一場面。
学校の正門を出たあともその応酬はしばらく続いた。
曲がり角を曲がり、人通りの少ない通学路からは外れた、細長い一本道に入ったところでようやく2人は静寂を手にする。
細い道を並んで歩いているため。左肩側、車道から距離を取って、しかし直樹の方にはぴったりくっつく距離感で足を進める北郁代
郁代は、手にした鞄を軽く揺らしながら話し続けている。その声は、かつて彼が知る彼女そのものだ。柔らかで、少し間延びした語尾。
「なんだか今日、中村さんたちに揶揄われちゃった」
「そうか、なんて言われたんだ」
「直樹くんと付き合ってる? って」
「それは災難だったな」
「ねえ、直樹君。」
郁代は足を止め、顔を上げた。沈む夕陽の光が彼女の髪を赤く染めている。
「今日の授業、やっぱりちょっと難しかったよね。直樹君は全部分かった?」
郁代は、まるで変わらぬ無邪気な声で尋ねた。
「まあな。」
直樹の声は簡潔だった。問いに対する答え以上のものは含まれていない。自分で言うのもあれだが今の直樹はほぼ悟りを開いたブッタ、現代に生きるミイラのようなものである。
語学や医学にとどまらず、経営学や法的論法、心理学に政治学、果ては格闘から錠破りまで修士になれる程度には網羅しているのだ。最終的に哲学の深みにはまってからそう言った能力を鍛える機会は減った。
今はひたすら考え、この状況は宇宙人が地球全体に謎のレーザーを照射し、すべてをループさせていて、そのことに自分しか気づいていないのではないかと真剣に考えている。
2000年の積み重ねがそこでいいのかブッタ。
ちなみに100年前までは。脳のバグが引き起こした何かなのかという仮説に基づき脳に電流を流したり、住狩りツリーで頭から飛び降り自殺を敢行してみたりしたものの、何事もなかったかのように次のループが始まり、特に変化がなかったためやめた。
それでいいのかブッダ
郁代は小さく笑った。
「さすが。私なんて、途中で何が何だか分からなくなっちゃったよ。ほんと、直樹君が隣にいてくれて助かるな。」
そう言ってにこやかに笑いかけてくる郁代。クラスの女子との二人きりの下校。
そんな穏やかな日常を直樹は味わっている。
横目で、柔らかい表情を浮かべる郁代に目をやった目は細められ口角は上がっている。
何度見ても感心する。
——うまくなったものだ と、
「…?」
直樹の態度に何かを感じだったのか、郁代はコテンっと首を傾げて何を言うでもなく顔をじっと見つめる。
そのには一見すると不安が浮かび、疑問で。けれど、ずっと「人間」を”見てきた”直樹にはわかる。
それはあまりにも巧妙で、彼女を知らない者ならば――いや、よく知っているものであっても――違和感を抱かないだろう。
しかし、直樹にはそれがただの“演技”であることがわかる
――彼は、彼女の中身が既に本当ではないことを知っているのだ。
ーーーーーーー
一ヶ月ほど前のことだ。
その朝、喜多郁代の姿は教室に見当たらなかった。彼女の席には誰も座っておらず、机の上に鞄も置かれていない。空席の向こうに見える窓辺には、朝日が淡い影を落としていた。いつもなら彼女の小さな声が響き、教室の空気が少し明るくなる時間だったが、その日は違っていた。
「喜多さん、どうしたのかな?」
前の席の田口がそう呟いたのは一時間目が始まる直前のことだ。その時点で、まだ誰も本気で心配してはいなかった。郁代が遅れることは珍しいことではない。彼女は時折寝坊をし、慌てた様子で教室に駆け込んでくることがあった。髪の毛を乱したまま笑いながら「遅れちゃった!」と席に着く、その無邪気な姿が愛らしいとさえ思われていた。
だが、その日、彼女はいつまで経っても現れなかった。
一時間目のチャイムが鳴り終わり、授業が始まってもなお、教室はどこか落ち着かない雰囲気に包まれていた。郁代の机をちらちらと見る者、ノートにペンを走らせながらも何度も教室の扉に目をやる者。担任の林は、授業の合間にさりげなく「北さん、今日はどうしたんだろうね」と口にしたが、誰も答えられなかった。
昼休みになると、郁代の友人たちが動き出した。一人がスマートフォンを取り出し、彼女にメッセージを送った。「今日、学校来ないの?」という簡単な内容だったが、返事はなかった。その後、数人が電話をかけてみたが、どれも呼び出し音が鳴るだけで繋がらなかった。
「家に連絡してみようか?」
最初にそう提案したのは、中村だった。彼女は電話番号を調べ、郁代の家に電話をかけた。しかし、電話口に出た母親の声はどこか混乱していた。
「郁代? 今、家にいないんです。今朝も帰ってこなくて……。」
その言葉を聞いた中村は、受話器を握り締めたまま固まった。周りの友人たちが「どうしたの?」と声をかける中、彼女は「帰ってないって」と呟いた。その声は小さく、震えていた。
担任の林は楽観的だったが数日後にはかなり憔悴している様子だったのを直樹はよく覚えている。そのころには、すでにクラス全体がざわついていた。林は冷静を装いながらも、授業中もホームルームの際も、明らかに動揺していたし、なにより北郁代という星がいないクラスの雰囲気は暗い。
「警察に相談した方がいいかもしれないね」と話す誰かの言葉は、教室の中に重く響いた。
それからの一週間、郁代の行方は分からなかった。クラスメートの間では噂が広がった。「誘拐されたんじゃないか」「家出したんだよ、きっと」といった憶測が飛び交った。彼女が失踪する前に何か変わったことはなかったのか、友人たちは必死に思い返したが、特に手がかりは見つからなかった。
――そして、ある日。
郁代は突然、学校に戻ってきた。
それは月曜日の朝だった。教室の扉が音を立てて開き、そこには郁代が立っていた。いつも通りの制服姿で、少しだけ髪を乱している。その顔には変わらない微笑みが浮かんでいた。
まるで何事もなかったかのように。教室のドアを開け、教室に入った彼女はおっとりと微笑みながら、「おはよう」と口にした。その声に安堵し、友人たちはいっせいに彼女を囲んだ。「どこに行ってたの?」「どうして連絡しなかったの?」矢継ぎ早に放たれる質問。しかし、そのすべてに郁代は首を振った。
その表情には嘘はなさそうだったが、誰もが納得しきれない様子だった。家族に聞いても、彼女がどこにいたのか全く分からないと言う。彼女自身も、その期間の記憶が完全に抜け落ちているのだと繰り返した。
医師の診断では、精神的なショックが原因で記憶喪失を引き起こした可能性が高いとのことだった。
伝え聞いた話だし、断言ではなかったと思う。診断しないといけないから診断した。
理由が必要だから理由をつけた。
なんとなく、そうなんじゃないかということになり、生徒もなんとなくそう言うモノとして扱い始めた。
また、彼女が教室で物を落としたり、忘れ物をしたりすると、すぐに誰かが拾ったり手渡したりした。以前ならば特に気に留めなかった些細な行動が、今では一つ一つ丁寧に気遣われているように見えた。
それでも、郁代が教室に戻ってきたこと自体が一種の「日常の回復」を意味していた。クラス全体が暗い影に覆われていた一週間の記憶を、まるでなかったことにするかのように、時間は過ぎた。
ある日の昼休み、郁代が一人で弁当を食べていると、友人たちが自然と隣に座り始めた。彼女の表情が少しでも曇ると、すかさず「大丈夫?」と声をかける者もいた。また、何気ない話題で笑わせようとする者もいて、郁代の笑顔を取り戻すために皆が協力していた。
学校行事の準備でも、彼女が負担を感じないようにとクラス全体で気を配るようになった。体育祭の練習では、郁代が無理をしないようにと、彼女が出場する競技が特に目立たない種目になるよう話し合われた。文化祭の準備では、彼女が積極的に参加したいと申し出ると、「無理しなくていいよ」と優しく言いながらも、その意欲を尊重するように配慮されていた。
一方で、彼女の記憶喪失について触れる者はほとんどいなかった。あの一週間、どこで何をしていたのか――その疑問は誰もが抱えていたが、答えが返ってこないことを理解していたからだ。
それでも、一部の生徒たちはその不自然さを拭いきれなかった。「本当に何も覚えていないのかな。」昼休みの裏庭で、小声で噂話が飛び交う。表向きは気遣っている素振りを見せつつも、心の底では彼女に対する疑念や戸惑いを抱いている者も少なくなかった。
林はその様子をじっと見守りながら、「いいクラスだな」と呟いた。しかし、その言葉には微かな迷いが滲んでいた。彼自身、彼女の言葉を完全には信じ切れず、どう接するべきか悩んでいたのだ。とはいえ、教師として深く踏み込むこともできず、彼はただ流れに身を任せるように授業を進めていった。
そんなこんなで、クラスメートたちは徐々に日常を取り戻し、段々と郁代への過剰な気遣いも薄れていった。
もうみんなあの時の出来事などすっかり忘れている様だった。
ただ一人――直樹を除いて。
直樹は戻ってきた郁代の言動や仕草に、どこか得体の知れない違和感を感じていた。彼女の声色、笑顔、立ち振る舞い。それらの全てが「郁代らしい」と言えばそうなのだが、同時に何かが欠けているようにも思えた。
その疑念は彼の心に重く根を張り、彼だけが日常の裏に広がる奇妙な空洞を見つめ続けていた。
彼女の瞳の奥に、一瞬だけ漂う影。それが何なのか、直樹には覚えがあった。
それは過去のループで一度だけあった事象。
――寄生生物
その存在を知ったのは随分前になる。
直樹は時間を渡り歩く中で、同じ景色を幾度も繰り返し見てきた。だが、郁代が寄生生物に侵されるのを見たのは初めてではない――あの時の記憶が蘇る。たった一度だけ、彼は目撃したのだ。郁代が寄生生物に取り込まれ、彼女の"真似事"に変わり果てていく瞬間を。
それがいつのループだったのか、最早正確には思い出せすことは叶わなかった。彼は2000年以上を超える時の流れを旅してきた。その間、多くのことを見て、多くを忘れた。だが、郁代が「彼女ではない何か」に侵される光景だけは鮮明に残っている。
今回はそれを直接見た訳では無いが。時期と、ループの状況、そして態度から確実に寄生生物だと思われた。
まぁそれを確実に確認する方法もあるにある。いやあったはずだったが今回は使えないかもしれない。
それでも郁代が寄生生物に取り込まれたことを確信した理由。それは、直樹がループを繰り返す中で、ある"特徴"を見出していたからだ。この寄生生物は完全模倣型――対象の記憶や人格、言動を忠実にコピーしながらも、「その時点での情報」に縛られるという特徴があった。
寄生生物は完全な模倣をするが、それは郁代の「現在の情報」しか持ち合わせていない。"未来"を知る直樹だからこそ、彼女の微細な変化に気づけた。
もちろん違うからという理由だけで、寄生生物と判断するのは早計だ。
政治や経済に違いがあるように、未来の出来事が大きく変わったりすることは当然。ループの状況によって大きな差がある。
たが、直樹の推測では、寄生生物には同調的成長ができない。つまり本人と全く同じ反応はできても、精神、あるいは能力面で同じ成長は望めないのである。
それが「郁代らしさ」の仮面を貼り付け直すために必要な工程なのだろう。
このことからどうやって成長プロセスは不明だが、感受性や、何かが違うのは明らかだ。
そして最大の特徴、それは自身の生命に関する場合は、擬態に、適した行動よりも、生存に適した行動をとる。
例えば郁代なら他人を盾にしたりしないだろうが、自身の生命維持と擬態を天秤にかけた寄生生物は必ずそれを実行するだろう――ということだ。
「直樹くん、帰り道、どっち通る?」
郁代が———。郁代だった何かが微笑む。
それはとても綺麗な笑みで、きっと多くの人には美しく映る。
寄生生物に乗っ取られた郁代の身体と記憶、それに基づいて再現された人格。だが、直樹の中にあるのは郁代への懐旧でも、倫理的な怒りでもない。
「どっちでも」
その答えに”彼女”は
人間らしく、楽しそうに笑った。
「人間らしく」――といってもそれが何を指すのか、直樹にはもう曖昧だ。
この寄生生物が「郁代らしさ」を演じ続ける目的は何なのか?
その寄生生物は郁代の身体を利用しているが、そこに宿る精神は「郁代」のものではない。では、郁代という存在を定義するものは何か。
古代哲学の伝統では、身体と魂は密接に結びついているとされた。しかし、デカルトが「我思う、故に我あり」と述べたように、近代哲学は精神を主体とする方向へ進んだ。だが、精神が完全に模倣可能であるとしたらどうだろうか?
完全に「郁代」を模倣するのなら、それは何を意味するのか。寄生生物が目的のために「彼女自身」を否定し、彼女の記憶や感情を道具として利用する。
それに対する嫌悪感は、彼の中にはない。不思議とただの事実として受け入れているだけだ。
「――直樹くん? 聞いてる?」
いや、やめよう。
郁代は既に「過去」であり、寄生生物として目の前に存在するそれは、ただのシミュラクラに過ぎないのだ。
「いや、聞いてない」
「ふふ、直樹君らしいね。」
郁代は笑いながら、少しだけ彼に歩み寄った。二の腕が腹の中腹あたりに押し当たる。
直樹は一瞬だけ郁代を見たが、それ以上の反応を見せなかった。
地面に寝転ぶ影を見る。
彼女の歩幅が直樹に合わせて僅かに調整されていることに気づく。
「ねぇ——」
郁代が、口を開くねだるように、息に声をのせるようにして囁く。
「——―今日も…家行っていい?」
直樹は無言で頷いた。
―—―いつもより言うのが早かったな…
痛む腰を抑えながら、そんなことを考えるのであった。