元就が予想していたより大内義興は慎重であった。
石見から軍を進めた大内義興は出雲に自身は侵攻すること無く石見に本陣を置きながら出雲に侵攻をしていたが、勢いがあったのは備後衆であった。
備後を治めているのは山名であるが、山名氏の本拠地は但馬国(兵庫県北部)であり、備後は飛地であった。
なので分家を送り込んだりして支配していたのだが、守護の力が弱い地域であり、となりの備中も細川の飛地なので備後と備中は守護の力が弱かった。
なので守護代の備後の山内氏や備中の庄氏、他有象無象の国人衆が分散して力を持っていたが、尼子が強烈だっただけに凄まじい反動が来ていた。
そのため尼子領の伯耆や出雲に積極的に攻撃しており、大内義興はそんな有象無象が尼子を勝手に攻撃して勢力を落としてくれるので、資金や兵糧を援助して手助け及び、寺社領から勢力を切り崩していた。
特に切り崩しの対象にしていたのは塩冶氏であり、杵築大社(後の出雲大社なので以後出雲大社と呼ぶ)を管理する国人衆の勢力である。
尼子経久が三男塩冶興久を当主としていたが、出雲西部に確固たる勢力があり、更に塩冶家は京極家よりも前に守護をしていたことのある由緒ある家柄なので余所者の京極家やその被官の守護代尼子家に従うのに忌避感があったのであり、そこを大内義興がつけ込んだ。
出雲大社に多額の献金を行い、大内家に心情を寄せ始め、塩冶興久に対しても、尼子滅亡後は塩冶家を出雲守護にさせたいと交渉を続けられていた。
巨大勢力であり従三位という朝廷に将軍を通さないで直接交渉できる優位性を生かして調略を続けており、既に石見国境の本庄氏や神西氏が大内家に寝返っていた。
1522年の秋頃には出雲大社が尼子から裏切り、出雲大社に大内義興は本陣を移動させた。
真綿で首を絞める様にジワリジワリと尼子から出雲勢力を削り取っていった。
「流石西国の覇者大内義興様じゃのぉ……慎重というより勝ちを確実に拾っておるし、戦らしい戦をしないで領地を広げるが大内家の戦い方じゃのぉ」
ちなみに戦いらしい戦いも起こっており、毛利との国境付近の赤穴氏の瀬戸城で徹底抗戦の構えをしており、現在陶興房の軍1万5000が包囲を続けていた。
安芸国人衆も宍戸家、天野家、平賀家、竹原小早川家が出陣しており、竹原小早川家は4家老と呼ばれている人物達が中心になり軍の統制を行い、幼い当主を必死に支えていた。
遠征免除されている毛利家も10万貫の資金提供を行っており、更に旧武田家の所領から反乱が起こらないように大内義興から厳命されていたので忙しいっちゃ忙しかった。
「尼子は粘るのぉ……まだ海上の輸送路があるから伯耆方面からの補給があるが全方位を攻められておるから……」
元就はパチンと碁石を置く。
「次は海上封鎖じゃのぉ……尼子水軍は東シナ海最強の大内水軍に勝てんじゃろうな」
倭寇をなぎ倒し、後に有名になる村上水軍をも圧倒する水軍が全盛期の大内水軍である。
まず尼子水軍が勝てる要素が無い。
「さて児玉就忠はちゃんと仕事が出来るじゃろうか……旧武田家臣達も居るができれば良いのぉ」
元就が期待を寄せていた児玉就忠は、旧武田家臣達と模型と絵図を見ながら塩の製造設備を見て悩んでいた。
「理屈は分かりますが、元就様はこんなのをよく思いつきますな」
「塩と言えば海水を汲んで浜に撒いて、撒いた砂を煮詰めて塩を抽出するという方法だったが……これは……」
模型や絵図に描かれていたのは流下式枝条架併用塩田製塩法と呼ばれる製塩法であった。
まず海水を風車で汲み上げ、蒸発層と呼ばれるコンクリートで作った水路に流す。
すると水分が日光によって蒸発し、循環槽と呼ばれる塩分濃度の上がった海水を溜める場所に流し、更に風車を使って竹の枝を組んだ枝条架の上から海水を流す事で風に当てて水分を更に飛ばす。
それを何回か繰り返して塩分濃度を上げていき、最後は残った塩水を釜で煮込み、水分を飛ばすと浜に海水を撒いて塩を作る揚浜式製塩法より大量に上質な塩を作り出すことが出来る。
更にこの塩を作る最終工程で出る液体がにがりであり、塩を使ってかん水を使えば中華麺を作ることも出来るし、塩、小麦、大豆で醤油を作ることも出来る。
今の日ノ本の全国での塩の生産量が5トン前後であるが、この設備が完成すれば1地域だけで5トン以上の塩を製塩することが出来るのである。
塩はそこまで高い品物ではないが、生産量が生産量だけに利益が数千貫の利益になることが確定しているし塩関連を使った商品の利益を考えれば更に跳ね上がる。
そんな責任重大な事を児玉就忠は任され、児玉就忠は彩乃の神通力で未来から引っ張ってきた情報を吟味してちゃんと形にしてくるのを凄いと思うし、旧武田家臣達は海を知らないはずなのにこの知識をだしてきた元就の叡智に驚愕していた。
しかも普請の人夫に金を支払うという毛利のやり方にも驚愕しながらも、金を支払うことでやる気が出て工期が短くなり、絵図や模型を見ることでそれを拡大しながら作業が出来るので順調に事が進んだ。
1ヶ月の工事期間で1基完成し、試運転段階でも大量の塩が生産されることに驚き、年内に10基完成し、本格生産が開始されると安芸では消費しきれない量の塩が流通することになり、安くて質の良い毛利の塩が他の塩を市場から駆逐していってしまった。
本当はこの技術は竹原小早川家に与える予定であったが、毛利が海を手に入れたし良いか、という感じで毛利領内で製塩が始まった。
これにより製塩をしていた竹原小早川や沼田小早川家の領民は塩の価格暴落に巻き込まれて、製塩をしていた者達が漁師になる現象が相次ぐのであった。