「元就様、これなんですか!」
「(吉見)正頼、それはミルクパンじゃな。店主、1つこのパンをくれ」
「はい……元就様でしたか、お代は結構です」
「いやいや、ワシは相談役。当主でも何にでも無いただの若者じゃて。しっかり払わせてもらうぞ」
元就は財布からお金を支払い、正頼にミルクパンを与える。
「ふわふわで美味しいです! 元就様!」
「そうかそうか! 正頼から見て毛利領はどうじゃ?」
「皆生き生きしていて幸せそうです! 見たことや食べたことの無い食べ物も多く楽しいです!」
「そうかそうか!」
新しく小姓になった正頼を連れて元就は色々な場所に出かける。
子犬みたいな性格の正頼を元就は気に入りあっちこっちに連れていくが、今日は天野領に向かうらしい。
「元就様、天野様に何か起こったのですか?」
「いや、挨拶じゃな。上方(京方面)に物を流す時に天野、平賀、竹原小早川の領土を通らなければならんからのぉ」
「なるほど!」
そんな事を話し、馬に乗りながら移動する。
元就が愛馬にしている芦毛の牡馬で、普段はのんびりしているが、スイッチが入ると勇敢になる阿久と名付けられた大型の馬に正頼が前に、元就が後ろに乗って、元就が手綱を握って移動する。
阿久に乗ること2時間で、天野家の居城生城山城に到着する。
「おお、元就殿お久しぶりですな」
「天野興定殿も久しぶりじゃな!」
天野家は実は2つに分かれており、金明山城の天野氏と生城山城の天野氏に分かれている。
元は1つの天野氏であったが南北朝時代に2つに分かれた経緯があり、それから徐々に敵対から融和に舵を切り、今では毛利の経済政策の恩恵をどっぷり両家共に受けていた。
街道も両家を通る様に整備され、旧野間領を通る時は金明山城側を、竹原小早川本領を通る時は生城山城側を通る様にしており、両家共に毛利家とは友好的であった。
「おや? 見かけない若者ですな。元就殿の別の息子ですか?」
「いやいや、新しく小姓にした石見の吉見家の五男じゃ寺に預けられておったが、利発だったので引き取ったのじゃ」
「初めまして興定様、吉見正頼です!」
「おお、確かに利発な子ですね。どうぞどうぞ元就殿中に」
城に案内され、客間に通される。
「しっかし立派な馬ですなぁ」
「ワシの愛馬じゃ。ワシ背丈がデカい(180センチ)もあるゆえに普通の馬だと直ぐに潰れてしまうのじゃよ。じゃから力のある大型の馬を求めてのぉ……見た目によらずのんびり屋なのじゃよあの馬は」
「そうなのですか……宍戸の良馬でしょ。いやぁ私も1頭欲しいですな」
「今度贈ろうか。ちょうど良い3歳馬(数え年)がおるから雄で良ければ譲るが」
「言ってみるものですなぁ! ありがたく貰いましょう! 息子の米寿丸も喜ぶでしょう」
「そろそろ息子さんも元服であったのぉ……大内義隆様(幼名亀童丸)から偏諱を受ける形か?」
「そうですね、偏諱を受けて天野隆綱にしようかと」
「いい名前じゃのぉ。興定殿の武勇を受け継ぐ者としてピッタリの名じゃな!」
「いやいや、元就殿の武功には及びませんよ……して、今日私に会いに来たのは何が理由でしょうか」
「1つは毛利家がワシの息子の房元を中心に回り始めた……世代交代を告げるためじゃな」
「いやいや、元就殿はまだ28歳(数え年)、武将として脂が乗り始める時期ではござらんか。隠居は早すぎますぞ」
「なに、毛利家は短命が多い故に保険を多くかけておかなければならなくてな。まぁ相談役としてまだまだ房元を支えるのじゃ。ワシの立場が軽くなったから各地を回って外交をしやすいというのもあるのじゃがな」
「元就殿お得意の謀略の仕込みですかな?」
「人聞きの悪い。外交じゃ外交」
「そういう事にしておきますよ」
少しの間談笑をした後に今後の中国地方情勢の動きについて予想を元就が語る。
「まず大内が手を引いたことで尼子は生き残ったが、勢力を巻き返すには時間がかかるじゃろう。今なお各方面から出雲、伯耆を攻められ続けておる。当面は防衛側じゃろうて」
「大内に降った出雲勢力はどうなりますかな?」
「大内の家臣である問田家の者が詰めておるが、尼子が巻き返せば奪還に動くじゃろうなぁ……逆にその地域が落ちなければ尼子は西に目を向けられんじゃろう。石見や安芸は安泰じゃな」
「大内の北九州征伐はどうでしょうか」
「まだ軍を移動しただけじゃて何とも言えんが北九州には2人の怪物がおる……安易に制圧とはならんじゃろう」
2人の怪物元就が言うのは1人は龍造寺家兼……身1つで龍造寺の分家を興し、自身の才覚を持って宗家を追い越し、主家である少弐氏の家老まで成り上がった傑物であり、当主が戦死しまくる少弐氏を今まで延命……いや、大内に警戒されるだけの勢力を維持できていたのは彼の軍略があってのことだった。
今年で70歳になるがあと20年は生きるチート爺である。
もう一人は甲斐親直……甲斐宗運という名前の方が有名かもしれないが、今は若武者であるが既に菊池家討伐運動でその才覚を発揮し、阿蘇氏に甲斐ありと名を轟かせていた。
元就も尼子を撃退したことで武名が轟いて居たが、それと同様の評価を甲斐親直も受けていた。
事実、甲斐親直が周辺勢力の抑止力として機能し、肥後に侵攻する勢力を幾度も撃退していくことになる。
「龍造寺家兼と甲斐親直ですか……彼らが居る限り大内の北九州制圧は難しいと」
「ああ、そうなのじゃ。それに大友もおるからのぉ」
豊後守護の大友義鑑は将軍足利義晴から義の字を貰い、義鑑の名前に変わっていたが、それだけ対大内のバランサーとしての活躍を期待され、事実肥後から菊池家を追い出し、阿蘇氏と共謀して菊池家新当主に自身の弟を送り込んで勢力を拡大させていた。
大内家とも敵対姿勢を明確にしており、少弐·大友連合対大内という構図が北九州に出来上がっていた。
しかも大内家は前年に細川高国が勘合貿易の利益を奪い取ろうという動きがあり、それは明と大内の共謀で防いだが、大内家は足利義晴と敵対する動きを鮮明にしていくことになる。
なので大内義興は幕府の任命権を無視して朝廷と直接交渉を行い家臣達に従五位や正五位の官位をばら撒き始めていた。
守護代職なら必ず従五位が与えられ、毛利房元にも今年か来年に従五位の官位を与えるという通達が行われていたのである。
ちなみにこの時点で大内家の家臣、友好勢力には従五位が8人、正五位が2人、従四位が1人……大内義興自身が従三位という感じであった。
補足であるが従五位にも従五位下と従五位上(正四位まで上下に分かれている)があり、従五位下までが貴族と呼ばれるラインであり、従五位下の者を大夫と呼ぶ慣わしがあり、地方では大夫に任じられた(従五位下に任じられた)となれば戦国時代末期の官位ばら撒きが起こるまでは大変名誉な事であるとされていた。
この従五位でも通常名門守護大名が成れるギリギリのラインである為、本来毛利家みたいな国人衆上がりが成れる役職ではないが、それだけ大内家は毛利家を評価しているぞということであった。
「北九州戦線が膠着すればいずれ安芸国人衆も召集されるのでしょうか」
「どうじゃろうなぁ……尼子遠征でガタガタになった北九州統治をこれを機会に固め、時間をかけて少弐を滅亡させ、大友とは手打ちとする流れかも知れんのぉ……統治目的であれば安芸国人衆は呼ばれんじゃろう。また山名が敵対する可能性もあるのじゃし」
「となると当分は平和ですかな」
「毛利家は水軍力を拡張していくことにするのじゃがな」
「水軍力ですか」
「将来瀬戸内海を挟んだ河野氏は大内と敵対と友好を繰り返しておる。攻め取る場所としては良いとは思わんか」
「なるほど……でしたら私達天野家も一口噛ませてはもらえませんかな」
「ああ、まぁ大内義興様次第じゃがな。毛利がこれ以上でかくなるのが駄目なら流れる話じゃ」