まずは毛利家を襲った悲劇から……。
まずは元服が行われ、雉四郎が毛利鳥光(とりみつ)を、戌五郎が毛利元重(もとしげ)を名乗り始めた。
鳥光は船山城を任されたが、吉田郡山城第二改修で総構えこと巨大城郭の中に船山城は組み込まれており、普段の生活は基本吉田郡山城で行い、元重も兄と同じく吉田郡山城で長男房元を政務で支える存在になるのだった。
そんな最中、八男の龍丸が外で稽古をしていた時に雷が龍丸に直撃してしまい、彩乃が未来に連れていき何とか蘇生することは出来たものの、左足が麻痺してしまい杖が無いと移動出来ない体になってしまった。
ただ元々頭が良かった龍丸は障害を負った分、政務や知識で毛利家に役立とうと角隈石宗の助手の様な立場になり、司書の仕事をしながら色々なことを学んでいくのであった。
これが毛利家を襲った悲劇の1つであるがもう1つは中国地方……いや西日本全てを巻き込む悲劇であった。
大内義興病没。
西国の覇者として君臨していた者の突然の死であるが、後継者は大内義隆以外居らず、そして陶興房という右腕を残して亡くなった事で大内家で毎回起こっていた後継者争いを断ち切る事に成功する。
そして大内義隆は房元や盛就と描いた拡張戦略を実行に移す。
1529年、勘合貿易の継承と倭寇の取り締まりを強化した大内義隆は明から外地と中華の外と呼ばれ活用されていなかった台湾を船の補給路及び琉球王国との交易路の補給基地として使っても良いというお達しを受け取り、大内に一度敵対したりした者達に程よい土地があると教え、台湾の開拓団を編成して送り込んだ。
国内の不穏分子を纏めて送り込み、策謀の余地を潰しつつ、台湾を拠点化できれば大内家にとって得であると考えたからだ。
これで大内領内に流れ込んでくる流民を台湾に流す事で流民問題を解決させつつ、朝廷には多額の献金を行い、大宰府の大弐の役職を与えるように政治工作を行った。
大弐の役職は従五位の官職であるが、毎度のごとく現れる少弐氏の少弐は大宰府少弐の役職から来ているため、少弐氏の正統性を無くす権限を大弐になれば得ることになれるのである。
また大宰府大弐は実務上のトップ(最高官位は大宰府権師で従三位相当)になるため衰退著しい大宰府を再建することで九州に朝廷の権威を復活させ、大内の統治をやりやすくする必要があった。
葬儀や四十九日も終わる頃には朝廷より従五位の役職が贈呈され、大弐は待ってほしいと言われたが、それでも大内家を貴族として世襲化させることには成功した。
大内義隆は土佐一条家を大内家で保護するとも発表し、最初土佐一条家の家臣達は土地を捨てて殿が山口に行く訳が無いと思っていたが、朝廷より大内を支えよという命令が入ると土佐一条の初代当主一条房家(従二位)は大内義隆が計画した山口遷都計画が秘密裏に聞かされ、それを早期に手伝えば都落ちし一条家の庶流でしか無い自分が大臣になれるかもしれないと思いつき息子共々出奔。
土佐の地域権力の象徴がいきなり居なくなった事で土佐の国内は大きく荒れる事になり、伊予の河野氏が介入することになる。
そこで大内義隆は土佐一条の土地の保護を毛利に依頼し、依頼を受けた毛利家が四国出兵を行い、安芸の国人衆達にもの出兵を依頼するのであった。
河野家は村上水軍と繋がりが深かったが、元就が調略を行い、3つある村上家のうち来島村上氏は河野家に臣従していたため調略になびかなかったが、他の2つの村上家は小早川家と仲が良かったり、堺への交易量を増やすことや護送料金の値上げに応じる等の対応をしたことで毛利側に着かせる事に成功する。
毛利軍は領内警備に5000の兵を残し、8000の常備兵と少しずつ作っている毛利水軍を動かす。
吉川、宍戸、天野、平賀、竹原小早川のいつもの面子だけでなく、沼田小早川も参加し、総勢1万5000の兵にまで膨れ上がり、船も400隻と全力投入である。
その船は森ノ浜と呼ばれる場所に上陸し、一気に森ノ城を占拠する。
森ノ城に兵1000と指揮官に初陣の毛利元重と家臣達を置いていて、今回の戦の総指揮をしている毛利盛就(補佐に元就)が直ぐに北上し、鳥ノ木砦を一瞬で押し潰し、河野氏が分家と宗家で揉めていることに目をつけた元就は調略を開始、三津浜城の河野分家を本家の救援に行かせない事に成功し、分家経由で来島村上氏を動かさないことで海上からの逃亡も防いだ。
そのまま河野氏の本拠地湯築城に攻めかかり鉄砲の掃射に驚いた兵達が次々に脱走し、再建途中だか吉川興経率いる吉川軍が城門を破壊して城内に侵入し、湯築城は落城。
一方で森ノ城に土佐一条旧領を攻めていた河野軍3000が急遽戻ってきたが、籠城する毛利元重は野戦を選択し、城内に松明を焚いて、こっそり城から出ると、元重は蛍の光の動きから敵の陣形を予想して本陣を奇襲。
突如現れた毛利軍に対応出来ず、河野軍は壊滅し、当主も討死してしまった。
そのまま1000の兵を率いた毛利元重は伊予海岸沿いを行軍し、砦や城を次々に落城させていき、10日で8の城と砦を落とし、伊予を平定。
大洲城にて毛利本軍と合流し、土佐に突入。
旧土佐一条家の領土を接収し、土佐の国人衆はその間も足並みが揃わなかったため、次々に撃破し、伊予上陸から約3カ月の電撃戦で伊予、土佐を平定することになる。
協力してくれた国人衆に恩賞を渡し、平賀、天野、両小早川家は東伊予にそれぞれ加増をし、三好(細川家)との防波堤にしつつ、土佐と西伊予の大半は毛利家が吸収した。
四国毛利領の管理を毛利盛就が、西伊予の管理を毛利鳥光が行う事が決まり、統治体制が始まった。
学び舎で育てていた奉行衆がいた事により1国半を抱える事になっても、行政力がパンクせずに済んだが、以後数年に渡り土地を奪われた河野氏や土佐の国衆の抵抗を受けるが、武力鎮圧を行い、民には善政を敷くことで反乱を起こそうにも兵が集まらないようにしていくのだった。