7年間続いていた塩冶興久の乱を尼子経久が鎮圧したものの、尼子の勢いは目に見えて陰っていた。
一方で大内家は盤石な政治形態となり、文治派と武断派と派閥ができ始めていたものの両派閥を大内義隆は制御する器量と両者を納得出来るだけの財力を有していた。
大内義隆は朝廷の要望を聞いて1540年に予定していた上洛運動を前倒しで行うと決め、大内義隆は敵対する現将軍足利義晴と敵対し、一時堺公方として二重政権の片割れを担っていた足利義維が阿波に逃れていることを知っていたので接触することにした。
連絡を取り合い、足利義維は味方になってくれるのであれば大内義興がなっていた管領代の役職や他幕府要職を与えるという約束を取り付け、阿波の細川家と連絡を取り、山陰道の諸勢力を平定しながら上洛を目指す段取りが決められた。
毛利軍は毛利房元に安芸国人衆の連合軍を任されて先陣を任された。
一方で四国毛利家は毛利盛就を中心に阿波国の足利義維の決起軍と合流して、時期を合わせて堺経由で京に入城する計画が立てられた。
目的は敵対する現将軍の排除と新将軍の擁立である。
大内義隆の命令が降った瞬間に四国の毛利勢は1万5000の軍を即座に集め、進軍を開始。
阿波に土佐経由で侵入し、足利義維を担ぎ出した。
「義維様、大内義隆様の命令により我々毛利1万5000名は義維様に従います。まずは讃岐の細川晴元勢力を蹴散らしましょう」
「うむ! 細川晴元は余を将軍にすると言っておきながら(足利)義晴と勝手に和睦して余の部下達の多くを引き連れて寝返りおった。断じて許せん! 成敗せねばなるまい!」
「その意気でございます。義維様!」
盛就は頭を下げながら将軍を持ち上げる。
その後自陣に戻ると弟の河野元重と毛利就虎が揃っていた。
「どういう作戦で行く? 忍び衆から讃岐には細川に有力家臣は残されていないらしいが」
「速攻で行く。兵を分散させて釣り出せ。駄目なら砲兵の運用試験とする」
「かしこまった」
「わかりました」
盛就は弟達にそれぞれ5000の兵を与え、盛就は将軍の本隊2000と共にゆっくりと行軍を開始した。
元重と就虎は迎撃に出てきた細川晴元側の兵を鉄砲の集団運用により轢き殺し、毎日どこかの城が陥落する報告が本陣に入ってくる。
足利義維は連戦連勝の毛利軍を褒め称え、上機嫌で3人に奉公衆(将軍直属の武官 守護や守護代よりは権威は低いが普通幕府でも家柄のある者でしか成れない)に抜擢し、1ヶ月もかからずに讃岐を平定。
そのまま軍を淡路島に侵攻させて、淡路国(淡路島)も河野海軍の力で四国の細川水軍を一蹴し、瀬戸内海の制海権を奪取した。
ここで三好家の安宅治興から洲本城を奪取し、ここに足利義維の軍を詰めさせた。
四国を電撃的に占領し、足利義維側に統一した頃、先陣を任された安芸国衆達は大将を安芸守護代の蔵田房信を中心となり備後に侵攻を開始。
元就の調略により備後北部の国衆は大内義隆に寝返っており、備後山名家だけが取り残される結果に陥り、山名理興が神辺城に籠り大内義隆に抵抗する構えを見せる。
史実だと大内家の攻撃を7年間耐えた堅城なのだが、毛利軍の新兵器大砲の運用と噴進弾による面制圧が行われた事により2日も持たずに落城し、山名理興は逃亡を試みたが、落ち武者狩りに遭い絶命。
備後山名氏が滅亡したことで備後も大内義隆の勢力圏となった。
そのまま備中に侵入し、備中の庄氏や三村氏は元から大内派だった事もありすんなり軍に参加。
先陣部隊は2万を超える大軍となっていた。
先陣隊が備中に進んでいる頃、大内義隆は本軍である5万の軍勢を自らが率いて山陰街道を通過。
一方で軍師である陶興房は2万の軍勢を率いて尼子討伐に動き、石見の勢力を率いて出雲に侵攻。
内乱で抵抗する力を失っていた尼子勢力は陶興房の軍勢に次々に城が落城していき、更に海上では大内水軍が海上封鎖を敢行。
陶興房の軍が月山富田城を取り囲み、兵糧攻めの態勢に入ったのだった。
急な大内軍の侵攻に畿内とその周辺勢力は大きく動揺し、管領細川晴元は備前、播磨の赤松家に抵抗することを命令し、大急ぎで周辺諸国から軍を集めた。
朝倉、六角、北畠、筒井、畠山等の周辺勢力と細川(三好)の畿内戦力を掻き集め10万の軍勢を揃えた。
1万を京に残して残りの軍で赤松救援に駆けつけ播磨に入った。
大内先陣部隊は備前と美作を侵攻して削り取り、前線を構築。
大内義隆本軍も備前の天神山に城を築城して拠点とした。
両軍が睨み合い、そのまま年が明けて1538年、淡路島に本陣を置いていた足利義維が堺に上陸し、盛就の調略で雑賀の傭兵軍が義維側に付き、堺から一気に和泉を制圧し、単独で京を狙う動きに出る。
これに動揺した細川晴元は軍の1部を和泉に向けて動かした。
そして2月11日播磨国赤穂周辺で大規模な戦闘が開始された。
赤穂の戦いの始まりである。
赤穂の土地は大鷹城という平城があり、その城の東に千種川が流れている平地の地形であり、赤穂から坂越という地点まで平地が続いていた。
千種川を挟んで反対側には亀甲山、南宮山、向山と3つの山が並んでおり、川を越えて攻撃するのは不向きな地形だった。
そのためこの3つの山に細川晴元は陣を置き、川向こうを見下ろす形をしていた。
まず赤穂の戦いの初戦は大鷹城攻略戦であり、吉川興経率いる吉川、宍戸軍が大鷹城を猛攻し、城が危機的状態に陥っている事を感じた赤松軍が坂越の地点から渡河を開始。
その場所を警戒していた和智家の部隊を蹴散らして南下を開始。
和智家の後ろに陣を敷いていた小早川鳥光率いる小早川軍が赤松軍に対して鉛玉を大量に撃ち込み行動不能になった瞬間を毛利元秋率いる1000名の毛利本軍の別働隊が異変を察知して混乱する赤松家に強襲。
赤松家当主が戦死する大損害を出して赤松軍が川を渡ろうとした所を追撃し、赤松軍は溺死者が多数出る。
大鷹城は猛攻に耐えきれなくなり落城し、初戦を制した大内軍はここで毛利家が博打に出る。
夜のうちに毛利家の親族衆の国人の軍と一緒に船で千種川を渡河し、赤穂南部の海に面した唐船山を占拠。
翌12日、橋頭堡を築かれたと思った細川晴元は唐船山を奪還するために大軍を動かす。
大内義隆はそれを見て坂越に軍を急がせて渡河作戦と瀬戸内海の制海権を握っているため向山の更に東の生島の対岸から上陸を仕掛け、坂越で渡河した軍と東西から挟む事で半島に細川晴元率いる幕府軍を追い込む作戦を実行。
大軍に攻められた毛利軍は渡河して直ぐに掘った即席の塹壕で射撃を行う。
死体の山が築かれながらも近接戦に移行し、毛利房元の本陣にも敵が侵入し、ここで房元は伝説の200人斬りを達成し、何とか毛利軍の崩壊を押し留めた。
そうしているうちに大内軍が亀甲山を占拠し、大内軍が背後から幕府軍を襲いかかった。
そうなると対応できなくなった幕府軍は裏崩れを発生させ、毛利軍は動揺した隙を突いて騎馬隊を中心に川に沿って北上して敵陣を突破して脱出。
毛利軍総勢1万5000は7500名の死傷者を出し、井上、桂や志道等の有力家臣の一族からも死者が出たが、賭けに勝ち、大内軍大勝のきっかけを作った。
大内軍はそのまま崩れた幕府軍を飲み込み、13日まで殲滅戦が続き、5万近くの首印を挙げることに成功。
細川晴元は間一髪で逃亡に成功し、畿内に落ち延びていったが、畿内諸国の守護や守護代がずらりと討ち取られる結果となった。
毛利軍はあまりに損害が多いということで帰国を許され、残った安芸国人衆は蔵田房信が継続して指揮し、毛利本軍や吉川、小早川、宍戸、三吉は帰国することになるのだった。