歴女JK謀神の子供を産む   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

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1538年 大内最盛期

 和泉に侵入した四国軍は堺に足利義維を置き、和泉国内の反抗勢力を片っ端から潰し回った。

 

 時に石山本願寺が出てきて仲裁が行われ、停戦となったが、それを細川晴元から派遣された軍は堂々と破り、四国軍を攻撃。

 

 四国軍は直ぐに立て直して反撃し、崩れた軍が石山本願寺に逃げ込むという最悪なムーブをしでかし、石山本願寺側も仲裁したのに堂々と破られた事で面子を潰されていたが、逃げ込んできた以上匿わなければならなくなっていた。

 

 毛利盛就は交渉することも面倒くさいと放置し、軍を京に向ける。

 

 一方で赤穂の戦いに大内軍が大勝したことが京に伝わると、京を守っていた足利義晴側の兵からも逃亡が出始め、更に主力である各地の守護や守護代達が討ち取られた事で後ろ盾が消失した足利義晴は京から逃亡し、六角勢力の坂本に落ち延びていった。

 

 そしてそのまま四国軍は京に入城すると各地の勢力に足利義維に協力するように要請を行った。

 

 四国軍は京の治安活動を開始し、大内義隆から挨拶を行うように言われていた公家達を保護したり、一時金を与えて生活を保障した。

 

 あとは御所周辺を整備し、将軍足りうる屋敷に改築したり、大内義隆率いる本軍が到着したら生活出来る拠点を整備していった。

 

 四国軍が入京して直ぐに朝倉家の分家であったが、絶大な権力を保持し、越前で待機していた朝倉宗滴自らが当主が亡くなった事で足利義晴側から寝返り、足利義維に忠誠を誓った。

 

 気分を良くした足利義維は朝倉家の越前守護代の家格から守護に格上げをした上で越前と加賀守護職を与え、北陸の守りを任せた。

 

「貴様が四国軍の大将毛利盛就か!」

 

「越前の朝倉宗滴殿に名を覚えられているとは光栄でございます」

 

「なに、四国統一戦から畿内進出、京での差配実に見事よ。私も越前に居ながら動向は伺っていた」

 

「弟達が凄かっただけで私はそれほどでも」

 

「それでも大将足りうる器よ。今後はどうするのだ? 新将軍より外様衆をといわれているのであろう?」

 

 まず幕府の役職で三管領と呼ばれる管領職に成れる足利幕府を初期から支えた重鎮の一族があり、その次に御相伴衆という幕府の中で家老職を担うことを許された家がある。

 

 大内家も御相伴衆である。

 

 次に国持衆と呼ばれる国を持つ事が許された家柄で六角、武田、上杉、今川等もここの家柄である。

 

 そして准国持衆と続き、ここまでを室町幕府は大名家と呼んだ。

 

 准国持衆までに上げると国持ち大名家と認めることになり、そうなると大内家の家臣かつ、毛利家の家長でもない盛就の権限が強くなり過ぎる為に毛利家本家を准国持衆に引き上げ、盛就を外様衆(国持衆や准国持衆の一族の役職)にしようと足利義維は画策していた。

 

 本来毛利家はそんな外様衆から見ても6個ほど役職が下の小番衆相当の家格なのであるが、それを一気に引き上げようというくらい四国から実際に入京してくれた毛利盛就や河野元重、毛利就虎を高く評価していた。

 

「私達毛利家は大内義隆様の家臣なので大内義隆様の下知を待ちたいと思うと言ったところ主君への忠誠心が見れたと更に気に入られてしまい……」

 

「なるほど、まぁ朝倉家は国持衆に家格が上がったからな。これで良しとしよう」

 

「朝倉軍はどれほど滞在で?」

 

「加賀の一向宗次第だ。奴らが動けば帰国せねばなるまい」

 

「なるほど」

 

 朝倉宗滴と会談した盛就は再び仕事に戻り、幕政の業務を一部代行した。

 

 それほどまでに足利義維に付き従う幕臣が居らず、幕臣の殆どが赤穂の戦いで死ぬか、和泉の戦いで逃げて石山に逃亡しているので、使えなかった。

 

 そのため毛利家が連れてきた家臣達が大活躍し、何とか表面だけでも幕府が機能しているように見せかけることはできたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 遅れて2ヶ月後の4月中旬に大内義隆が播磨や摂津を攻略し、入京。

 

 足利義維の前で臣下の礼を取り、幕臣を失って朝廷工作ができなくなっていた足利義維に代わり、大内義隆が朝廷工作を行って、足利義維の将軍就任の儀が執り行われた。

 

 実のところ足利義維は大内義興と敵対していた11代将軍足利義澄の次男であり足利義晴は実の兄と本来なら大内義隆に担ぎ出される間柄では無い。

 

 ただ敵の敵は味方理論と利害が一致しているから協力している関係に過ぎないが味方に裏切られまくって四国に落ち延びた経験のある足利義維は大内義隆に見捨てられたら今度こそ政治生命が終わるので大内義隆は将軍家から見たら家臣であるが媚びへつらった。

 

 まず三管領でないので大内義隆を管領にすることはできず、管領を不在として管領代にすることで幕府の実質的なナンバー2を約束。

 

 また敵対し、ことごとく死んで守護不在となった畿内周辺の守護を大内義隆に与え、大内義隆は元々あった11カ国に加え、備後、備中、備前、出雲、伯耆、美作、因幡、讃岐、淡路、和泉、播磨、摂津の12カ国を追加した23カ国の守護をせよという無茶苦茶な命令を下す。

 

 大内義隆は流石にそれほどの大領はと一度断るが、与えられる人材が居ないと足利義維に泣き付かれて渋々受け取ることにし、大内家臣達を幕臣に取り立てるように働きかけ、大内義隆の家臣達が次々に幕臣に雇用されていった。

 

 その中で四国軍及び先鋒軍として大活躍だった毛利家や毛利一門国衆は大内義隆から安芸、備後、伊予、土佐、讃岐の5カ国の守護代に命じるとされ、安芸守護代だった蔵田房信は備中、備前守護代に格上げして転封となった。

 

 大内義隆は京に本陣を置き、赤穂の戦いで混乱する周辺諸国に大内本軍の武将を中心に軍を派遣した。

 

 これ以上毛利家に武功を挙げられると中国の三国志の魏を内部から侵食した司馬一族のようになるのを警戒しているぞ……と家臣達に見せるため(大内義隆本人は全幅の信頼をしているので、毛利家に本当は畿内にも領地を与えようとしていた)、毛利家を京に残して幕政の手伝いをさせたが、毛利盛就はその期間で大内家で公家達からの教育を受けていたため、公家達からの心証が凄く良く、しかも足利義維も絶大な信頼をしていた為、公家と御所、そして大内義隆の陣を行ったり来たりして大忙し。

 

 結局一度国元に戻っていた兄である房元を大内義隆は呼び出し、足利義維の前で臣下の礼をし、毛利家を准国持衆に任じ、毛利盛就を土佐毛利家として独立させ外様衆に、他に吉川、宍戸、小早川、河野の毛利を初期から支える一族国衆にも外様衆に任じられた。

 

 更に大内義隆は入京して直ぐに新将軍の足利義維と共に従三位に昇進し、昇殿を許される立場となり、父大内義興の官位に並び、足利義維と大内義隆の熱烈な推薦で毛利房元は従四位上、毛利盛就は正五位上、他吉川興経、小早川鳥光、河野元重、毛利就虎が従五位上、唯一領土が少ない毛利元秋が従五位下の官位が大量に毛利一族に配られた。

 

 それ以上に大内家臣達にも従四位5人(陶興房や杉一族、冷泉、内藤等)、正五位10人、従五位25人と官職の大盤振る舞いが行われ、大内家だけでも国政の運用が出来るくらいの官位が与えられたし、幕府からも役職が与えられた。

 

 大内最盛期が到来し、しかも財源である博多と堺、それを結ぶ瀬戸内海が大内の支配下になった事で財力は更に伸び足利義維に新将軍就任の祝として中華の皇帝がやっている銭の製造をやることで足利義満もできていなかった自国内通貨製造をやれば幕府の権威が上がると大内義隆はそそのかし、足利義維もそれに乗っかり、天文通宝が作られる流れになるのだった。

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