歴女JK謀神の子供を産む   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

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1546年 尼子討伐

「うーむ、弘中隆兼殿から援軍要請か……信龍どれぐらい兵を向けられる?」

 

 房元は奉行衆筆頭に昇進していた弟の毛利信龍にどれぐらいの兵を動かせるか聞く。

 

「そうですねぇ……毛利家本軍だけでも1万、吉川や宍戸を誘えば5000は追加で動けるかと」

 

「産業系ばっかりに予算を投入していたからな……でも父上が目指していた兵の近代化は成功したと言えますが」

 

 備後争乱から約5年……房元というより毛利家全体で産業の育成に大金を突っ込んでいたが、軍隊にもお金をかけていた。

 

 そもそも毛利軍は本家の1万だけでなく、分家の家々を含めると常備兵だけで3万、徴兵をすれば5万以上の軍勢を集めることができていた。

 

 その常備兵でも階級をしっかり定め、歩兵、砲兵、騎兵、補給兵の4つの兵種を作り、特に補給兵を改革していた。

 

 小荷駄では無く、しっかりとした兵科に分けた事で銃や砲で使う弾薬や食料の運搬や野営陣地の設営と正面戦闘する部隊よりも金をかけただけあり、継戦能力が飛躍的に上昇していたり、歩兵、砲兵、騎兵の兵科に分けて訓練をしたことでそれぞれに特化した部隊運用が出来るようになっていた。

 

 毛利軍は戦国時代で唯一常備兵かつ火力戦に移行した軍を持っているといえる。

 

「野戦で尼子を叩き、尼子の求心力を更に低下させますか?」

 

「正直潰せるなら尼子は潰したい。信龍、被害と日数はどれぐらいを予想する?」

 

「とりあえず1万5000の軍で動くのであれば野戦にて火力差で撤退させることは可能でしょう。しかし出雲を制圧するとなれば長期戦を覚悟してください。安芸だけでなく四国勢も呼ぶ必要がありますし、美作方面を蔵田殿に攻撃して出雲の補給線を切断しなければなりません」

 

「うむ……よし、大内義隆様に尼子討伐に動くことを伝えてくれ。備後の元秋以外の毛利軍を動員する。先鋒として本家が動く」

 

「わかりました」

 

 こうして毛利家による尼子侵攻が始まるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 弘中隆兼は三刀屋城で1500の兵で尼子3万の軍の攻撃を耐えていた中、毛利家の援軍が到着し、第二次三刀屋の戦いが勃発した。

 

 今度は尼子が鶴翼の陣をする中、毛利軍は雁行という斜めの陣形で対峙した。

 

 毛利軍は騎馬隊と砲兵隊を移動させて砲兵は射線に、騎馬隊は裏を取るように迂回して動き、尼子晴久は両翼の陣を動かして毛利軍を包囲する動きに出る。

 

 ジリジリと両軍が近づき、射程に入った毛利軍は尼子軍に鉄砲で攻撃を開始した。

 

 しかし、尼子家は鉄砲による攻撃を一番早く被害に遭った家であり、その対策も研究されていた。

 

 竹に砂を詰めて束にし、盾にする事で機動力は落ちるが、銃撃に対して十分な防御を発揮していた。

 

 尼子晴久は鉄砲の火薬は明との貿易に頼っていると思っており、貴重な火薬も長期戦になれば使えまいと思っていた。

 

 事実、鉄砲攻撃の効果が薄いと感じた毛利軍は射撃を停止し、双方膠着状態に陥る。

 

 状況を打破したのは配置に着いた砲兵隊による砲撃である。

 

 今回の戦で2000門という大砲を用意し、内訳が四斤山砲1000門、天文山砲(四斤山砲の改良型)400門、長天文砲100門、十斤榴弾砲200門、弘治砲(天文砲を更に改良した砲)300門による砲撃が開始した。

 

 ドドドドドと色んな方向から砲撃音が鳴り響き、数秒後に着弾していく。

 

 射程的に尼子軍の両翼に着弾したが、竹盾を構えていた兵は榴弾の爆発により次々に吹き飛ばされていき、砲弾によって人が耕され、肉片と血肉がばら撒かれた。

 

 砲弾が着弾し、竹盾の兵が剥がれた瞬間に鉄砲隊が前進し、行軍射撃を開始しする。

 

 戦列歩兵の要領で、移動しながら射撃し、軍が迫ってくるのは恐怖そのものであり、尼子軍は射撃に晒されて隊列を維持することができなくなっていった。

 

 尼子晴久は砲撃により前衛が壊滅した段階で撤退を指示し、尼子軍は出血を最小限にしながら戦場を脱出しようとしたが、毛利軍の騎兵隊2500名が激しく追撃を開始する。

 

 真っ先に逃げていた尼子晴久の本隊を捕捉すると馬上筒を使い射撃を行い、混乱した瞬間に斬り込んだ。

 

 尼子軍の馬が体高140センチ、300から400キロくらいの大きさの馬のところ、毛利軍は彩乃が導入し続けたばんえい馬の導入から約29年馬のサイクルだと数世代進んでおり、数も相応に増えていた。

 

 特にばんえい馬と日本の原種の中型馬が合わさり、体高160センチ、馬体重500から600キロの1トン近くなるばんえい馬よりは軽く小さいものの、その分山道に適したパワフルな馬が増えていた。

 

 1回り、2回り大きさが違う騎馬隊に突っ込まれた尼子本隊は大混乱に陥り、尼子晴久含めた尼子の首脳陣が斬り殺されるという大損害を受けてしまった。

 

 ちなみにこの騎馬隊を率いたのは志道就広……房元達の教育係をしていた男だった。

 

 大将が討死したことで3万居た尼子軍が月山富田城に撤退できたのは2万まで少なくなっていた。

 

 戦死者自体は2000名も居なかったが、万全で挑んだ勝負に当主討死という大敗は尼子から毛利に寝返る国衆が出てくるのは多かった。

 

 

 

 

 

 

 

 出雲の国衆は尼子と大内の戦争と粛清により大きく力を失っていた。

 

 陶興房の第二次出雲侵攻で多くの国衆が大内に寝返り、その前には塩冶興久の乱で出雲は二分化された。

 

 それを間近で見ていた尼子晴久は出雲経営を一族と直臣で固めようとし、それが重要拠点の出雲12支城の築城と国人衆の大粛清であった。

 

 そのため尼子に恨みを抱く国衆が多くなっており、力を失った国衆達が最後の逆転をするために尼子晴久が討死したことで大規模な反乱が発生する。

 

 普通ならばこれを鎮圧する力であった新宮党も陶隆房の第三次出雲遠征で大打撃を受けており、反乱を鎮圧するだけの力が残っていなかった。

 

 こうして大内側に寝返ろうとした国衆達であるが、大内側からの返答は要らないという無情な答えであった。

 

 コロコロ有利な軍に寝返るのを大内義隆も出雲の国人衆を見ていた為、毛利軍に討伐令が出され、反乱軍は尼子からも大内からも敵対するという最悪な状態に陥ってしまう。

 

 その中でも使える者は毛利房元が助けを出したが全部は助けることはできない。

 

 毛利軍は尼子の支城を砲撃によって更地に耕しながら落城させ、抵抗してきた国衆を射殺。

 

 国衆はゲリラ戦で抵抗するが民からの民意も尼子や国衆から離れてしまい、逆に毛利軍が懸賞金をかけると村人達が一揆を起こして国衆が討ち取られるという尼子、毛利、国衆、農民の四つ巴の勢力による凄まじい殴り合いが発生。

 

 出雲は混沌の状況に陥ってしまう。

 

 それでも補給線を確立し、日本海側の城を落とし、海路からの補給も出来るようになると、一気に戦局が傾いた。

 

 毛利房元は安芸の他の毛利軍や四国の毛利軍と合流し、兵数が4万まで膨らむと遂に月山富田城を包囲。

 

 天空の城と呼ばれる月山富田城でも5000門に及ぶ砲撃が毎日飛んでくると、籠城する兵達も逃げ出し、直臣達も降伏が相次いだ。

 

 数え年で6歳になる尼子晴久の嫡男三郎四郎を当主として家臣達が支えていたが、相次ぐ砲撃により恐怖で気が狂ってしまい、これ以上の籠城は不可能と悟った、後見人をしていた尼子国久が腹を斬る事で降伏した。

 

 三郎四郎は若年かつ出雲統治で利用価値があると生かされ、山口に尼子の重臣達と送られ、本城である月山富田城が陥落したことで、抵抗を続けていた支城も降伏。

 

 残った国衆も討ち取られ、大名としての尼子家は滅亡。

 

 尼子が統治していた伯耆、因幡、美作も一部尼子勢力が抵抗したものの、毛利軍や蔵田軍によって討伐され、大内義隆は毛利に四国で残っていた阿波を与え、出雲を弘中隆包に、伯耆と美作に大内家庶流である高石氏、柿並氏を守護代に格上げして領地を送り、東端である因幡は合戦経験豊富かつ中立派で政治センスもある栗田肥後入道が守護代となった。

 

 毛利家はこの所領整備により四国を丸ごと所領することになり、宿敵の尼子を倒すのだった。

 

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