完璧主義者の天城トレーナーは振り向かない 作:黄金モルモット
感性主義者、マヤノトップガンの朝は澄み渡る朝晴れの空と共に希望に輝いて始まる。
朝日が柔らかな光を放ち始める頃、東京都府中市に広がる日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園の広大な敷地は未だ静寂に包まれていた。露に濡れた草木が金色に輝き、風が葉を揺らす音が眠りにつく耳々へ朝の訪れが近い事を知らせている。
学園には生徒達が共同生活を過ごすための寮がある。寮は学園の敷地と対面して存在し、美浦寮と栗東寮の二つから成る。その内の栗東寮もまだ完全には朝日を浴びておらず、カーテンが閉められた部屋がほとんどだ。そんな中、軽快に玄関から飛び出した疾風がひとつ。
中等部のウマ娘、マヤノトップガンだ。
勢いよく深呼吸をすると、爽やかな朝の香りが胸いっぱいに吸い込まれる。早朝の空気には昼間とは違う特別な新鮮さがあり、それはマヤノにとってヒトより少し早く新しい一日を始める特権だ。
手荷物もそこそこに学園の門をくぐったマヤノはまっすぐに更衣室へと向かった。日中は多くの生徒で溢れかえる学園内や、日々切磋琢磨する者達が使う更衣室も人影は無い。すぐに走り出せるよう朝はジャージ姿で寮を飛び出すので、適当に選んだロッカーに荷物を入れれば準備はお終い。授業を受けるための制服は鞄の中にちゃんとある。
トラックへ向かう道すがら、マヤノの足取りは軽やかだった。スニーカーがアスファルトを叩く音が、リズムを刻むように響く。歩きながら、マヤノはわざと一度ステップを踏み、跳ねるようにして自分の身体を軽く確かめる。
「今日も調子いいかも」と心の中で呟くと、思わず自然に笑みがこぼれた。マヤノの頭上では、雲ひとつない空に朝日が黄金色の筋を引き、あたり一面を染め上げていく。日差しが額に触れるたび、全身が温かくなるのを感じた。
朝露を浴びた木々や花が一面に広がり煌めいている。それはまるで宝石箱のようで、自然と笑みがこぼれて脚はますます軽くなる。
学園の広大な敷地を抜け、トレーニング用のトラックが見えてきた。まだ誰もいないトラックは、まるでマヤノを迎えるためだけに準備された舞台のよう。軽く膝を曲げて準備運動を始める。
その動作一つひとつが滑らかで、どこかしら踊るような優雅さを持っていた。ジャージの袖を軽くまくり、伸びやかな動きを見せる腕や脚は、マヤノが自分の体を完璧に理解し、扱う術を知っていることを物語っている。
体をほぐしながらも思考はどんどん先へと進む。今日の自主トレーニングではスタミナに重点を置こうか、それとも瞬発力を鍛えようか。むしろペース配分を研究するべきかもしれない。マヤノの中でこれらの考えが無秩序に浮かび上がり、それらを整理するのもまた楽しみの一部だった。
準備を終えると、マヤノはスタート地点に立つ。そして、地面を蹴るとともに体が前へと押し出され、風を切る感覚が一気に広がった。
「最高!」と声に出したい衝動を抑え、トラックを力強く駆けた。朝露に濡れた芝生の香りが鼻をくすぐり、太陽の光がその橙色の髪をさらに輝かせてくれる。その瞬間、マヤノは確かに世界とつながっていると感じた。地面を踏みしめる足の感触、風が頬を撫でる温かさ。
全て、マヤノの存在を確かに肯定してくれる。
トラックを数周走り終えるとマヤノは足を止めて立ち尽くした。全身から湧き出る汗が気持ちよく、息を切らしながらも満たされた表情を浮かべる。その視線の先には遠くからゆっくりとこちらに向かって歩いてくる男の姿があった。朝の静寂を破ることなく、スーツを着たその男は一定の歩調で近づいてくる。マヤノはその姿を確認すると、満面の笑みを浮かべ、両手を高く掲げて力強く振った。
☆ ☆ ☆
完璧主義者、天城駿介≪アマギ シュンスケ≫の朝は淡く青白い空気に包まれて始まる。
外の世界には夜と朝の境界線が曖昧に混ざり合う時間が流れていた。暗い藍色が薄まり、冷たい白光が薄氷のように漂う。しかし中は暗い。
デジタル式目覚まし時計がセットされた時刻を迎えるより早く、天城は静かに瞼を開ける。
微かに遠く聞こえる鳥の囀り、まだ眠り続ける街の気配。その中で彼だけが動き出のだ。
ベッドから足を下ろす音は静かで規則正しく、整った動作の中に躊躇いは一切ない。ベッドカバーを手早く整え、枕の位置を数ミリ単位で直す。
彼にとって、この整然とした朝の儀式は、混沌を排除するための第一歩。そのこだわりにおいて乱れた寝具をそのままに一日を始めるなど論外だった。
青白い光が遮光カーテンの隙間から差し込む薄暗い部屋の中、天城はコーヒーメーカーのスイッチを入れる。機械音が微かに響き、静けさの中に小さな振動を生む。その音は朝の冷たい空気に溶け込み、短いリズムを刻んでいた。
天城の部屋は七階建てマンションの七階、即ち最上階に位置している。それも角部屋だ。
だが、その眺望や二面採光を味合うつもりは持ち合わせていない。天城にとって部屋とは身分と休息のためにある場所。最上階なのは上階からの騒音を排除するため。角部屋なのは隣室からの騒音を最低限排除するためだ。そのため大きな窓には厚い遮光カーテンが一日中かけられている。自らの意志でそれを開く事はまだない。
それに伴い部屋の中も簡素だ。休息をとるためのベッドが窓際にあり、側に無機質なデジタル時計が置かれている。テレビやゲーム機の類は一切無く、専門書で埋め尽くされた本棚とノートパソコンが置かれた机、そして備え付けのクローゼットとは別に置かれた衣服類ケースのみ。
天城はそれを完璧と呼んでいた。
流行りの照明や観葉植物や置物も無い。カーペットもクッションもソファも無い。キッチンにはコーヒーメーカーだけ。冷蔵庫も電子レンジも、ひいてはフライパンも包丁も無い。無いものずくめだ。 やがてコーヒーメーカーから鈍い音がして出来上がりを主人に伝えたが、徒労に終わる。
天城は別の「完璧」を追い求めていた。
鏡の前に立ち己と向き合う。正確にはその癖毛と向き合っている。無秩序のようで法則のある波うち方に対して指先に整髪料を取り、髪全体に均一に馴染ませていく。癖を無理に押さえつけず、その流れを固定するかのように撫でていくのだ。
切って整えたりも、他の髪型にもしない。
欠点とは諦めであり、停滞。それをそのままの形で完璧へ昇華させるのが天城の美学だ。
「これでいい」
鏡越しに映る自分を見つめ、短く呟く。それは満足を込めたものではなく、妥協を許さない確認の言葉だ。細部への執着が彼の人生を支え、同時に縛ってもいる。傍から見れば不器用極まりないだろう。
コーヒーメーカーから漂う香ばしい香りが部屋を満たしていた。しかし、天城は一瞥しても手に取ることはしなかった。順番ではないからだ。
クローゼットを開けると、そこには上質仕立てられたスーツがずらりと並んでいる。それぞれが完璧な仕上がりだが、色味などを考慮せずに一着を手に取った。今日は濃紺のスーツだが、その理由は一番右に吊るされていたから。明日はその隣に吊るされていたスーツが最も右になる。
適当ではない。高価なオーダーメイドスーツは格別の品質が保証されており、何を選ぼうが変わらない気品をもたらす。それなのに色などくだらない事で時間を浪費するのは無駄だ、と一蹴するのだ。
因みにだが、スーツきは細やかな薄青のストライプが入っており、胸元には控えめなチーフを挿している。ただしそれは天城にとってあるのが当たり前であり希望するものでもない。
袖を通し、ボタンを留める。袖や胸元には装飾的なボタンが連なっているが、それを取り除くことを天城は一切考えない。職人のセンスによって仕立てた時からそうだったので、それが正しいと思っている。歪な形でその腕を信頼しているのだ。
むしろ、それを「個性を表す必須の要素」として認識している。ボタンの多いスーツを否定するのではなく肯定する力を持つのが己、だと。
鏡の前に立ち、ネクタイの位置を何度か調整する。ネクタイも靴下もよく見れば細かな柄やデザインの良さが光るが、良い物を買ったらおまけについてきた程度の認識だ。
天城の部屋に物干し竿は無い。洗濯バサミも無い。洗剤も無い。当然洗濯機も無い。
スーツはクリーニングして、他の衣服は管理会社と契約しているランドリーサービスを使用している。理由は単純で、プロが洗濯してくれるならそれに越した事はない。からだ。
天城駿介という男は必要だと思ったものには惜しみなく金銭を使う。そしてそれに疑問を持たない。そんな人間の朝食がキッチンに並んでいた。
冷めたコーヒーとパウチに入ったペーストだ。
コーヒーにはカフェインやポリフェノールが多量に含まれており、特にポリフェノールから摂取出来る抗酸化作用と僅かな水分を目的としている。
ペーストの方にはその他に必要な栄養素や食物繊維が含まれている。味も食感も気にしない。なので冷えたコーヒーに何の感情も持たない。
一通り済ませたらパウチは捨ててカップは食洗機に入れてしまい、機械の方は洗浄ボタンを押す。これが毎朝行われる栄養補給だ。
量は不要。必要なものを必要なだけ摂れればそれで完璧とするのが天城の心情である。
窓の外、ようやく朝焼けが薄い茜色を空に染め始めていた。街はまだ静寂に包まれている。改めて身支度を終え、鏡の前で一瞬だけ立ち止まる。スーツの裾を整え、ネクタイを引き直す。振り返ることなく、完璧に整った部屋を背にしてドアを開けた。
冷えた朝の空気が彼の肌を包み込む。深呼吸を一つし、凛とした姿勢で歩き出す。その背中は迷いなく前だけを向き、何かに縛られることを拒絶するようだった。オートロックが作動する音がする。これも当然の事。だから気にしない。
天城駿介にとって、「振り向かない」ことはただの動作ではない。それは彼の生き方そのものだった。過去を引きずることなく、現状に甘んじることなく、ただ目の前の「完璧」を追い続ける。それがどれだけ孤独で、息苦しいものであろうとも。
ドアの向こう、背後の部屋ではまだ微かなコーヒーの香りが漂っていた。しかし、それに気づく者はもういない。天城が帰宅するまでには消臭機能の付いたロボット掃除機が部屋を掃除してしまうからだ。無駄に広い部屋も、その余分な空間を気にすることが無ければ無駄にもならなかった。
彼の中で「必要」とされるものだけが、彼の目の前に存在しているのだ。
冷たい朝の空気が天城駿介のスーツの隙間を抜けていく。街はようやく目覚め始めたばかりで、時折遠くから車のエンジン音が聞こえる程度だ。街路樹の葉先には夜露が残り、道端に植えられた花壇もまだ薄暗い。天城の歩調が乱れることもない。
革靴がアスファルトを踏みしめる音が響き、リズムは一定で無駄がない。その姿勢の良さからはあらゆる面で隙を見せない完璧主義者としての彼かの姿勢が伺える。天城は周囲の景色に目を向けることもなく、ただ前を見据えて歩き続ける。
やがて、街の並木道を抜けると遠くにトレセン学園の広大な敷地が見えてきた。
正門を通り抜けると学園の広い敷地が目の前に広がる。芝生は朝露を受けてわずかに輝き、木々の間を風が抜けていった。時間のせいか、それらの光景はどこか静謐で整然としている。天城にとっても馴染み深い景色であるが、やはり感情を揺さぶるものではないらしく見向きもしない。
歩を進めるにつれ、トレーニング用のトラックが視界に入ってきた。天城の目が自然とその奥に向くと、オレンジ色の髪を輝かせながら力強くながらも軽快に走るウマ娘の姿があった。マヤノトップガンだ。
そして、天城が指導する担当ウマ娘の名である。
朝のトラックに響く足音が心地よいリズムを刻んでいる。無駄の無い筋肉の動きが快適な走りを実現していた。軽やかで、まるで羽が生えたようだ。
朝日が少しずつ高くなり、トラック全体を包み込む。光が彼のスーツに反射し白く輝く瞬間、天城は不意に自分が朝日をまともに浴びていることに気づいて、思わず目を細めた。
「……眩しいな」
無意識に呟き、少し顔を背けたくなった。その仕草は、一瞬だけ彼の完璧さを揺らすものだった。
それに気づいたのは天城自身だけだ。
数周を走り終えたマヤノトップガンが視界の端で天城の存在に気づいたのも同時刻だった。
遠くからマヤノの笑顔が見える。両手を高く掲げ、まるで全身で「おはよう」と挨拶するように振っている。一方の天城の表情はほとんど変わらないが、手のひらを軽く振り応える。
去っていく天城の背中を見ながら満足気な顔をするマヤノトップガンは、ひとつふたつと呼吸をしてまた広いトラックを独り占めにした。
トレセン学園の朝は忙しなく始まる。寮を飛び出すウマ娘たちの軽やかな足音、賑わう校内、朝のトラックを埋め尽くす熱気。それらが複雑に入り混じり、学園全体を覆う一種の活気として昇る朝日に溶け込んでいく。燦々とどこまでも輝く。
だが、トレーナー陣の一人としめその中心にいるはずの天城駿介は、騒々しさから一歩離れた静寂にあえて身を置いていた。
天城のトレーナー室はどこか無機質で冷たい。自分の部屋がそうなのだから、仕事用の部屋も当然同じになる。棚に並ぶ資料や本は整然としており、机の上には必要最小限の文房具とノートパソコンだけが置かれている。大型のテレビモニターはあるが、それが日常的に使われる事は無くレース実況等を見る程度にしか天城は使っていない。
壁には何枚かのレース写真が飾られているものの、それらには一般的なトレーナーの部屋に見られるような「栄光」や「感動」の匂いは微塵もない。 壁に飾られた写真の全てがデビュー戦の写真だ。そこに写るウマ娘達は喜びを噛み締めた表情をしているが、だからこそ敗北や挫折を思わせる重々しい雰囲気を漂わせていた。
二枚目がどこにもないからだ。デビュー戦以降の写真はどこにも飾られていない。
この壁は、これまでに天城が指導してきたウマ娘の中でたった一度の勝利で終わった者で埋め尽くされている。その数十数名。そして、写真を飾られる事もなかったウマ娘はさらにいる。それら全員の事を記憶しているが、決して振り返りはしない。
天城駿介というトレーナーは学園内で一目置かれる存在だったが、ニュアンスとしては恐れられると言った方が正しいだろう。彼の指導方針は極めて厳格で、合理的で、冷徹だった。
努力は報われる、という甘い言葉を一蹴し「無駄な努力を続けるくらいなら、今確実に勝つ方法を考えろ」と断言する。彼の哲学は徹底していたが、それを受け入れられる者は少なかった。特に、夢を追う若駒達にとっては。
過去、天城のもとで指導を受けたウマ娘たちはことごとく彼の要求についていけず、結果的に彼のもとを離れる道を選んだ。天城から見限った事も見捨てた事も無い。但し、最後の最後まで高い基準と厳しい判定が変わる事が無かっただけだ。
天城の指導方針は、彼の外見や冷たい目線も相まって「死神」と呼ばれる原因となった。そしてこれまでに指導したウマ娘が何人も挫折を経験したことから、天城の部屋は「ウマ娘の墓場」とまで揶揄されるようになったのだ。
いつしか、天城に指導を乞うウマ娘はいなくなった。そして誰も理由は知らないが、天城から見込みのあるウマ娘をスカウトする事も無くなった。
──墓場に近寄れば、死神に夢を喰い殺される。
そんな噂まで広がり、誰もが天城の元を去った。
ただ一人の例外を除いて。
それこそが今たった一人の担当ウマ娘であり重賞どころかGⅠタイトルを既に二つ持つマヤノトップガンにほかならない。
天城の育成理論が間違っていない事を現在進行形で証明する唯一のウマ娘として、マヤノは君臨している。それは天城の指導に屈せず乗り越え、輝かしい成績を収めたからなのだが、実際に天城がそう認められる事は少ない。
マヤノの天才肌と飄々とした性格が天城の冷徹さと奇妙に噛み合った結果だ。しかし、それこそマヤノトップガンというウマ娘が良かっただけであり、たまたまであり、他ではそういかないだろう。という状況のみの事実も作ってしまった。
結論から言えば、天城を取り巻く状況は芳しくない。しかし天城本人は全くもってそれを気にする事が無い。背中に浴びせられる言葉程度では絶対に天城の心は震えなかった。
針は進み、スピーカからチャイムが鳴る。
教育課程の時間が始まり、仮初めの静けさが府中の大社を覆った頃。常に静寂を心掛けるトレーナー室にノックの音が響いた。控えめだがリズムは正確で、扉の下側から響く音。天城はそれだけで訪問者が誰であるかを察し、資料から顔を上げる。
いつもなら「入れ」の一言だけで済ませるが、そうではなく机の裏にある小さなボタンを押す。すると遠隔操作により両開きの扉が内向きに開いた。
この学園内で両開き扉の部屋を持つのは理事長と生徒会と、そして特別な理由から天城のみ。
それは重厚かつ滑らかで美しいデザインの車椅子に乗ったウマ娘が訪れた事で説明がつく。
「やあ、おはよう」
その声の主が柔らかく笑顔を向けた事に対して、天城はふいに目を逸らして壁の上の方を見た。そして目に入る、自分が担当しておきながら結果を出しきれなかったウマ娘達の写真の数々が。
天城は努力を否定する。これは事実だが率直に言えば甘えと現実逃避の努力を否定している。
努力すれば、努力は出来た、努力が足りないから、あのヒトは努力していた。いずれも天城が嫌う言い訳だ。天城にとって努力とは呼吸も同じくらい当然の事。過程であり、道具である。目的や革命的手段ではない。努力すれば何かが成されるというのは、待っているだけの停滞だと持論していた。
かつて天城が担当したウマ娘の中にも同じような言い訳をする者がいた。どれだけ努力を重ねても何も結果に繋がらない。あとどれだけ努力が足りないのか。と、尋ねられた天城は表情を変えずに声色も変えずにいつもの冷徹仮面のままにこう言った。
『自転車に乗る努力すればオリンピックに出られるとでも思っていたのか?』
数日後、そのウマ娘は天城の元を離れた。別に引き止めもしなかった。
天城が担当ウマ娘を見捨てないのも見限らないのも、ついてくる意志のある者は拾うだけの話だ。手のひらから、自らの石で転がり落ちようとする石に対しては見向きもしないだけだ。
だが、天城にも努力の結晶という点において非常に深い〝尊敬〟という感情を抱いている人物がいる。
「どうしたんだ、駿介?」
「……なんでもない。平気だ」
いつの間にか近づいていた影に天城は冷静さを装う。つまらない記憶を踏み固めるように。
車椅子に乗ったウマ娘はじっと天城の方を見つめている。何かを観察するかのようだが、天城はその視線に取り乱すまいとした。
「睡眠不足では無いな、朝食は食べたのか?」
自分を心配する声に絡み取られそうになり、天城の防御姿勢が働いた。
「何かご用か、シュガーライツ博士」
丁寧な呼称が一線を引き直すつもりの防御、というのは天城の性格由来だろう。
「まあいい、とりあえず大丈夫そうだな」
天城はクスリとした微笑みから再びを目を遠ざけるかのように、パソコンの画面に向かい直した。
☆ ☆ ☆
シュガーライツは実現主義者のヒトだった。
マヤノトップガンやその他のウマ娘が今そうであるように。かつてトレセン学園で学び、学友と共に駆けていた。特段優秀でも才能に溢れてたわけでもないが、風を追いかける群の中にいた。
そしてある日突然風は止んだ。
優秀ではなかったから? 才能に溢れていなかったから? 走るのは好きだったが、好きでいた事が罪だったのだろうか? 様々にものを考えたが答えは出せず、動かなくなって二度と走れない脚にされた事を恨もうにも誰を恨めばいいか分からない。
そこで終わるはずだった。大きすぎる怪我をして再起不能になり、ウマ娘のブランドだけで食いつなぐ人生が待っている。別に珍しい話じゃない。運が悪ければ皇帝も怪物もそうなる可能性はある。
ごく稀にそれでも走りたい者がいる。そして走りたい夢と希望に縋って終わる。ある意味幸せな一生だ。ずっと覚めない夢を見れるのだから。
そのさらに微かなひと粒に、真に夢を追う者が現れる。夢想ではなく現実のために立ち上がる力を持つ者がいる。どんな形でも走るために。
シュガーライツが選んだ手段はロボットだった。目的は走る喜びをまた味わう事。使う道具の名前は努力。原動力は夢。長い戦いが始まった。
幾度も失敗し、歩みを止めた。もう立ち上がるだけでも精一杯なのにだ。周囲からは自らの脚で走る事から逃げたと言われ、否定したい気持ちも捨てて目の前だけを見た。自分を正当化した道の先に未来は無いと、覚悟を決めていたからだ。
血の滲むような努力をして、努力を繰り返して、努力を怠らず、努力に満足せず、努力した。
その夢が叶ったつい最近まで、個人的な戦いは続いていた。しかし積み上げたものは確かな価値と揺ぎ無い結果を生み出した。
それが、意識を機械の体に憑依させ完全な制御と五感反応を可能にする代理身体機構だ。
個人的で独善的な目的のためにシュガーライツが生み出したシステムは、世界中の走る事を奪われたウマ娘を救う事が約束されている。ウマ娘だけじゃない。あらゆる分野でその可能性はどこまでも広がり留まることを知らない。
独りよがりを貫いて世界を変えてみせた。ならばこそシュガーライツは実現主義者。
夢や理想は空に描く七色の虹じゃない。己が踏みしめ歩む実現の道と示したのだから。
──その偉大なる成功の陰。
シュガーライツというウマ娘に共鳴し感銘した男がいた。天城駿介というトレーナーだ。トレセン学園に対して研究の協力を求めたが他のトレーナー達が足並みをそろえる中、真っ先に協力を申し出たのが出会いの始まりだった。
その時に天城が担当していたウマ娘、そして他に名乗りでたウマ娘達をモデルベースに当初のデータ収集は進められた。しかし、天城の担当ウマ娘が契約変更によって離れてしまい危機が訪れる。
突然の離脱に研究は暗礁に乗り上げたかに思えたが、直後にマヤノトップガンが天城の新しい担当ウマ娘としてチームに加わった。そしてこれが未来を掴み夢繋ぐ発明へ大きく前進するきっかけとなる。
マヤノトップガンの自由な走りは固着していた走行データに多様性を作り出した。どんな脚質や距離でもこなす天才性も、大量のデータが求められる研究には必要な資質だった。
そして何より、それを楽しんでこなす姿が他のウマ娘にも影響を与えたのは間違いない。
また同時に天城の指導方針がマヤノトップガンに合致した事と、研究という名目で行う事が出来る先端トレーニングの数々によってマヤノトップガンはより天才性を裏付ける活躍をし始め、墓場の死神と忌避された男も戴冠の舞台に立つ事が出来たのだった。
それらの事を踏まえて考えれば天城がシュガーに対して多大なる尊敬と感嘆の念を抱くのは当然のことだろう。だが、極端に平然でいようとする姿からはそれだけの感情では済まされないものを推察させるが天城は肯定しようとしない。
シュガーはサスペンダースタイルでフォーマルかつカジュアルに自己表現をしていた。比較的小柄な体格で車椅子と比較すると細身が目立つ。しなやかな腰つきから垂らされる尻尾の毛と髪の毛は鮮やかなターコイズグリーンで、天城の冷たい空間に新しい色を加えるかのようだった。切れ長の瞳はよく微笑み、海に浮かぶ小舟のよう。
「相変わらず忙しそうだな、駿介」
穏やかな口調で言葉を投げかけるシュガーに天城はやりづらそうな表情で片側の目を閉じた。視界から遠ざけようとはしていない。目のピントが合わなかっただけ。
「そろそろ用事について話してくれ。もう五分経つ」
淡々とした声に、シュガーライツは笑みを浮かべた。
「特に用事ってわけじゃない。ただ、ここにいると落ち着くからな。あとスープを持ってきた」
鉄仮面を誇る天城でさえ動揺してタイプミスをした。非常に珍しい事だ。
「……それほどに俺は暇を持て余しているように見えるだろうか」
「ふふっ、駿介が本当に忙しそうだったら私も話しかけないさ。スープは飲み終わった頃に回収に来るよ」
天城は即座にPCをスリープモードにした。決してこれ以上のタイプミスを恐れたのではない。客人に対して茶の一杯でも出すべきだろうと思い立ったからだ。それと、どうやら他の事をしながらで聞ける話では無いと諦めた。
シュガー専用になりつつある紅茶葉の缶を開けて仕立て上げていく。その間に向こうから飛んでくる他愛もない話に付き合いながらも。
天城はシュガーと目線が同じ高さになってようやく本題を耳にする事が出来た。たいした難しい話でもない。多少専門的な分野を含んだ練習方法や技術的な話題と相談。いつもと違う事も無く紅茶の香りに揺られながら思うままに話す時間だ。
いつもシュガーは天城にスープを作って持ってくる。その正確な意図を天城は知ろうとしないが、カロリーと栄養価を考えて作られており栄養補給と体温調整の観点から考えて有用なので断っていない。
「無駄」を嫌う男の前に座る「夢」を終わらせた女。その静かな交流の中に、どこか隠しきれない内面が滲んでいた。
シュガーは車椅子を少し後ろに下げると、穏やかにお辞儀をした。物が少ない部屋のおかげで大きな車椅子も快適に移動出来る。
「それじゃあ、私はこれで失礼するよ。話を聞いてくれてありがとう、駿介」
「気にするな。それが俺の仕事だ」
天城の無機質な声に、シュガーは笑みを深める。返答は素っ気ないが、それが彼なりの誠実さだと理解していた。
車椅子の操作パネルに指を滑らせ、扉の方向に進む。静かなモーター音が部屋に染み込んだ。
「また何かあれば言ってくれ」
天城はそう言うと、手元の書類をちらりと見た。シュガーが振り返るが、彼の視線は書類に固定されたままだ。だが、同時に開いた両開きの扉は何よりも雄弁にものを語る。
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
最後に一言だけ残してシュガーは静かに部屋を後にした。扉が閉まると共に、深く息を吐く。
耳を湿らせくすぐる声はもうどこにも残ってないが、紅茶の残り香はまだ部屋に漂っていた。
扉がノックされる音が響いた。コンコンとやや不規則でありながらも力強く、そして先程よりも低い位置。天城は誰が来たかを察した。
この学園には天城が扉の遠隔操作を使う相手が二人いる。一人がシュガーライツ。そして──。
「失礼するッ!」
扉が開ききるのを待たずに、栗色の髪を揺らしながら青と白を基調とした制服姿の少女が現れる。
秋川やよい。トレセン学園の理事長だ。
堂々とした佇まいと、9歳程度に見える……いや本当にそれくらいの年齢通りの可憐な外見が妙な対比を成しているが、その瞳には子供とは思えないような鋭く眩い光が宿っていた。
毎回文字が変わると噂される不思議な扇子をパチン、と閉じる立ち姿は頼もしくさえ思う。
「わーっはっはっはっ! 天城駿介トレーナー! 元気そうで何よりだ!」
理事長特有の仰々しい笑い声が部屋に響く。天城は即座に立ち上がり深々と頭を垂れた。元気そうという文言が引っかかるが、いつも明るく健気な理事長からはそう見えるのだろうと解釈する。
「ご足労様です理事長。何かご用でしょうか?」
「うむ、特に用事があって来たわけではない! ただ、日々我が学園のために尽力してくれている君に、感謝を伝えたくてな!」
理事長は胸を張り、満足そうに頷く。その口元には自信に満ちた笑みが浮かんでいる。
「感謝ッ! 天城トレーナー! 君の指導のおかげでマヤノトップガンはますます輝きを増している! 今後も存分にその手腕を発揮してくれたまえ!
」
天城は一拍置いてから答えた。
「恐縮です。私はただ自分のやるべきことをやっているだけです。輝かしい事は、何も」
その冷静な返答にも、理事長は声を張り上げて威風堂々と褒めちぎってきた。その他にも口々に熱くウマ娘や職員、トレーナー陣への感謝を述べる姿は理事長の鏡でしかないだろう。
「それだけではないぞ! ライツ博士の研究への協力も非常に素晴らしい! 博士は今や我が学園だけでなく世界の宝だッ! 握手させてくれ!」
差し出された片手に応えると両の手で包み込まれた。小さく、柔らかな手によって改めて子供である事を実感させられる。
「恐悦至極に存じます」
「うむ!」
簡潔に答えるので精一杯だった。が、ふとした疑問を口に出来ない程では無かった。
「ところで、理事長お一人ですか?」
「にゃっ!?」
天城の右手には薄らに黒い汚れがあった。朱肉の汚れだ。しかしこの日はまだ判子を握っていない。必然的に理事長の両手に辿り戻るだろう。そして事実、その小さな手の薬指の付け根にはまだ濃く乾いてない黒い跡があった。理事長が判子を押す際に朱肉に触れて汚れた事が読み取れる。
そして、今この場に理事長秘書がいない事を考えれば自ずと答えは見えてくる。
「……しまった!」
考えるまでも無かったようだが。
天城は、幼くして母親から重責を継いで立派に務め上げる秋川やよいを敬愛していた。元はその母に恩情があり、その愛娘に対して深い畏敬を抱くのは天城の性格として当然だろう。
そのため天城は知っている。理事長は常にウマ娘や学園のために尽力しており、職務放棄のような真似はしないヒトだという事を。恐らく業務の合間に休憩がてら部屋の外に出て歩いているうちに他の生徒や職員に出会い、律儀に激励と謝辞をする中で仕事の事が抜けて夢中になり、その流れで自分の部屋へやって来たのだろう、と。
そしてそこまで思い当たって、新たな扉を叩く音がしている事も無視出来なくなった。
「もしもし? 理事長、いらっしゃいますよね?」
間違えようもなく、理事長秘書である駿川たづなの声だった。怒ってはない。笑ってはいる。
「さ、さて、それでは私はこれで失礼する! また何かあれば遠慮なく声をかけてくれたまえ!」
「……承知しました」
秋川やよいが扉の方に行くと、即座に扉は開かれた。その一瞬に見えた緑色の帽子とやや項垂れているように見える理事長の帽子が、またすぐに閉じられた扉によって阻まれる。
「さて──、こちらも片付けるとしよう」
室内は急激に静かになり冷えて、天城はエアコンのリモコンに手を伸ばした。
☆ ☆ ☆
翌朝、天城駿介はいつもと変わらない朝を迎えた。完璧に整えられた部屋、当然定刻通りに鳴る目覚まし時計、何一つ無駄のない身支度。トレーナー室に向かうための足取りも正確だ。
ただし、この日はトレーニング用のトラックには立ち寄らなかった。
雨音が窓ガラスを静かに叩く。不透明で明度に欠ける空模様だが、天城にとって天気は些細な問題に過ぎない。トレーナー室に入るといつも通りにパソコンを起動し、スケジュールを確認する。
外ではしとしとと降り続けていた雨は徐々に強さを増していく。窓越しに見える学園の敷地は灰色と藍色の混じった空と相まってどこか寂しげだ。雨の日のトレーニングは制約が多い。敢えて行う事もあるだろうが、大抵は屋内施設に限られる。
元々がトレーニングの休息日であった事もあり、マヤノトップガンに対しても好きに過ごせと通達していた。寮で大人しくするだろうか、或いは傘を指して出掛けるだろうか。体調さえ崩さなければ何だっていい。天城はそんなことを考えながら、画面に映るデータを確認する手を止めなかった。
ふと、マヤノトップガンの飄々とした顔が頭をよぎり、わずかに口元が緩む。しかし、それ以上感情を表に出すことはなかった。
シュガーライツの訪問も理事長の到来もない。淡々と事は進み、気がつけば時計の針は頂点で重なった。
昼時、学園内のカフェテリアは喧騒で溢れていた。生徒達の明るい声、トレーナーたちの穏やかな会話、食器のぶつかる音が混ざり合い、活気そのものを形にしたような空間だ。
天城はそんな中一人で端の席に座り、静かに目の前のトレーに視線を落とした。食事はカフェテリア特製の日替わり定食。栄養バランスを考えた献立で、味もボリュームも良く定番の品として人気だ。しかし天城にとって食事は補給。選んだ目的はそのままに栄養素の高さと選ぶ手間を省けるからだ。
他人と食事をして栄養素に変化が起きるならそうするが、それが実証された事は無い。
静かに箸を動かし、黙々と口に運ぶ。その動作はアニメーションのようで、不必要なシーンが一枚も見つからない。周囲の賑やかさも大きなBGMとしか思わないので、話しかけようとする事は絶対にしない。話しかけられるような事も起こらない。
天城の両親や家族は多忙で、揃っての食事は一度もしたことが無い。正月ですらだ。テーブルの上には専属の料理人達が最高級品の食材で作った豪華な料理がいつも並んでいた。そしてそれをいつも独りで食べていた。静かな食卓には一般家庭で当たり前のテレビも笑い声もない。ただ、マナーとして極小に抑えている咀嚼音が脳に強く響く。
本能がそれを恐れるようになった。そしていつからか天城は騒々しさの中で昼食を食べるようになった。むしろ、自分の深層意識を認めなくないからかあえて一人を選んでいる。
箸をつけた順番に皿が空になり、ふと耳に入ってくるのは生徒達が楽しげに語り合う声だ。次のレースで勝利を誓うという力強い宣言や、新しく買った靴のといった他愛もない話題。その声の中に凛としたものがあり思わず手が止まる。
天城がちらとそちらの方を見ると、生徒達と談笑
しながら食事を楽しむシュガーライツの姿があった。お喋りをしながら笑い合うその姿に視線が奪われそうになるが見つかっては事だと気づき、それ以上は近づこうとせずその場を離れた。
そこからはまた平穏に包まれて仕事をする時間がやってきた。見向きもしない過去に惑わされる事無く目の前のタスクだけをこなすのは快適だった。
だが物語がいつもそうであるように、平穏とは破壊されるのが宿命である。
例えば、勢い良くやってくる担当ウマ娘の姿。
「トレーナーちゃん!」
雨は止む気配を見せず、教育課程の終わりを告げる鐘が鳴ってすぐの事だった。扉を押し開けてやってきたマヤノは不服そうな顔をしている。
「どうした」
天城が問いかけると、マヤノはひらひらと手に持った物を振って見せた。
「これ見てよ!」
彼女が持っていたのはA4サイズの紙だった。そこには、黒い太字で印字された文字がある。
[死神トレーナーに近づくと皆不幸になる]
天城は一瞥すると無表情のまま目を逸らした。
「くだらないな」
「くだらなくないよ! 昼休みが終わって戻ったらクラスの黒板に貼られていたんだから!」
死神、それは紛れもなく天城の事を指しているが当の本人は気にしない顔をして、発見したマヤノは自分の事のように眉を寄せて抗議する。
「思案するだけ時間の無駄だ。お前もそう思っているから午後の授業時間は我慢したんだろ」
天城の視線は手元の資料に戻されている。だが、マヤノは納得がいかない様子で続けた。
「それにしてもさ、これはちょっとひどいよ! 陰湿だしトレーナーちゃんに失礼だよ!」
その声には本気の怒りと、天城を思う気持ちが滲んでいた。
「そんなことを考えるのはお前くらいだろうな」
天城が小さく呟いた言葉にマヤノは一瞬目を見開いて、やや表情を綻ばせた。
「当たり前じゃん! トレーナーちゃんがいなかったらマヤ、ここまで来てないもん!」
その言葉に、天城はわずかに目を伏せた。それだけでは足りず回転椅子を使って背を向けた。照れたのではなく、天候を見ようとしただけだ。
「それで、お前はどうなんだ」
淡々と言い放つ天城にマヤノは意図が掴めないとばかりに顎にヒト差し指を当てた。
「張り紙の通り、不幸か?」
その質問の答えはどちらでも良かった。それぐらい軽い意識の問いだった。しかし予想外な事に、マヤノは聞こえるや即座に口を開いた。
「違うよ! マヤ、今すっごく楽しいもん!」
「そうか」
「だってね。ブライアンさんとか、ローレルさんとかマベちんとかがいるでしょ? それからシュガーちゃんはお姉ちゃんみたいに構ってくれるし」
いつの間にか近寄っていた大きな瞳は天城の整った顔をじっと見つめると満足気に笑った。
「そして何よりはトレーナーちゃんでしょ?」
「その〝トレーナーちゃん〟は今すぐ止めろ」
「なんで!?」
至近距離で浴びせられた疑問の声に天城は顔をしかめた。非常に不機嫌そうな顔をして窓を見上げる。今度は本当に空模様を見たかった。
「不愉快だからだ。俺はお前のトレーナーであって友人ではない。第一に、そんな親しい呼び名にする理由がどこにあるんだ」
「えーっ? 仲良くなりたいじゃん」
今度は床模様が気になったのか下を向く天城。眉間を強く抑えているのは気圧のせいだろうか。
「いいから、張り紙の事は気にするな」
「なんだか、思った以上にトレーナーちゃん平気そうだね。ちょっと意外かも」
自由極まりないマヤノにずっと調子を崩されている天城は手元のコーヒーを飲み干した。それでも足りずに机の中からラムネ瓶を取り出すと躊躇わずに数錠を流しこんだ。
「何が意外なんだ」
「だって、雨の日ってナーバスにならないの?」
聞き慣れない言葉に対して片眉が上がる。知識ではない。自分とは無縁だと思っていた語句を投げられたからだ。そう自負している。
「待て、なぜこの俺が雨程度で気が沈む」
「湿気が多いと髪の毛が余計に跳ねたり痛むでしょ? だからマヤも雨の日の朝は苦手」
くだらない、と一蹴したいが存外に納得した意見だったために気づかれないよう小さく唸った。
「悩む事じゃない。整髪料を倍にするだけだ」
マヤノは天城から否定以外の反応が返ってきたことを嬉しく思い、にやけ喜んだ。
「ともかく、もう気にするな。但し自分に被害が出たらすぐに報告しろ、対処する」
「はあい♪」
鈴を転がすような、音符のついたような返事にはもう反応しまいと心に誓った天城は、それきり固く口を閉ざして仕事へ目線を戻した。
問題はそれで解決した。そう、思っていた。
傘を刺せば雨は止まずとも濡れないように。
続きは明日午前6時半に第二章を公開します
感想・批判・考察・評論お待ちしております