完璧主義者の天城トレーナーは振り向かない 作:黄金モルモット
天城はいつもと変わらない始業を迎えようとしていたが、それは叶わない事をすぐに思い知る。
張り紙の件から数日後。次の異変が起こったのはトレーナー室の扉前だった。いつもは意識の高い清掃員達の技術によってチリ一つない廊下に異物が置かれている。菓子の贈答箱だ。それを拾い上げると何事も無かったかのように室内へと入った。
パソコンを起動する間に箱を眺める。
トレセン学園から発送するための包装として学園のロゴマークがラベルに箔押しされており、それが未開封の印でもあった。天城は様々な可能性を考慮しつつもそっと箱を開ける。
中身は構内で販売されている贈答用のクッキーであり、同じく学園のロゴマークが焼目としてついたものが個包装で二十個入っている。
「ただの、差し入れだろうか」
ふとした思いで箔押しに手を伸ばす。
箱とラベルの間にはメモカードが意図して挟まれていた。そして通常、そういう類のものは表に言葉があり裏に差出人の名前がある。しかしそのカードは表に署名がされていた。英語の小文字でnとただそれだけが記されている。そして裏面、即ち本来の表面には「貴方の全てを知っている」とだけ、下手でも綺麗でもない文字が手書きされていた。
天城は鼻で笑う。全てを知っている、などと傲慢に意気込むのは何も知らない事の裏返しだと考えたからだ。これが脅しだとして意味はない、と。
そして再びnに目を落とす。しばらく眺めた後に足元のゴミ箱に手を伸ばすと、先日マヤノから見せられた張り紙を掴み取る。
「やはりな」
その時は気が付かなかったが、張り紙の右下隅にもnの文字があった。これらを仕掛けた犯人の符号だろうか。しかし天城の興味はそこで終わり、張り紙とカードをまとめてシュレッダーに差し込んだ。カードの厚み分だけ鈍い音がして、やがて無数の細かく鋭い刃が〝不要なもの〟を刻み捨てた。
菓子の箱も折りたたんで捨て、個包装されているクッキーも全て開けると木製の皿に並べた。後でやってきた者にあげるつもりだ。
菓子を誰が置いたのか、カードの文字がどういった意図を持つものか。天城にとっては興味のない問題だった。目的が動揺させることであるならば、それは完全に失敗していた。
それとも、これはまだ序の口であり小手調べなのだろうか。しかし、それを考えるつもりは今の天城には全くもって無い。
昼時、カフェテリアへ向かう廊下を歩く天城の足が止まった。その視線の先、掲示板には不自然に目立つ一枚のポスターが貼られていた。
[天城トレーナーには気をつけろ]
赤と黒のマーカーで大きく書かれた文字が目に飛び込む。さらにポスターの下部には天城自身の顔写真が切り抜かれて貼られていたが、その口元がわざと不自然に歪められて間の抜けた表情に見える。吹き出しのようなものまで添えられており、太字で大きく無駄と三回書かれていた。
天城はそれをじっと見つめた。目の前のポスターに何か特別な意味があるとは到底思えないが、こんなくだらないことに貴重な時間を割く必要があるのかとわずかに苛立ちを覚える。それでも彼の顔に感情は表れない。感情を表に出すのはこんな悪戯に負けたも同然だと心得ていた。
近づいてポスターを剥がすと、裏面にはある種の期待通りにnと書かれている。
深くため息をつくと、それを二つ折りにして静かにポケットへしまった。今は栄養補給に向かいたくこれ以上余計な事を考えたくもなかった。
喧騒の中でする食事を終えてトレーナー室へ戻るとポスターを机の上に広げた。写真の自分の表情を一瞥し「よくこんな手間をかけたものだ」と小声で呟く。どこか呆れを含んだ声色だ。
また不要な物がシュレッダーに吸い込まれる。
次に発生したのは、その日のトレーニングが終わりマヤノと解散した後の事だった。
トレーナー室の前に差し掛かった天城は、普段通りに扉の取っ手に手をかけた。しかし扉に何か貼り付けられているのに気づき自然と視線が向かう。
「今朝は足元で今度は目線か」
それを剥がして素早く中に入る。他の誰かにこれを見られただろうか? と一瞬考えるも問い合わせが来てから対処すればいいと思い直す。
トレーナー室の中を見渡すが変化は無い。
[この人に相談しても無駄]
大きな文字がマジックペンで書かれた紙が、テープで扉に固定されていたのだ。
裏返せばnの字。天城の眉が僅かに動いた。
「くだらん……」
呟く声には感情がほとんど乗っていない。これを仕掛けた人物の意図が何であれ、天城の心を動揺させることには到底成功しそうにない。
気を取り直して仕事をしようと机の上に積まれた書類を手に取るが、その鑑が目に入る。
[身勝手な自己満足]
目を細めてそれを見つめるが、他の書類には問題がないようだった。悪意ある鑑だけがいつの間にか追加して上に重ねられていた。
「幼稚にも程がある……」
その声は低く冷静だが、ほんの少しだけ驚きの色が滲んでいた。これはつまり、部屋に何者かが侵入した事を示している。それはさらなる害を予感させるには充分だった。
その時、マヤノが軽快にやって来た。
「トレーナーちゃん、て……どうしたの?」
「なんでもない。そっちこそどうした」
「なんだかね、今日はトレーニング設備も更衣室も点検で立ち入り禁止。それで暇だから廊下を歩いていたら、これが廊下に貼られていたの。ほらこれ見てよ! マヤ急いで見せなきゃ、て持ってきたんだ!」
それは一見して選挙用のポスターに見えた。しかし明らかに違うのは、候補者の顔が自分のものにされている事だ。ご丁寧にもフォントや文字の内容まで実際のポスターさながらに作られている。派手で目につく赤字や緑色で添えられた斜形字にはこうある。
[ウマ娘の未来をぶっ壊す!!]
[担当の叫びは聞こえない! 才能重視の鬼指導!]
その余りの内容に天城は思わず小さな笑い声を漏らした。マヤノは信じられないという顔をして驚き、肩を激しく震わせた。流石にこれは怒るだろうと思っていたのに帰ってきた反応が予想外だったからだ。
「トレーナーちゃん正気!?」
「ああすまない。堪えきれなかった」
「マヤ、これの何が面白いのか分かんないよ……」
天城の目がいつになく冷静なのを見てマヤノは恐怖すら覚えてしまった。壊れたとも思った。
「考えてみろ、こいつは俺の気を引きたがっている」
「気を引くって何? なんでそうなるの?」
「どの悪戯にも必ずnの字が添えられている。まるで自分に気付いてほしいとでも言わんばかりだろう」
天城はポスターを裏返してマヤノに見せつけた。そこにも他と同じような印字がされている。
「わざわざ共通の匿名をもって悪戯をしているのは、俺に何かを気づかせたいからなのだろう。それで俺がnとやらまで辿り着くのが犯人の願望だ」
「犯人に心当たりがあるの?」
「俺はこんな低俗な事をされる覚えはない」
そう力強く断言してみせるとマヤノは気まずそうに天城を見て目を逸らした。いくら他者からの視線に無頓着な天城といえど、目の前でそれをされると流石に指摘せざるを得ない。
「何か言いたげだな」
「う~ん……ほらトレーナーちゃん誤解されやすい性格だし? なんというか心開かない系男子だし?」
「おかしなカテゴライズをするな。それに俺の本質を理解出来ない者からの評価はどうでもいい」
「それ!」
マヤノは鋭く力強く指を指した。
「トレーナーちゃんがモテない原因はそれだよ!」
「待て、まてまて、いきなり飛躍しすぎだ」
天城駿介という男は、これまでモテなどという事を気にした事が無い。外見も服装も全ては自分のためにしており、他人のためにするのは恥ずかしい事とも思っていた。当然、性格や言動も同じである。
自分には一定数の理解者や協力者がいるのだから、それ以外はどうでも良く何を言われようとも思われようとも気に留めないのがこの男だ。
だからこそ、これまでの悪戯に対しても無視を貫いてきた。むしろ、加害ではなく反応させるのが目的と初めから見抜いていたのだ。
「俺が異性に好かれるか好かれないかは、この場において重要な問題ではないだろ」
「大ありだよ! やり方はすっごく間違っているけど、でもこれトレーナーちゃんに振り向いてほしくてやっているって事でしょ?」
「だとしたらアプローチの方法は完全に間違えているがな。これで俺がなびくとでも思ったのだろうか?」
「好きだけど素直になれない事もあるよ?」
「バカバカしい。ならハッキリ伝えればいいだろう」
マヤノは天城からシュガーライツへの態度を思い浮かべて、どの口がそれを言うのだろうかと呆れたが決して表情には出すまいと、僅かに唇を噛むに留めた。
「それで? この悪戯が俺へのラブレターだとして何になる。俺はそんな気を振りまいた覚えもない」
再び天城からシュガーへの素っ気ない態度を想起したマヤノは心の中でむむむと呟いた。
「犯人への手掛かりになるんじゃない?」
「そうかもしれんが、俺に対してそんな様子を見せた異性に心当たりは全く無い」
もう我慢出来なかった。
「シュガーちゃんは?」
「なっ!?」
マヤノが知る限り、天城は初めて動揺し声を荒げた。それ程に不意打ちだったのか隠せていると思っていたのか。真相としては天城本人も自覚していなかった、のが正しいだろう。
天城はすぐさま鉄仮面を拾い上げて被ったが、マヤノは天城が床に落としたボールペンは拾おうとしないのを見て確信を深めた。
これは面白くなってきた、と年頃乙女らしく恋愛妄想に浸りたくなるが我慢する。
天城が完全に我を戻すまでに三十秒要した。
「でもまあシュガーちゃんは無いよ。すっごく素敵で頭がよくてカッコいいシュガーちゃんは、こんなつまらない事しないし大人だから嫌がらせしないもんね」
「それは極当然だろうが、ではなんだ子供ならしてもおかしくないと……まさか、そういう事か?」
マヤノと天城は同じ考えに到達し互いに見合った。天城はまだ信じられないという顔つきだが、そう考えれば納得がいく。天城は整理されたキャビネット棚の中から一冊のファイルを取り出すと机の上に広げ始めた。
と、その時だった。力強く扉をノックする音が部屋に響いた。それは初めて聞くノック音だった。
「トレーナーちゃん!」
「慌てるな。犯人がわざわざ現れるわけもないし、仮にそうだったとしても俺の後ろにいろ」
天城は冷静に二枚扉を見据えて「入ってくれ」と言った。一瞬の沈黙の後、開かれた扉の先には紺色の制服に校章が輝く帽子を被った警備員が二人。一人は箱を抱えている。またか、と天城は心の中で呟いた。
そして奥にはいつもとは違う神妙な表情でこちらを伺うシュガーライツがいた。
何か、ただ事では無い。そう察知した天城は先程までのやや油断した意識を捨て去り、その動向と言動を漏らすまいと真っ直ぐ前を向いた。
「天城トレーナー、突然押しかけて申し訳ない。緊急の要件が発生したので協力してほしい」
「構わない、気にするな。それから」
視線を振られた警備員達はそれぞれ敬礼をした。
「警備室の太田です」
「同じく、西条寺です。我々は別件ですが……」
「別件?」
「はい、天城様宛の荷物が警備室に届けられていましたのでお持ちしたのですが、お取込み中でしたか?」
天城は警備員と、それからマヤノの方を一瞥すると少し目を伏せて再び視線を上に戻した。
その一瞬で様々な思考を成すのだ。
「マヤノトップガン、外してくれ。例の件は──」
「いや、いて構わない。時間さえよければお二人も」
車椅子の両翼に手を乗せて言葉を発したシュガーに天城は怪訝そうな顔を浮かべた。マヤノをこの場に残す必要も、警備員を残す理由も理解出来なかった。
太田と西条寺もオドオドと頷いた。沈黙が走る。
「話を聞こう」
天城は右手の親指を立て他の指を曲げて形作ると口元を覆うようにした。深く思考する時にする癖だ。それが合図となり場の空気が張り詰める。困惑したマヤノだけ天城の背後で心配そうに部屋を見渡していた。
「生徒会や学園の運営部会から私に調査の要請が来た。ひとまずはこれを見てほしい」
差し出されたタブレット端末を受け取った天城はその画面を見るや、先程まで悪戯を眺めていた時とは目の色を変えた。それから素早く端末を操作すると何かを考えこむかのように深く息を吐いて目を閉じた。
まるで、それが現実だと信じたくないようだ。
「そっか、だから全部使えなかったんだ」
肩越しに覗き込んだマヤノは画面に映し出され写真を見て小さく頷いた。一見それはトレーニング器具の近接写真が表示されているだけにも見える。しかし天城が画面に指をさした箇所、そこにあるサンドバッグには小さな切れ込みが入っていた。
「でもこれ、どういう事?」
その他にも壁の穴や、ランニングマシンにつけられた穴、フィットネスバイクのサドルが切り付けられた物などおびただしい数の写真が収められていた。写真の場所は多岐に渡り、見つかっているだけで五十箇所以上の数があった。それよりも多いと考えられる。
どうやら天城には既に何かしらの推論があるらしい。全員の顔が暗く、外と対比して空気は重い。
「見てもらった通りだ。マヤノトップガン、普段これらのトレーニング設備を利用している君達は、これらの傷や破損に気付いていたかい?」
マヤノは今日の出来事、昨日の出来事、或いはさらに過去の事を振り返り初見だと首を振った。
「使ってるうちにちょっと壊れたり傷が入ったりすることはあるけど……でもこれはおかしいよ。だってこんなの刃物使ったりドリルじゃないと無理だよね?」
「だろうな。博士、この壁の穴はどこの部屋だ?」
シュガーは顔色を暗くして答えた。
「更衣室だ」
天城が溜め息をするのとマヤノが小さく声を漏らすのは、ほぼ同じだった。更衣室の壁につけられた穴、それは不気味であり不穏なイメージを与えつける。
胸の前に手を当てて考えていたマヤノは何かに思い当たったかのように顔を上げた。
「もしかしてマヤ達、何かに狙われてるの?」
「マヤノトップガン、それは──」
それは何の確証もない直感的意見だった。シュガーがマヤノをこの場に残したのはただ生徒の視点からの意見が欲しかったにすぎない。それ以上に意味はなく。ここまで不安にさせるつもりもなかった。しかしマヤノの直感は天城の疑念を確実なものにした。
「電気、通信的な配線やバッテリは見つかったのか」
天城は唐突に言い放った。ここまでの会話を聞いて、器具や設備の破損からある可能性を考慮していた。盗撮や盗聴という犯罪行為が行われた可能性だ。
「天城トレーナー、それはどういう事だろうか?」
「特別な意味もない。可能性は全て追求すべきだ」
「あの、我々も盗撮や盗聴と疑うには早いかと……」
ここまで三人の動向を背を立たし見守っていた警備員達は耐えきれなくなったのか、恐る恐る言い出た。
鋭い眼球が警備員それぞれの顔を捉えてまた正面に戻る。動揺したマヤノは机を叩いた。
「ま、待ってよ! 盗撮ってどういう事!?」
一気に騒めく室内。穏やかな時間が流れる外と違い、時の流れも加速していくようだ。
天城は謎の箱を持ってきただけの役割だった警備員二人について、シュガーは恐らく簡単な警備強化のために居残ってもらったと考えた。その考察は正しい。
だがしかし、こうなれば積極的に活用しようと天城は都合が良いとばかりに決めたのだ。
「博士、もう一度問うが今見つかっているのは器具や壁に対する無数の傷だけという事だな?」
「そうだ。確かにただの悪戯を疑うには範囲が異様に広いのも確かだ。すまないがお二人、いや警備室には追って正式に要請を出すが協力してほしい」
「と、言われましても……」
煮え切らない反応に天城は苛立ちを抑えた。どうにもこの二人は仕事熱心には見えない、と。
「巡回の数を増やす事やカメラやセンサの増設も考えた方が良さそうだな。博士に話があったのも結論的にはそういう事と思うが?」
「ああ。知識や技術的な意見を仰ぎたいと言われた。しかし想定よりも強化したほうが良さそうだな」
「そしてだ」
背中側に視線を向けると決意を固めたのか力強く頷くマヤノがいた。この時まで天城は悩んでいたが、より良く完璧な判断下すべく、こちらも決心する。
「マヤノトップガンは何もするな」
「で、でも」
「聞こえなかったのか、見えない敵に怯えるな。お前はお前の成すべき事をしろ」
それは天城なりにマヤノを危険から遠ざけようと考えての発言だった。相手が低俗な悪戯とは比較にならない悪意に満ちた存在だとすれば、そこに大人以外を関わらせるべきではない。足手まとい、とは短絡的な表現だがこれ以上の関与は不要。それが結論だった。
後日正式な打ち合わせを行う事にしてその場は解散の運びとなった。
それまでずっと箱を抱えていた警備員の西条寺に対して天城は箱を置いておくように言伝てたが、すると西条寺は段ボールの角で指を切る怪我をした。 天城はこの警備員達が使い物になるのかと考えたが、それ以上に興味は無いと退出させた。
部屋には再び二人だけの空間が戻り、浮足立たない空気が漂う。一息ついた天城は、今自分の身に起きているもう一つの事案に思考を寄せた。
「悪いが、そこの箱を持ってきてくれ」
「アイ・コピー!」
箱は大した重さでないどころか非常に軽いらしく中身が少ないらしい。マヤノは片手で箱を持った。
もはや当然のごとく箱に書かれたnの字にはもう目もくれない。この時点で推定nの目論見は未達成だが、もう一つ気になる事として「これは切れ長、次は車椅子」と書かれた怪しげな文言が箱にある事だ
マヤノと対比して天城という男は直観力に優れているわけではない。素早く幾重にも行う思考によって正解を導き出すタイプだ。よって箱に書かれた文言と過去の出来事を瞬時に結び付けて答えをだしたりは出来ない。想像するのは苦手としていた。
それでも、本能的にその手を止める何かがあった。
「喉が渇いた。ぬるい湯をくれ」
「なにそれ?」
「お湯を沸かして冷ませばそれでいい」
渋々、とりあえずマヤノは指示に従った。その間に天城は無駄なくカッターで箱を開封する。
そして一目見るなり箱を閉めてテープで封じた。
「相手も急いているのか、よりによって」
「トレーナーちゃん、分かんないから水でいい?」
天城の様子が明らかにおかしい。
おかしいが、なぜおかしいのかマヤノには分からなかった。机に置かれた水が一気に飲み干される。
「このnについて、お前はどう思う」
これまで犯人像について意見を求められた事など全く無かった。なのに聞いてきた。マヤノはこの箱に大きな秘密が隠されているのだと感じたが、既に天城の手によって廃棄予定と大きくマジックペンで書かれたそれをこじ開けるほど、マヤノも自由ではなかった。
「う~ん、一応聞くけどさ誰かに恨まれた事ある?」
「あるわけが無い」
「うん、ごめん。だよね!」
勿論、当然に、当り前の如く天城は嫌われている。
しかし自ら手を下すことはしないので基本的には恨まれはしない。深く関わった事があれば話は別だが。
そして天城もマヤノもその線で犯人像を捉えていた。余りにも個人へ執着した攻撃やその内容は今校内で起きている異変と違いそのままに子供じみている。
先程開こうととしてそのままにしていたファイルを手に取るとパラパラとめくっていった。
「トレーナーちゃんてやっぱりマメだよね」
「……前にも言ったが、その呼び方をやめろ」
その時、マヤノトップガンは閃いた。
「じゃあさ、マヤが悪戯の犯人を見つけたら好きに呼んでもいい? ご褒美!」
「それでやる気が出ると言うなら好きにしろ」
「よし! じゃあ始めよう!」
ファイルにはこれまでに天城が担当してきたウマ娘の詳細なデータがまとめられており、その評価が細かく記載されていた。
良い点や悪い点、弱点、感想、それらは枠のギリギリまで詰められている。しかし出走履歴欄は空白や一行程度しかない。それが数十項に渡り、最後にマヤノが登場して初めて出走履歴には重賞の名前が刻まれた。つまりいずれもマヤノの先輩だ。
この中に犯人がいる。天城に指導を受けた生徒の中に天城へ復讐心や商人欲求を募らせる者がいるのだ。
「でもなんでトレーナーちゃんを恨むんだろね。もしもその娘が活躍出来なかったとしてもトレーナーちゃんよりも重賞勝ってるマヤに刃先を向けない?」
「さあな。幼稚な気持ちなど理解出来ん。だが、これ以上は無視出来ないだろうな」
その現実を天城は受け入れようとしていた。
そしてこれまで、過去に何があるかなど考えもしなかった男が、そこから何かを導き出そうとしている。
それは本人自身にも不思議な自覚だった。
ひとつ目を瞑れば過去の記憶が、ふたつ目を瞑れば声の記憶が、しかしそこには表情の記憶だけが無い。他人の顔色を気にずにここにいる事を僅かに悔やむ。
天城は広いテーブルにファイルを広げた。横からは興味深げにマヤノが覗き込む。
「ねえ、マヤもこれ見ていいの?」
「プライバシーに関わる内容は無い。覚悟を決めたのだろ? 気まずいなら見なくてもいいが」
「大丈夫だよ、マヤ口硬いもん」
そういう事では無いだろ、天城は心の中で呟いた。
既にマヤノの視線はファイルへ向けられており天城も過去と向き合うべく瞳をそこに落とした。
☆ ☆ ☆
【グロリアセレス:晩成型。技術は不足しているが、熱意は十分。感情的になりやすく短絡的】
『こんな無理なトレーニング、私にはできません!』
『出来るかどうかはお前が決めることじゃない。俺が達成出来ると判断した目標をそのままに遂行しろ』
『私……私はそんなに強くありません!』
『なぜ泣く。その程度の精神力ではこの先勝っていけるはずが無い。気持ちを整えて出直してこい』
【〇メイクデビュー四着 〇未勝利戦七着
〇本人の意向により、他トレーナーへ契約変更】
【アステリアレイ:冷静を装い、その実壁を作り斜に構える。僅かな才能を過信し、継続的な努力を怠る】
『なぜ時間通りに来ない。遅れをどう取り戻すんだ』
『大丈夫ですよ、この前も一着でしたし』
『過去の順位結果は何の担保にもならないだろ』
『え? いや、でも多分いけますって』
『成長も努力も終わりはない。引退するまで続けろ』
【〇メイクデビュー一着 〇GⅢささら賞出走辞退 〇OP競走十五着 〇無断欠席その後、自主退学】
【ルミナリースカイ:自然体重視で走行理論への理解に乏しく、自身の特性を活かしきれていない──】
☆ ☆ ☆
天城は静かにページをめくっていたが、その静けさをマヤノのえづきが上書きした。気分悪そうに口元に手を当てている。突然の事に天城も屋や狼狽えた。
「どうした。気分でも悪いのか」
「多分違うと思う、でもなんか気が滅入っちゃった」
「安心しろ。お前はこれまでの誰よりも才能があり熱意があり努力を当り前に楽しんでいる」
天才を天才たらしめるには、才能と同等の努力が必要になりそれを特別と思わない事が必要になる。
顔にこそ出さないが、天城がマヤノトップガンを気に入っているのには肌感覚でそれを理解しているという条件を満たしている点もある。
そんなマヤノからすれば、普通の努力から逃げたり裏打ちの無い才能にかまけたり、多少のストレスで折れたりする者は別世界の事に思えてしまうだろう。
普段同じ時間を共有するマーベラスサンデーを始めとしたウマ娘達は皆本質的には同じだ。だからこそ、理解のつかない及ばない存在を自己に取り込もうとして相反してしまったのだ。
「なんか、皆苦しそうだね」
「苦しい、か」
「きっと、トレーナーちゃんが思うよりも皆丈夫じゃ無かったんだよね。でも頑張ろう、て思ったけど頑張れなくて息苦しくなっちゃったのかな、て」
「そこで頑張れる者のみが勝てる。お前のようにな」
天城は自身が特段に厳しいとは思っていなかった。ただ勝利のために必要な事を課しているだけと思っている。それに適合したマヤノが活躍している事からも間違いはないと信じている。
「苦しさは分かっても、恨む気持ちは分からないや」
気持ちを整えたマヤノは再びファイルへと目を落としていく。そういうヒトもいる、と心構えて。
それから紙をめくる音だけが響き、最後から二番目つまりマヤノトップガンの直前に天城から指導を受けていた名前が現れた。
【ノーブルライズ】
その名前を見つけた瞬間、マヤノの眉がわずかに動いた。天城もその反応を見逃さなかった。
「知っているのか」
「うん、同じクラス。でもあんまり話した事は無いかも。トレーナーちゃんの担当だったんだね」
「ああ……そうだな」
「うん。ノーブルちゃんとトレーナーちゃんて似た者同士だもんね。そっか、だからだ」
【ノーブルライズ:短距離を得意としており、強みは序盤の加速力と終盤での勝負強さ。プライド高く、他者への倍の厳しさを自己にかける。厳しい指導を強いく好む傾向にあり、限界まで追い込めば必ず報われると信じている節がある。裏を返せば脆く拙い。成果が出ない事を自己のみの責任として捉えてしまう】
天城の脳裏にノーブルとの会話が想起される。
煌々と明かりが照らす夕刻のトレーニング場にて息荒く脚を動かす姿と、それを見つめる己までなぜか精密な記憶として浮かび上がった。
『もういい、今日は終わりにしろ』
『まだです。まだ、やれます』
そうは言うが、ノーブルの走る姿は地上なのに溺れているように見える。新鮮な空気などいくらでもあるのに、それを吸い込む方法が分からないないかのようにもがいていた。
『先程からタイムが上がるどころか落ちている。つまり今消費している体力は無駄でしかない』
『そんな事ありません! 無駄な事なんて何も!』
その気迫はその場にいる誰よりも気高く力強い。
それが際立てば際立つほどに、対する天城の立ち姿が冷たく見える。まるで、全てを知っているがために敢えて沈黙を貫いているようだ。けれども、その沈黙は逆効果だと思うのが天城の善意だ。
『ノーブルライズ、お前はデビュー戦から勝利を重ねてここまできた。俺の要求にも応えて加えて自己鍛錬も行ってきた。その気概は俺の知る中で一番だ』
『トレーナー、天城トレーナー?』
何をどう言おうとも、今のノーブルに対してはただの死刑宣告でしかない。
『努力を続けて上を目指し続けるのは必要な事だ。だがそれには努力の下地となるものがいる』
『私には伸びしろが無いとでも言いたいの?』
『そうじゃない。俺の言葉を都合よく解釈するな』
聞きたくないと耳を塞いでうずくまることも出来たはずだ。SOSを出す事は出来ただろう。しかしそれを拒絶するから天城とつきあえたのがノーブルだ。
『お前のために言う。無駄な努力はするな』
天城はそれきり何も言わなかった。ノーブルがそこで話を切り上げて学園の暗がりへと消えたからだ。
追いかけはせず、その背中を見送る選択をした天城は拳を握りしめようとするが我に返り手を降ろした。
【〇メイクデビュー一着 〇OP戦一着
〇GⅢ京中杯一着 〇GⅡホールデムS二着
〇GⅠメテオシャワーS四着
〇契約変更を提案、現在は別チーム所属】
そして一枚ページがめくられてマヤノトップガンの名前が現れるが、その視線はノーブルのページに釘付けになっていた。
「これって、トレーナーちゃんから他のとこに行くように話を切り出したって事?」
「そうでもしないとアイツは自らキャリアを潰しかねなかった。今の事は知らないが、後悔もしていない。それを見捨てたと言うのであれば否定はする」
「もしもさ、マヤも同じようになったらその時も他の所に行くように勧める?」
珍しく天城は長考した。いつも直感ではなく練り上げられた思考を速やかに行うのだが、言葉を選んでいるのか、はたまた決めかねているのか。
「お前やシュガー博士と出会った今なら、違う結論を出せるかもしれんな」
「悔やんでるって事?」
「そう、かもな。勘のいいお前はもう分っていのだろう? 俺に何か執着するとしたら、アイツだろう」
誤解のされやすいい天城の言い方を紐解くと、この発言は自分への悪戯に対してノーブルへの対応を後悔しているのではない。むしろ、天城の超然性からして当然の仕打ちだと捉えているだろう。その上であの時見殺しにしてしまった事を、己の重大なミスとして恥じており悔やむ思いがあるのだ。
マヤノはそんな天城の複雑な感情を上手く汲み取った。ただし、汲み取った事を悟られるのも天城駿介という面倒な男に引っかかるので瞳の収縮と上下移動だけで自己完結させた。
「ノーブルちゃんに、話聞きに行こうか?」
「いや、まだいい」
「なんで? もう、ほっとけないんでしょ?」
「下手な完璧主義のアイツの事だ。まだバレていないと思っているだろう。そこでお前が出て行くのは得策ではない。かといってこれ以上の事をすればアイツの選手生命が終わるかもしれん」
「犯行現場を押さえよう、てこと?」
天城からのアイコンタクトにマヤノは、ウインクで応えたが、それには気恥ずかしそうに目を逸らした。
「学園で大規模に起きている事案によって警備体制の強化やカメラ・センサの増設がされる。その事が通達されるのは内々の話だ。それに乗じてこちらも向こうの動向を探る。急ごしらえにしては上出来だろう」
「じゃあマヤもこっそり見張っとくね。それと……」
床に置かれた、廃棄予定と書かれた箱を指差す。
「これの中身教えてよ」
「断る。何があろうとお前には見せん」
頬を膨らませるマヤノに背を向けた天城は、口元へコップを運んだが中身は空だ。それを誤魔化すように頬杖をつき、天井を見上げた。
続きは明日午前6時半に第三章を公開します
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