黄金の祝祭 ~怪獣至上主義カルト教団の村にて~   作:よよよーよ・だーだだ

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4、破滅と救い ~『GODZILLA 星を喰う者』より~

 “導いてあげる”。

 そう囁いたレヴの声は穏やかな春風のように優しく、胸の奥でそっと広がるかのように思えた。

 

 けれど、いま俺たちがいる現実は、彼女の温かな声のイメージとはまるで正反対だ。

 石造りの祭壇は先ほどまでの儀式の惨劇で黒ずんだ血にまみれ、足元には千切れた臓物や肉片が散乱している。湿った臭いと鉄のような血の匂いが入り混じり、鼻腔にしつこくこびりついて離れない。薄暗いランプの灯りが揺れ、血だまりの表面に不気味な光の反射を映し出していた。

 そんな惨憺たる光景の中央で、レヴの“優しい声”だけがあまりにも場違いに響いているように俺に思えた。

 

「……導く、だって?」

 

 そう答えた俺の喉が、張り付くように乾いている。俺は荒い息をつきながら問い返すものの、自分でも声が震えているのがわかった。

 何が“導く”だ。“救われる”だ。聞き慣れた宗教じみた単語が頭のなかで空回りする。まさかレヴがこんな〈大量殺戮の跡〉を“救い”と称賛するなんて、信じられるはずもない。

 踏み出したブーツの裏に、ぐちゅりと嫌な感触が走った。血と臓物が混じる地面だ。思わず足を引くと、下に転がっていた誰かの腕の切断面が見え、吐き気がこみ上げてきそうになる。

 祭壇の上、レヴは柔らかい微笑みを浮かべながら、子供が遊びに誘うときのような軽い調子で言った。

 

「そう、天国。だって、ほら、こうすればもう痛みも苦しみも『無い』んだよ」

 

 その言葉と同時に、レヴの背後で揺れる“あいつら”――三つ首の金色の怪獣――がゆっくりとうねり、同調するかのように首を傾げる。血に濡れたその足元を見ると、無惨に喰い破られた肉塊が赤黒い塊のままこびりついていた。

 俺は奥歯を噛み締めながらレヴを睨みつける。

 

「……君は、人を殺したいのか? こんな地獄に……」

「殺す? 違うよお、アダム」

 

 レヴは首をゆっくり左右に振った。エメラルド色の瞳がランプの光を反射して淡い輝きを放つ。

 

「ギドラに召されることは、より高次の存在と一つになること。ギドラは“一つにして無数”、ギドラこそが我らの“救世主(すくいぬし)”。ギドラこそが、こうしてみんなをひとつにしてくれるんだよ。痛みも差別もなくなる世界って、素敵だと思わない?」

 

 そりゃそうだろう、死んでしまえば痛いも苦しいも無い。まるで、悪魔のような理屈だ。

 ――そう言い切ってやりたいのに。

 

「ねえ、アダム。こんなに血や臓物が散らばってても、それは通り道に過ぎないんだよ。この瞬間こそ、本当は一番幸福なんだ。意識がふっと溶けて、全身を包む痛みが消えて、光とひとつになる……」

 

 そう言ってレヴは、歓喜に満ちた笑顔でこちらを穏やかに見つめるのだった。

 床一面に飛び散る鮮血、転がる死体の山。その中心で、レヴはただ純粋な慈愛の瞳をたたえている。それが逆に、俺には底知れない不気味さに思えた。

 

「大丈夫。こんなふうに苦しんだ分だけ、魂が浄化されていくの。神の前ではみな平等、ギドラは誰であっても等しく、その涙と血をすべて抱きしめてくれる存在……ねえ、アダム。こんなに直接的な救いって、ほかに見たことある?」

 

 レヴが言っていることは、外から見れば完全に破綻したカルト思想だ。あまりに血生臭く、恐ろしい結末しか生まないやり方だ。

 だけどそれでも“彼女の中の親切心”だけは紛れもなく本物のように感じられた。それが恐ろしくて。

 

「……違う!」

 

 俺はどうしても言い返さずにいられなかった。ここで反駁しなければ、俺が俺でなくなりそうで。

 

「見ろよ、周りを! 喰い殺された人たちの死体だらけだ! サイモンとエレーナだって、あんな無惨な――」

「ううん」

 

 周りの血だまりを指しながら俺は声を張り上げたが、レヴは穏やかに首を振るだけだった。

 

「パパもママも、最期の最後はきっと幸せだったと思う。途中は苦しそうに見えたかもしれないけど、その先にはあれだけ求め焦がれた“永遠”があるもの!」

 

 両親が我が子を“神の依り代”にまで仕立て上げ、最期は我が子に操られる化け物によって食い殺される。赤の他人である俺から見ても『地獄』としか思えない末路のはずだ。

 だが今のレヴにとっては違うらしい。

 

「苦しみから解放されて、永遠に愛される場所。それこそを人は“天国”と呼ぶんだよ」

 

 むしろ高次元怪獣どもに喰われることこそが、“永遠に愛される”のだという。教義の裏付けなのか、それとも洗脳の結果なのか……。そういう理屈でしか、レヴは生きてこられなかったのだろうか。

 

「そんなはずは――」

 

 言い返そうとした瞬間、頭の奥にズキリと鋭い痛みが走る。音に例えれば、大きなベルを密室で叩かれたかのような、頭蓋を直接揺るがす耳鳴りだ。

 思考が一瞬飛んで、視界の周りがぐにゃりと歪む。熱を持った針でも刺されたみたいに脳が痛む。

 

「……あぁ、これかあ。アダムが“寂しい”理由。なるほど、そうだったんだね」

 

 耳鳴りに耐えながら顔を上げると、レヴが俺を覗き込むように微笑んでいた。その瞳にはさっきまでの純真と変わらぬ輝きがある。でも、底には得体の知れない闇がちらりと混ざって見える。

 俺の考えを“読んでいる”? そんなバカな。けれど、この奇妙な痛みは自分の頭の中を直接こじ開けられているような。

 

「どうして……!?」

 

 自分で言っていて、声が震えるのがわかる。さっきまでの戦闘とは違う冷えた恐怖が皮膚を刺し、血の匂いがさらに濃く感じられた。

 鼓膜の内側で歯車がきしむような耳鳴りが強まり、額から冷や汗が滴り落ちる。集中力が削がれ、レヴの微笑みだけが脳にへばりつく。

 

「うん、分かるよ。わたし、アダムのことを『救いたい』んだもん」

 

 レヴの甘い声が耳朶を打つ。母親が子供に囁くようなトーンだ。それがさらに不気味さを増幅させる。

 ――何を、どうやって救うっていうんだ? 自分の心の中にある“罪悪感”や“孤独”を、触れられたくないのに、どんどん抉られている。

 次の瞬間、視界が不自然なほどぐにゃりと歪んだ。血の付いた石床も、祭壇の残酷な場面も、水面に投げ込んだ絵具が溶けて広がるみたいに崩れていく。

 

 

 

 気づけば、そこは別の場所。

 石畳が割れた路地裏。むせかえるような腐敗臭が漂う細い下水溝の脇で、俺は銃を握って突っ立っていた。薄暗い早朝の空が、灰色の濁った光を落としている。

 ――思い出した。ここはかつて潜入任務で訪れた小国の町だ。

 

「アダム、これって……?」

 

 レヴの声が頭の中に直接響いた。

 そうか。これはレヴの“テレパシー”――彼女が持つ、エクシフの御子としての力なのかもしれない。

 レヴは今、俺の記憶を再現している。俺が無理にでも思い出させられているんだ。

 

「やめろ……やめてくれ……!」

 

 心の中で叫ぶが、記憶の再生は止まらない。あの夜明け前の匂いまで、そっくりそのままだ。湿気を帯びた空気、排泄物の混じった下水の腐ったような臭い、そして血の鉄臭さ。

 少年は痩せ細り、明らかに栄養状態が悪そうだった。襤褸同然の服の裾から、小さな泥まみれの足首が覗いている。足元には血だまりができていて、そこに横たわる女性――少年の母親らしい――が死んでいた。頭に銃弾の痕があり、辺りに血が散っている。

 

「……っ!」

 

 胸が苦しくなる。息が詰まって呼吸ができない。

 あの時とまったく同じだ。俺は任務で、人を殺した。ターゲットだった男を射殺した後、この親子がその場に居合わせてしまった。

 

 “目撃者は生かしておくな”

 

 非正規部隊の絶対のルール。それは軍の機密を守るための当然の措置だった。親子は何も分かっていなかったが、俺がそこにいることを見てしまった。たったそれだけで、彼らは“消されなければならない存在”になった。

 少年は泣きじゃくりながら、こちらを見上げていた。小汚れた顔中が涙まみれで、何かを訴えるように唇を震わせている。

 そいつを見て、俺は――。

 

「……ごめんよ」

 

 それだけ言って、引き金を引いた。

 銃声が腹に響く。少年の瞳から光が失われ、その体が地面に崩れ落ちるのを見ないように、俺は背を向けた。

 報告書には「ターゲット除去」とだけ書き、その子供の存在は抹消された。証拠も遺体も、全て痕跡を消された。何もなかったことにされたのだ。

 

 

 

 ……回想は、終わった。

 意識が現実に引き戻される。再び血塗れの祭壇へ。目の前にはレヴがいて、後ろには高次元怪獣どもが不気味に身をよじらせている。

 血と臓物にまみれた暗い広場。レヴの姿が焦点の合わない視界に揺れる。

 

「はーっ、はーっ、はーっ……!」

 

 俺は声にもならない吐息をこぼした。心臓が悲鳴を上げるように脈打ち、寒いのか暑いのか、全身が震えている。 血と汗の臭いが喉に絡みつき、呼吸が一瞬詰まる。

 レヴのテレパシーは、一瞬にして、俺が心の奥深くに封じ込めていたはずの記憶(トラウマ)を引きずり出したのだ。

 

「――ね? アダムの中にある“寂しさ”って、こういうことだったんだね」

 

 レヴが切なげに微笑む。細い指が、俺の頬に触れかける。俺は反射的に身を引くが、レヴは怯まない。むしろ小首をかしげて、愛おしむように瞳を細める。

 

「……ごめんよって言いながら、撃ったんだね」

 

 その声は子守唄のように優しい。優しく背中を抱きしめられているかのような錯覚すら覚える。

 思わず目を背けたくなる。何より、あの記憶は俺が心の奥底に閉じ込めて、鍵をかけていたはずのものだ。なのに簡単に引きずり出されてしまった。

 

「苦しかったよね、そんなことしたくなかったはずなのに」

 

 やめろ……やめてくれ。心の奥を穿り返すな。それは俺自身が必死に隠してきた傷だ。

 だが、レヴは柔らかな手つきで、俺の腕に触れようとする。慌てて振り払おうとしたが、俺の顔を見つめるその表情があまりに哀しげで、ほんの一瞬、動きが鈍った。

 

「アダムは悪くないよ。そうするしかなかったんだから。アダムもずっと苦しんでいた。わたし、()()()んだ。“能力が覚醒した”から。アダムがどれだけ苦しんできたか、ずっと独りだったか、伝わってきちゃうんだ」

 

 レヴの台詞には憐憫でも優越感でもなく、“共感”が滲んでいるのがわかる。汚れ仕事をしてきた俺なんかより、ずっと綺麗な瞳のままで。

 ――その優しさこそが恐ろしい。惨劇の元凶でありながら、彼女の内面にあるのは純粋さなのだ。

 

「……ねえ、アダム。外の世界は本当に幸せ? 本当はみんな、寂しいんじゃないの?」

 

 レヴの言葉が頭の中に直接入り込んでくる。そのたびに胸が締め付けられ、ひどい耳鳴りが起こる。

 軍、政府、スパイ活動――俺がいた“外の世界”は裏切りと矛盾に満ちていた。そして今でも後悔を抱えている。

 ――“レヴを救わなきゃいけない”。

 状況がここに至るまで、俺はずっとそう思っていた。レヴは、リヴァイアーサ=クラウスは、イカレた両親や教団の被害者でしかなくただ操られた哀れなカルトの二世。“哀れな被害者”だと俺は思っていた。

 ところが今、俺の目の前にいるのは救われるべき存在どころか、哀れな子羊であるこの俺を救済しようとする“聖人”だった。

 レヴは言う。

 

「……ねえ、アダムは言ってたよね。外には“車”っていうすごく速く走る鉄の箱があって、“ビル”っていうガラス張りの大きな塔がたくさんあるって」

 

 あの穏やかなコミューンの畑で、小屋で、牧場で。何も知らなかったはずのレヴが子供のように目を輝かせて外の世界の話を聞いていた光景が、ちらりと脳裏をよぎる。

 だが、レヴは微かに寂しげな笑みを浮かべた。その瞳は、深い湖の底からこちらを覗き込むような静かな光を放っている。

 

「けれど……アダムは、あれほど立派な外の世界から来たはずなのに、いつも“居場所”がないみたいに見えた。あなたの心の声を聞いていると何だか切なくて、胸がギューってなった。外の世界の本当の姿はきっと、誰もが孤独と裏切りに傷つけられる場所なんでしょうね」

 

 さっきまでの俺は“レヴを連れて逃げる”一点に固執していた。彼女をどうにかして“普通の世界”で暮らさせてやりたい、そこにこそ救いがある、と。

 けれどレヴはその“普通の世界”こそが、悲しみと矛盾に満ちた場所だと見抜いてしまったのだ。実際、俺自身がその世界の“闇”の部分を引き受けて汚れ仕事をやってきた。

 そんな俺の心から、レヴは悟ってしまったのだ。彼女がずっと夢を膨らませていた、外の世界の『本当の姿』を。

 

「“前のリヴァイアーサ”はわたしに教えてくれるの。外の世界には、もっともっと多くの人たちがいるけれど、そのぶん争いや裏切りも絶えないって。神様なんていない世界、誰もが弱い世界。だからこそ『誰もが皆、苦しんでいる』んだって。だからこそ『救い』が必要なんだ、って」

 

 前のリヴァイアーサ、と言われて思わず俺は、祭壇に横たえられたエクシフのミイラに目線が行った。

 俺とエクシフのミイラを横目に身ながらレヴは言う。

 

「エクシフの聖人だった“前のリヴァイアーサ”は、文字どおり聖人のような人だった。苦しみに満ちていて救いが無いこの現実に、奇蹟を起こせるはずの自分の手が届かないことに耐えられなかった。だから神への祈りで奇蹟を起こしたの。たとえ自分がいなくなってしまったあとでも、この世界を救うことができるように、って」

 

 エクシフの聖人、聖リヴァイアーサの不朽体。その聖なる遺体は相変わらず静かに横たえられたままだったが、だったら“今のリヴァイアーサ”に語り掛けているのはいったいどこのどいつなのだろう。

 再び俺へと向き合ったレヴは、滔々と語り続ける。

 

「だからね、アダム――わたしはアダムこそ救いたいと思ったの」

 

 ……俺を? 思わず、戸惑う。

 レヴが血溜まりを踏み越えてゆっくりと近寄り、そっと俺の腕に触れようとする。

 俺は一歩、身を引いた。レヴは少し悲しそうな顔をするが、それでも俺を責める様子はない。子供が怯えた小動物を宥めるように、再び優しく声をかける。

 

「だってアダムは、外の世界でずっと寂しかったんでしょう? それに、たくさんの辛いことを抱えて、周りに訴えたくても誰も聞いてはくれなかった……それなら、ギドラに救ってもらえばいいって思ったの」

 

 静かに伸ばされたレヴの手。それを拒絶しようとする意思とは裏腹に、俺の心の奥では“どこか解放されたい”という弱い自分が囁きはじめる。何もかも投げ出して、この優しさの中へ溺れれば、楽になれるのではないか……。

 しかし、まわりには阿鼻叫喚の現場が広がっている。助けを求めたまま絶命していった信者たちの血塗れの手足が視界の端で動かなくなっていく。これが“救い”だなんて、到底認められない。

 

「……ほら、もう大丈夫だよ。わたしが“橋”になるから。パパとママみたいに、アダムも苦しみから解き放ってあげる。そうすれば、誰も殺さなくて済むし、誰にも裏切られないんだよ」

 

 レヴの声は甘く、脳を麻痺させるように心地良い――危険なほどに。

 俺は目を閉じかける。目を開けば、無惨な死体と血の祭壇。それでも、ここに留まれば、もう孤独や罪悪感からは逃れられるかもしれない。

 その誘惑が、俺の中で渦巻く。レヴはかすかに涙を浮かべながら、俺に身を寄せてくる。

 

「アダムこそ、わたしが助けなきゃいけない“弱い子”なんだよ」

 

 弱い。そうだ、俺は弱いのかもしれない。自分が強いと信じていたが、結局はあの少年を撃ち、無かったことにして、心の奥ではずっと後悔していた。

 レヴが差し伸べる手の先で黄金の高次元怪獣、その三つ首が月の光を怪しく照り返している。

 

「怖がらなくていいんだよ。いずれはみんな同じ場所に還っていくの。ほら、こうして血を流しても、その先にはギドラが優しく抱きしめてくれる“大いなる安らぎ”が待っている」

 

 ――逃げたい。過去の罪も、これからの苦しみも、全部忘れてしまいたい。もう背負いきれない。

 そんな俺の心を見抜くかのように、レヴが微笑む。その表情は優しい。まるで純真な少女のままだ。

 ついに、レヴはごく当たり前の口調でこう言った。

 

「さあ、“一つになろう”。もう寂しさも悲しみもいらない。苦しみなんて全部、ギドラが連れて行ってくれるよ」

 

 自分の胸に手を当てて、呼吸を落ち着けようとする。だが、そうしているうちに頭は真っ白になり、喉がひどく渇いてきた。周囲の血の臭いさえ薄れていく気がする。

 ――このまま手を伸ばせば、俺は“救われる”のだろうか? レヴの華奢な手がもう一歩で届く距離。そして俺は、彼女の小さな手が届きそうな間合いで、前へ踏み出そうと――――。

 

 

 

 けれど、遠くから微かな呻き声が聞こえたような気がした。

 

 

 

 視線を巡らせれば、祭壇の周囲には惨たらしく喰い殺された信者たちの屍が散乱している。

 目に飛び込むのは、さっきまで一緒に暮らしていた男や女、老人や若者の無残な姿。それまで“外の世界”に怯え、頼るものを求めてこの教団にすがった人々だ。血に濡れた手を伸ばして助けを求める声が、聞こえたような気がした。

 ……けれど、気がしただけだ。全員、とっくのとうに死んでいる。

 そんな有様を――“彼女”は、本気で「救済」と呼んでいる。

 

 

 ……違う。こんなの、救いなんかじゃない。

 

 

 俺は唇を噛み、頭を振った。

 心のどこかでレヴの甘美な誘いを受け入れてしまいたい気持ちがうずく。これまで背負ってきた罪を全部忘れられるなら、その方が楽だろうとも。

 けれど、この阿鼻叫喚の現実を前に、俺はやはり見過ごすことができない。こんなものを“救い”と呼べるわけがない。

 こんな、いたいけな少女が手を血に染めなければならない地獄が。

 

「アダム、もう何も怖くないよ」

 

 レヴの囁きが優しく迫る。だが、その優しさがとどめの一刺しになる気がした。俺は最後の力を振り絞って、レヴの瞳を真正面から見返す。

 そこには、愛と呼ぶにはあまりに歪んだ“慈悲”があった。誰よりも無垢で、誰よりも残酷な怪物――それがいま目の前にいるレヴだ。

 俺は低い声で答えた。

 

「レヴ……俺を救いたいって、言ってくれたよな」

 

 そんな俺に、レヴは安心したように小さく頷く。

 

「うん。アダムには幸せになってほしいもん。ずっと寂しかったから」

 

 ちいさく微笑むレヴ。その金色の髪は血飛沫のせいで濡れ、先端が赤黒くなっている。それすら気にする様子はない。

 俺はゆっくりとその肩に手を伸ばし、レヴの華奢な身体を抱きしめるように身体を近づける。

 

「……ありがとうな、レヴ。俺のこと、救いたいって言ってくれて」

 

 レヴは一瞬戸惑いの表情を浮かべるが、すぐに柔らかな笑みを返そうとした。

 そのまま俺はレヴの首へ腕を回す。レヴの喉はとても華奢で、両腕で容易くホールドできた。相手は少女だとはいえ、“エクシフの御子”としての超能力がある。むやみに油断すれば返り討ちに遭うだろう。

 

「アダム……?」

 

 レヴの金色の髪から血の匂いが漂う。小柄な体が驚いたように一瞬固まる。怯えたように目を見開く、レヴの表情がちらと視界に入る。

 

「……ごめんよ」

 

 

 

 そう言って俺は、腕に力を込め始めた。

 

 

 

 少女の首筋に沿って俺の腕が喉を押し潰し、途端にレヴの顔が苦痛で歪む。細い指が俺の腕を掻きむしろうとするが、その力は思ったほど強くない。

 俺は、レヴを殺すことにした。このあまりにも優しい怪物を。

 

「ぐ、あ……がっ……!?」

 

 レヴの必死の抵抗が、首を締める俺の腕から伝わってくる。彼女はきっと、最後まで俺を信じていたのだろう。俺を“救う”ために、俺が“救われる”ように。

 だが、もう止められない。ここで引けば、再び高次元怪獣が踏み込んでくるかもしれない。そのときはもっと多くの命が喰われてしまう。

 

「アダ……む……や、め……!」

 

 あの子供を撃ったときとは違う。今度は命令なんかじゃない、俺自身の意志だ。

 俺は歯を食いしばり、全身の筋肉に渾身の力を込めてレヴを押さえつけた。小柄な体が苦悶にのたうち、吐き出しかけた呼吸が喉の奥で詰まる。爪が俺の腕を非力に掻いていくが、痛みに耐えてさらに力を込める。

 

「わた、しはっ……ただ……あな、た……を……っ!」

 

 何かを訴えようとする唇から、血と唾液が糸を引いて落ちる。俺は歯を食いしばり、さらに腕に力を込める。

 教団の被害者でしかなかった少女を、この手で殺す――想像するだけでも自己嫌悪と罪悪感で吐きそうになる。

 だがこの怪物を止めなければ、人を救うはずの“優しさ”で世界を滅ぼしかねない。

 

 

「……っ! ……っ!!」

 

 カッと目を剥いたレヴの動きが激しくなる。指が俺の腕に深く食い込んで、血を滲ませる。痛みが走るが、それでも俺は腕を緩めない。

 

「…………。」

 

 ……いったいどれだけの時間、レヴの頸を絞め続けていただろう。

 数秒か、永遠のようにも感じる。そのうちにレヴの身体から力が抜け、頭ががくりと下がった。金色の髪がだらりと垂れ、瞳から生気が失われていく。

 

「……本当に、ごめんよ」

 

 俺は最後にそう呟いて、レヴの首を締める腕をようやく緩めた。少女の身体は壊れ物の人形のように、くたりと崩れ落ちる。祭壇の上に横たえられたレヴの小さな喉には、くっきりと俺の指の痕が残っていた。もう呼吸も心音も感じられない。

 レヴの身体が崩れ落ちた、その瞬間だった。

 

「…………ッ!!」

 

 高次元怪獣の三つの首がいっせいに痙攣を起こし、空間が悲鳴を上げるようにビリビリと震え始めた。

 村の中心で支配者として顕現していたその巨体が、泡沫のようにじわじわと輪郭を崩し、金色の鱗は一瞬だけ激しい閃光を放ち──やがて黒い亀裂を纏うように歪んでいく。

 

「――――――――――――ッ……!」

 

 奇妙に途切れがちな、雷鳴のような叫び声が響き渡る。

 高次元怪獣どもが三首をもがき苦しむように振り乱し、現実と高次元のはざまを行き来するかのようにちらついているのが見えた。首と胴体を繋いでいた空間すら、膜が破れたようにばちばちと金色の火花を散らし始める。

 “依り代”であったレヴの生命が失われたことで、この世界へ繋ぎとめる鎖そのものが断ち切られたのだ。 その壮絶な反動に、高次元怪獣の絶対的な威容ですら耐えきれないようだった。

 

 金色に輝いていた巨大な翼が、ひしゃげた金箔のように剥がれ落ちる。

 そこから覗くのは、無数の糸が絡まり合ったような不気味な闇。首のうち一本がくしゃりと潰れるように消え去ると、残った二首も恐慌に陥った獣のごとく猛り狂い、空を掻きむしった。

 

 バリッ──

 

 何かが大きく砕けるような、破裂音。

 最後の力を振り絞ったかのように、高次元怪獣の身体が宙へ舞い上がるように反転し、いびつな金の閃光を撒き散らした。そしてその一部始終を呑み込むように、空間に穿たれた黒い亀裂が拡大していく。

 信者たちの怨嗟も、血の臭いも、すべてが薄い幻影へと解けるように飲み込まれ──あまりにもあっけなく、高次元怪獣の姿は消え失せていた。

 

「……終わった、のか」

 

 自分でそう呟いても、虚しく反響するだけ。

 信者たちも、俺を除く全員がことごとく命を落としたようだ。震える足取りで見回してみても、生き残っている者がいるとは思えない。

 そして俺は、再びレヴの小さな身体を見下ろした。精巧な人形のように美しかった少女は、今や呼吸を止め、冷たくなる一方だ。

 

「レヴ……」

 

 その名を呼んでも、もう返事はない。儀式は完全に破綻し、高次元怪獣の脅威は去った。

 けれど、俺は何を守れた? 一度は確かに“救われた”気がしたコミューンの温かさも、レヴの天真爛漫な笑顔も、すべて血に塗れて消えてしまった。

 それでも――何もせずに流されていたら、その血だまりに“外の世界”さえも呑まれていたかもしれない。そう思うことでしか、俺は自分を保てなかった。

 

「――本当に、ごめんよ」

 

 情けないほどにか細い声が、夜空に吸い込まれてゆく。

 静寂に包まれた村の中央広場。満月の光が、俺の腕の傷を照らす。レヴの爪が残した幾筋もの引っかき傷から血が滴る。

 

 暗い夜空を仰ぐと、そこには深い闇だけが広がっていた。

 あとには、月明かりに照らされた血の海と、俺の震える身体があるだけだった。

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