昔、鬱病が怖かった。
いや、鬱病に限った話ではない。人からまともな精神状態を奪う病気の類の全てが恐ろしかった。
私がなにより怖いもの、それは死ぬことである。きっと私に限らず、おおよそ全ての人が同じ恐怖を持っていると思う。
にもかかわらず、精神を蝕む病はその恐怖心さえをも覆し、自ら死を選ばせると言った。
私は、ある種の狂気に堕ちるのが怖いのである。今の、死を忌避するこの恐怖心を裏切ることが怖いのである。正気の私が、未来の狂気によって覆されるのがたまらなく恐ろしいのである。
だから、私は求めた。自死を否定する完全な理論を。いかなる狂気さえも捻じ伏せる、非の打ち所の無い理論を。それさえあれば、私はたとえ狂気に身を窶そうとも、正気の恐怖を裏切ることはない。
世は自死を悪とする。何か理論はないのか。自死を万人が邪とするだけの、強い理論は。
やめろ、命を無駄にするな!
そう叫んでみた。
年老いた彼は、こんな命、今さら取っておいても役に立ちませんよ、と言って弱弱しく笑った。
まだ若い彼は、生きていたら無駄じゃないの? 何も変わらないのに? と言って私を睨めつけた。
未だ幼い彼は、私がその命を惜しく思うことさえ分かっていない様子だった。
あなたがいなくなったら、悲しいだろう。私のために生きてはくれないか。
年老いた彼は、いずれいなくなるものです、早いか遅いかの違いだけですよ、と優しく私を諭した。
まだ若い彼は、どうせ会わないのに? こんな時だけ都合のいいこと言うんだね。とさらに鋭く睨んだ。
未だ幼い彼は、どうしてあなたのために僕が苦しまなくちゃいけないの? と悲しい色を浮かべた。
彼らの前で、そんな言葉は姑息でさえあれなかった。
完全な理論があるならば、それは感情論などではないだろう。自死を止める私と、自死を選ぼうとする彼とでは、感情に違いがありすぎる。
もっと理詰めの、客観的に見て正しいものでなくてはならない。
あなたがこれまで生きるために費やされた資源はどうなる? あなたはそれをちゃんと社会に返却したのか?
そう問うてみた。
年老いた彼は、もう返し終えたのですよ、と答えた
まだ若い彼は、社会に望んだわけじゃない、返す義理などない、と咆えた。
未だ幼い彼は、これ以上は無駄にしちゃうだけだから、返せなくなるから、と悲しそうに俯いた。
社会は、彼らの前であまりにも無力なのに、背負うには重すぎる。
けれど、社会は背負い方を選ばせてはくれない。
背負わない選択はくれない。
完全な理論があるならば、それは社会などという存在に頼ったものではないだろう。自死を選ぶ彼にとって、社会は関係のなくなるべきものだ。死とはそういうものだからだ。
もっと根源的に、彼らに根差したものでなくてはならない。
あなたはそれでも、今日までを生きて生き延びてきたのだろう。それはなぜだ。
そう訊いてみた。
年老いた彼も、まだ若い彼も、未だ幼い彼も、誰も答えない。
死を選ばない理由のあった日が、あなたの今までには積み重なっているはずだ。
その日々は、今日のあなたも死を選ばないでくれと思ってはいなかったのか。
その日々を、あなたは裏切るのか。
年老いた彼は、古き日には詫びねばなりません、と言った。
まだ若い彼は、その日々が今日の日を欺いたんだ、と言った。
未だ幼い彼は、だって今までは知らなかったから、と言った。
何者より死を恐れた日々は、否定しないのか。そう問えば。
誰も、否と言わず。
それでも裏切るのか。そう問えば。
その先に続く言葉はなく。
つまるところ、私が狂気に陥った時に、私を死から遠ざける唯一の動機は、今の私が感じているこの恐怖以外にはないのである。
過去の私を裏切れないと言う、狂気の中の最後の良心である。
それ以外には、何もないのである。
その日に、彼が今日の私を裏切らぬよう、私は努めなくてはならない。
その彼が、良心の揺らぎを覚えるよう、私は祈らねばならない。
何人も、今日この日までを生き抜いてきたならば、同じ恐怖を感じた日があるはずだ。
故に私は、死が恐ろしいほど怖い。
何にも増して怖い。
恐怖を感じ続けていなければならない。決して忘れないほど、強く恐怖に震えていなければならない。絶え間なく怯えていなければならない。
狂気の中でさえ、その恐怖を忘れられないうように。
思い出し続けられるように。
かつてその恐怖に怯えていた私がいたことを。
その私が、未来に生き続ける選択を託したことを。
それ以外の動機など在り得ないのだから。
楔よ、どうか私の心を穿て。深く、どれほどの時間も癒せぬほどに。
死の恐怖を、どうか強く刻み込んでくれ。
心は美しい玉である必要はない。時に、忘れてはならぬ疵を負っていなければならない。
僅かの創一つ一つに死の影を見て怯えるのだ。
癒えてしまえばなんてことのない創も、その隙間からお前を蝕む悪を呼び込むのだから。
その悪はやがて、お前を死に追いやるのだから。
刃よ、どうか私の心を抉れ。鋭く、如何なる狂気も覆い隠せぬほどに。
死に怯える私の姿を、どうか深く刻み込んでくれ。
痛みのない日々である必要ない。忘れがちなお前には、時に痛みも必要だろう。
いついかなる時も、死の影に怯えるのだ。
過ぎてしまえばなんてことのない日常も、転瞬の間に死後にすり替わることもあるのだから。
死の影は、全てに宿っているのだから。
眠ってしまえばもう目覚めないのではないかと、生まれて漸く知った死というものの恐怖に初めて怯えた幼き日を忘れない。
死の影など特別迫っていたわけではないのに、どんな最後より安らかなものであるはずなのに。
目覚めなければ目覚めぬことにも気付かぬだろうに、なのにそれでさえたまらなく恐ろしく思えた、あの純粋な恐怖を忘れてはならないのだ。
その幼き彼を、誰も裏切ってはならないのだ。
だから、どうか、どうか彼を、そして私を裏切らないでおくれと、そう願うのである。