その日、島に少女がやってきた。
少女は翼の民だった。
その翼を以て、どこからか、海を越えて来たのだと。
どこか、遠くに行きたくて。
なぜここに来たのかと訊かれて、彼女はそう言った。
でも、ちょっと疲れちゃったから、少しの間休ませて。
まさか、少しの間がこれほどの月日になるとは。
彼女に居候を許してから、長い時間が経った。
かつて孤独だった家は、仮初の同居人を得て、不釣り合いな賑わいを宿した。
けれど、それすらも過去の出来事。
不釣り合いだったはずの賑わいは当たり前のものに変わり、孤独の時間は長くつ続くものではなく、少し後の帰りによって終わることが約束されたものになった。
この家は、二人の住人のものとなった。
人が使うものは全て二つずつあって、それらには仕舞われるべき正しい場所があり、そしていずれも長く使われた痕を宿している。
時折、彼女が仕舞う場所を間違えれば、正しい場所はただ虚しく映る。かつてそこには、最初から何もなかったというのに。空しい余白にも関わらず、古くからあるものはそれを広くは使わず、その余白を守るように、壁に身を寄せている。
かつて、少女は遠くに行きたいのだと言った。
ここに来た理由はない。ただの羽休めだった。
ならなぜ、未だに彼女はここにいる?
島は閉鎖的な場所である。誰が望んだわけでもなく、ただ海があるだけで、それは容易には乗り越えられない壁を生んでいた。
風さえも噂を運んでくることはなく、ただ潮の香りが海の変化を教えてくれる。
島の外の人間など、やって来る顔見知りの商人を除いてはほとんどいない。
当然、翼の民など、見たことのある者はいなかった。
遠く、離れた地。海の遥か向こうに住むという翼の民。
島の人間でなければ、そう珍しいわけでもない隣人。
島の者は、口々の海の向こうの話を求めた。
悲しい哉、この島において彼女は、翼の民であるよりも、まず海の向こうの民であった。
その翼について聞く者は少なく、彼女よりも彼女が見聞きした世界の方が、よほど興味をそそるものだった。
その翼で、この海を越えて来たのか?
そう聞いた時、確か彼女は少し戸惑っていた。
海の向こうには何階にもなる高い建物があるとか、足の踏み場もないほど人の集まる場所があるとか、そんな彼女にとっては当たり前の景色について答えていたところに、突然違う質問が来たからだったんだろう。
意味のない僅かの沈黙の後、そうだよ、と彼女は答えてくれた。
大変だったか?
彼女は、そりゃ大変だったよ、と答えた。
行く当ても地図だってないのに、次いつ降りられるかもわからない海の上を飛んできたんだから、もうヘトヘト、と。
言葉を選んだ末に、それは大変だったな、と返す事しかしなかった。
夜だ。
海の向こうには電気というものがあって、夜も明るいのだと言う。けれど、蝋燭さえ貴重なこの島にあっては、夜は暗いものだ。
月灯りが波濤を優しく叩いて散る他には、灯りと呼べるものは多くない。時には夜光虫で海が蒼く染まることもあるが、それは日常の景色ではない。
夜は眠りの時間である。
昼間の明かりを糧に生きる人間にとって、それが自然なことのはずだろう。夜の灯りの中で醒め続けている人々の瞳は、果たして夜に何を見るのだろう。案外、今の私と変わらないものを見るのかも知れない。
現に私は今、こうして目覚めたままでいる。
目を閉じて、ただ眠りを待つ時間が、なぜか苦しくなって、眠れなかった。
待ち望んだ睡魔の訪れはいまだない。
眠くならないなら、こうして月灯りに己を聞いてもらって、時を過ごす他ない。
彼女が来る前、私は月に何を話していたのだったか。もう憶えていない。明日の漁のことだったろうか。次に商人が訪れる時のことだったろうか。
一つ言えるのは、憶えている必要のないことだったのは間違いないということだ。
そんな些末なことのために、私は眠りを避けたのか。
そんなことを思う。
同時に、今のお前が起きている理由も、別に過去の自分を言えるようなものではないだろう、とも。
なぜお前は、まだこの島にいる?
なぜ海の隔絶を受け入れ、地に足を付けたまま、私の隣で安らいでいる?
お前は私たちとは違う。
この海を越える術は、その背中にちゃんとあると言うのに。
遠くへ行きたいのではなかったのか?
彼女の寝顔は、焦燥感の欠片もなく、ただ寝具に身を預け、そこがあるべき場所だと言うように、安らかで、健やかなまま。
遠くへ行きたい、ですか。
一人の老爺は、彼女の言葉を聞いて、そう反芻した。
遠く、というのは、あなたが来たところから、ですね?
彼女は答えなかった。
空を飛ぶのが一体どの程度のことか私には分からない。けれど、当てもなく飛び続けるのは、きっと相当の心構えが必要なものだろう。
答えないのと、遠くへ行きたいと願った理由は、きっと同じなのだろう。
老爺は沈黙を肯定として、言葉を続けた。
このあたりは海ばかり。地図もなく飛び続けるには、生半可な覚悟では死に近付くだけです。
けれど、ここまでやって来たあなたなら、またいずれ飛び立つのでしょう。
ですから、遠くへ行きたいというあなたに、一つ言葉を与えましょう。
このまっさらな海で、長く生きてきた老人の言葉です。
目的地というのは、決して出発地から決めるものではありません。
目的地と言うからには、必ず、その場所にこそ意味があって、出発地はあくまで、そこへ行く道筋を決める要素に過ぎないのですから。
あなたは、どこかに行きたがっている。
遠くへ行きたいのではなく、そのどこかの近くへ。
そのどこかは、あなたにしか分かりません。
けれど、遠くへいくだけでは手に入らない場所でしょう。
良いですか?
旅は常に、どこかの近くを求めるものですよ。
話では、漁師だった頃の老爺は、行く先行く先で必ず魚を手に入れ、そして必ず島に帰ってきたのだという。
前半に関しては、私は当時を知るわけではないが、目立った怪我もなく今もこうして島で生きていることからして、後半は本当のことなのだろう。
近くへ、か。
お前が飛び立たないのは、そういう事なのか?
そう思っていいのか?
口には出さなかった。
声に出してたとしても、眠っている彼女の耳には届かないと分かっていても。
飛び立つ必要はないのだ。
けれど、その翼はいまだ役目を終えていない。
その翼には、また遠くなった時に、近くへ行くために羽ばたく仕事が残っている。
その仕事は、生を終えるその時まで、尽きることはない。
ここは、どこかの近くなんだな?
彼女の隣でそう問いかける。
もちろん彼女が答えることはない。その代わり、気だるげな寝返りを打った。
彼女の身体が、一層こちらへ近づいた。
私も寝よう。
月に話すことはなくなった。
おやすみ、と、寝ている彼女に声をかける力さえ私にはないけれど。
ただ、ここが近くである理由の中に、私がいればいいと願いながら、漸く訪れようという睡魔に、瞼を委ねた。