「ああ、来たのか」
「来るだろそりゃ。こんなメッセ聞かされたらな」
突然の来客は、ポケットからカセットテープを取り出すと、無造作に机に投げてよこした。木とプラスチックの硬い衝突音が鳴る。カセットテープに破損の形跡は見えない。
男はと言うと、天井から下げたロープに手をかけたまま、首だけを捻って来客の方を見ていた。
「今までの感謝とかそんなんを、わざわざ録音でよこすんだから、来てくれって言ってるようなもんじゃないか」
「別に、止めてほしかったわけじゃないんだが」
「いいからそこから手を離せ。どんな事情があろうと、せっかくの来客くらいちゃんと相手しろ」
男は気だるげに輪っかから手を離した。
座るように彼を促し、自分も彼と向かい合うように座った。
「あるんだろ、未練」
彼はそう切り出した。
「もちろんあるさ。それこそ、生涯をかけても解消できないようなやつが」
「ならなぜ――」
「一生をかけても解決できないからさ」
男は彼の言葉を遮った。
「未練をどうにかできるなら、そのために生き続けることもできるだろう。けれど、僕の未練はどうやったって消せそうにない。けれど、死ねば全て消える。全て終わりになる。どんな未練だって、死の直前までどれほどのものを抱えていようが、一度その境界を越えてしまえば、全て過去のものに変わる。死の一番の恐怖は、直前の未練を解く術を永久に失う事だ。しかしそれを辛いと感じるのは、意識の存在が前提にある。実際には、その未練を感じるこの意識もろとも死ぬのだから、その恐怖はただ杞憂に過ぎない、的外れの恐怖だ。このまま、決っして解けない未練の下でもがき続けるよりも、よっぽど合理的な解決方法だろう?」
男の燃えるような灰色の眼差しを、彼は冷めた目で受ける。
「死ねば全て解決する、か。随分甘えた考えだな。そんなもの、ただの仮説に過ぎないだろう」
彼の口調は、幾らかの棘を隠しもせず。
「死は、ただ肉体の終焉にすぎない。意識が肉体に帰依するものでないなら、死はその消滅を表すものではない。人の記憶が劣化するのは、それは肉体という不完全な物理に頼っているからだ。人の情動が、年月をかけて薄れていくのも、新たに覚えることがなくなるのも、肉体の耐用年数が短いからだ。死をもって制約から解放された意識に、果たして忘却があると思うか? 激しい熱情が褪せていくことがあると思うか? 意識に死が訪れる理由はない。いつ訪れぬかも分からぬ審判の時まで、その意識は全ての記憶と感情を、その時のまま、感じ続ける。生きていれば、褪せていくかも知れぬものを、或いは叶うかも知れぬものを。お前の言うように、死の一番の恐怖は、如何なる願望も叶える術を失うことだ。その苦痛を、鮮明な感覚のまま、永遠に感じ続けるのなら、生きていた方がよほどマシじゃないか?」
男は咄嗟に口を開けて、一拍遅れて声を出す。
反論が追い付かなかった。或いは、その反論に迷いがあった。
「それは、君の仮説に過ぎないだろう」
ようやく絞り出した反論も、客人を動かすには足りないようだった。
「そうだ。だがそれは、君の理屈も同じこと。死の向こう側を知り得る術などないのだから、如何なる妄言も否定することはできない。仮説に過ぎないと言って、それを肯定することを拒むのが唯一だ」
男は何も言わない。
「君が何を信じようと、それは君の自由だ。ただ、確証を持って言えることもある。一つは、今焦らなくとも、近い将来に君にも死は訪れるということ。今の時間は有限であるということ。もう一つは、君の理論にせよ、僕の理論にせよ、死後は無限の尺度で語られるということ。虚無を一種の永遠と捉えるなら。未知なる永遠のために、わざわざ有限の時を切り詰めてまで、賭けを必要はあるのか?」
男の瞳は、再び燻っている。新たな火種を求めている。
それは己の内になく、一方で、己の内にしか存在しない。しかし、男は己の内側にある火種に無知である。故に、求めている。
「今、残り時間がどれほど長く思えても、それは有限で、いつか終わりがある。その後に横たわる無限の時に比べれば、本当に僅かな時間だ」
「まるで、その先を一度見たことがあるような口ぶりだな」
「まさか。永遠の後に、こうして有限の時を生きているわけがない。で、本当に君は、今、賭けをしたいのか?」
「どの道捨てるつもりの時間だったんだ。少しくらい、悩んだところで損はないか。僅かに引き延ばしたことで心が揺らぐなら、その程度の衝動に過ぎなかったということ。ああ、少し考えてみる」
その返答に満足したのか、来客は席を立つ。
「もう、ここに用はない。帰らせてもらうよ。でも、その前に一つ。それほどまでに君を苦しめる未練って、なんだい?」
男は少し彼を睨んで、それから呆れたように視線を動かして――
「お前に言えるわけないだろう」
「だろうな」