書架棚   作:戒告

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王冠

 大理石に囲まれた、広大な空間。壁面は艶やかに磨き上げられ、柱の一つ一つには美しい彫刻が与えられている。その柱たちは、一つの道を成すように、入口から部屋の奥へと並んでいる。その連なる先に存在するのは、大きな玉座である。この空間の主、存在意義そのものと呼んでもいい。ここは玉座の間。きっと、その座に座るものをこそ、人は王と呼ぶのだろう。あの王座に座る彼をこそ、人は王と呼ぶのだろう。

 

 浅黒く隆々とした肌と肉、それらには幾らかの傷が刻まれている。かの者が幾多の苦難を乗り越えた存在であり、単なる飾りでないことを物語る。

 衣服にこそその地位を示すものは何一つない。けれど、彼がその頭上に載る冠は、紛れもなくその位を示すものである。

 

 

 

 人々は列をなし、玉座のもとを訪れる。己が窮状を王に伝えるため、宮殿から救いを得るため、一人一人跪き、その座に言葉を吐露するのである。毎日、毎日だ。

 

 今日の最後の一人が深く一礼をして玉座の間を去った。

 彼の苦し気な表情は、幾らか柔らかいものに変わっていた。

 

 静かになった王座の間に、柱の陰から一人の男が現れる。

 頭を軽く下げ、玉座に話しかける。

 

「本日は、どのような話を聞かれたのでしょうか」

 

 彼とこの男とを除いては誰もいない部屋に、声は響き、吸い込まれていく。

 

「宮殿の外には、未だ空腹に喘ぐ者が多いそうだ。宮殿の中には、足りぬものなど何もないというのに。ある村の傍を流れる川が先日氾濫し、橋が壊れてしまったと。洪水は彼らの生活を奪ったが、それを立て直すための外部への移動手段さえ制限された状態だと言う。辺境の領地では、税の取り立てを不当に行っている役人がいると告発を受けた。それが、民の余力を奪っていると言われた」

「なるほど」

 

 男は玉座よりの言葉を聞き、頷きの言葉を返す。

 玉座の上からは見えぬ伏した顔は、床面でも玉座でもなく、どこかを見つめ小さく歪めている。

 

「他には?」

「法を破るものが増えている。ある村は豊穣の加護を受けたにも関わらず、不条理な罪悪の流れにより、今飢餓が訪れている。ある街では、民と民とが互いを疑い合い、街のあるべき姿を失いかけている。世の理が乱れ、安寧が打ち破られる予兆を感じると、不安がっていた」

 

 その時、外が騒がしくなった。

 金属のぶつかり合う音、人の叫び声、猛き咆哮。それらが静かになった直後、玉座の間の扉が勢いよく開けられる。

 

「王よ、覚悟しろ!」

 

 玉座と言葉を交わしていた男の目は、驚きに見開かれる。黙する玉座の彼もまた、その沈黙の中で同じ驚きを得たのだろうか。

 王の間に押し入った侵入者は、剣をその手に、一直線に玉座へ駆け迫る。

 

「今日の日こそ、貴様の王冠が破られる日だ!」

 

 その剣は一直線に王座へ伸び、憎悪の一手はその王冠を目指す。

 剣がその首筋に届かんとするその時、男の影が、両者の間に割って入った。玉座と言葉を交わしていた男は、玉座の上の彼の盾となり、その凶刃を胸に受け、その冠に伸びる手を止めたのだ。その体は玉座の前に倒れ、破れた心臓は血の海をつくる。

 

 侵入者が困惑し、慌てて剣を引き抜こうとする時、玉座の上から彼が降り、侵入者を一蹴りした。

 侵入者の手は剣から離れ、体は床を転がる。

 

 猟犬よりも鋭い眼差しは、王冠の下の彼をしかと捉え、睨める。

 

「その王冠は貴様に相応しくない! 民を救えぬ者にその資格はない!」

 

 剣を失い牙を削がれて尚、その闘志は潰えぬ。その口がある限り、猟犬は獲物を狙い、咆え続け、噛みつけるその機を窺い続けるようだ。

 

「お前なら、その資格があると?」

「貴様など... 民を苦しめる現王など、比べるまでもない」

 

 冠の彼は、少し悩んだ後、侵入者へこう告げた。

 

「今、お前が刺し殺した者こそ、お前の憎む王だ」

 

 困惑する侵入者を置いて、彼は言葉を続ける。

 

「私は、ただの咎人にすぎぬ。罰として、この冠をつけることを課せられた、ただの罪人だ」

 

 罪人と名乗る彼は、頭を侵入者へ近付ける。

 

「それほどまでに、この冠が欲しいか」

 

 侵入者のその手が、冠に届くほど、ぐっと近づけて問う。

 

「この冠が欲しいか」

「その王冠ためにここまで来た」

 

 侵入者は王冠を奪い、その頭に戴いた。

 王冠は、今侵入者の手に。王権の証がその手に渡ったのである。侵入者は喜びに顔を綻ばせ――

 

「――!!」

 

 その顔を、苦悶に歪ませた。

 頭を押さえ、冠を押さえ、恐怖に両眼を開き、体を何度も地面に打ちつけ、やがて気を失って倒れた。力なく頭を床に置き、頭上から冠は転げ落ちた。

 

 罪人は冠を拾い上げる。

 

「王が死して尚、呪いは消えぬか。私は未だ、この冠を手放すことができないとは」

 

 忌まわしいものを見る目つきで、その冠を見つめ、徐に頭上に戴く。

 

「王冠、か。ただの呪詛の道具だと言うのに。遥か昔の王が、呪力の限りを尽くして作り上げた、民の声を聞く法具に過ぎないと言うのに」

 

 王族はクソだ! 俺たちのことなんか何にも考えちゃいない。どうせあいつらは、民なんぞ放っときゃ生えてくる雑草みたいに思ってるんだろ。クソッタレが! 苦しい苦しい苦しい! もうなにも食べてない... 死ぬ... 何もかもやつらに奪われた! 誰も守っちゃくれない。滅べばいい、何もかも! 死ねよ! 殺してやる! 生きるためだ、これも許されるだろう。

 

 聞こえてくる声の中には、もっともっと恐ろしく、意味をなさない言葉もある。聞こえてくる言葉には、苦しみの中を喘ぎもがく、民たちの叫びが無数に詰まっている。

 

 並の者では、その言葉を聞き続けて正気を保つことなどできない。

 故にあの侵入者は、冠を戴いた後、気を失ったのだ。

 

「不幸にも、私はその狂気に耐える能力を持っていた。故に王は、大罪を犯した私への罰として、この冠を手放すことのできない呪いをかけたのだ。そして、王に代わり民の声を聞き、その言葉を宮殿へ届ける任を与えた。玉座は民の声を聴き、その願いを宮殿に届けること。王の役目は宮殿の中より、その願いに答えを与えること。両者が必ずしも同じである必要はない」

 

 故に彼は、民の目に映る唯一の王であると当時に、宮殿に存在する王ではない。

 

 廊下から、兵の駆けてくる音がする。

 

「申し訳ありません、我々がついていながら...!!」

 

 玉座の間に入るなり、兵の一人が叫ぶ。

 冠の下の彼が無事であることを見て、慌てて下げた顔には幾らかの安堵の色が見えた。

 

「侵入者はそこに倒れている。私は無事だ。けれど、大きな犠牲を払った。その者は、私の代わりに刃を受け死んだのだ。その死は、もう一つの王の死にも等しいと言える。命を賭して私を庇ったその行為を称えることも併せ、今までの王にしてきたような葬儀を、この者の死にも与えるように」

 

 そうして彼は、再び玉座に座った。

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