書架棚   作:戒告

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水仙一輪

 なんときれいな赤ん坊だろう。

 

 透き通るように白い肌は、未だ汚れを知らず、疵を知らず。滑らかな象牙のように、柔らかな丸みを帯びる。頬は果実酒を零したように赤みが差し、それは恥じらいのようにも恋心のようにも見せる。

 幼子が一人、けれど涙を湛えもせず、その顔立ちをよく見せている。丸く多肉植物のようにぷっくりとした指先は、宙と遊んでいる。

 柔らかな芝草の上で、赤ん坊は裸体を晒している。白の宝玉も惜しげもなく見せるように。

 ああ、男の子か。

 

 ふと目が合う。

 

 いや、合った気がした。たとえそれが錯覚でも、男はその姿に釘付けになった。おおよそ、生まれて間もない乳児に感じるべきでない感想が、数多湧き上がっては混沌の渦を成す。およそ、異性を愛する男性が、赤ん坊とはいえ同じ男性に感じるべきでない情動が、胸を突いて心臓を搔き乱す。初恋よりも暴力的なまでの衝撃が、旋風のように胸を吹き荒れ、息を止める。

 

 理性がようやくその感想を、あるべきところに収めていった。風は止んだ。

 

 この子は、将来とても美しくなるだろう。そして、多くの者を虜にする。

 

 こんな美しい赤ん坊を、一体誰が捨てたのだろう? けれど、捨てるとしたら、その気持ちは理解できないものではないだろう。

 その美しさが故に。この子にまつわる全ては、やがてその言葉だけで語られるだろう。その始まりの一つがこれだったのかも知れないと、男は思った。

 

 ここに置いていくわけにはいかない。

 誰が育てるのか、それは自分一人で決めない方が良いだろう。とにかく、連れて行かなければ。

 男は赤ん坊を抱え、歩き出す。

 

 男が、赤ん坊の真相を知る由はない。

 この美しい赤ん坊が、ある男が乱暴を働いた結果であるなどと、思いもよらない。後に、その犯人は河の神ケピソス、そして母親は水の妖精イリオペと語られる。

 

 赤ん坊はナルキッソスと名付けられた。

 

 

 

 

 

 赤ん坊はやがて青年へと育つ。

 幼少の頃の特性は、成長とともに変化する。ある一部はよりその特性を強め、ある一部は失われる。時に、その連続性に疑いの目が向けられるほどに変容することさえある。

 

 しかし、ナルキッソスは青年になろうとも、あの日の美しさを損なうことはなかった。むしろ、成長を経てその美しさを一層強めた。幼児の頃の、あの決して老いを予感させぬ生命の輝きそのままに、大人びた新たな魅力をその身に宿したのである。かつて大理石のように滑らかだった乳白色の皮膚に丸く包まれていた肢体は、代わりにしなやかな筋肉を得た。余分な肉は削がれ、そこには名匠の手による彫刻のような骨格の美しさが露出し始めている。新たな美しさを得たと言ったが、その実は、生来有していながら表面化していなかったものが、今雪融けの時に現れ始めたに過ぎないのかも知れない。

 

 彼に眼を向ければ、その美しさに息を吸うのも忘れ、見惚れてしまう。道を歩けば、彼の気配に振り返る人が必ずいる。美の気配は必ず人の心に響くからだ。彼の歩く先に惹かれ、一歩踏み出したときに、漸く自らが何をしていたのかを思い出す。けれど、振り返らない人もいる。僅かでも彼を視界に入れてしまえば、彼に見惚れてしまうことを分かっているからだ。拾われて、村に来てすぐの頃、その顔と肉体に幼さの多く残っていた頃、彼は多くの人間の視線を捕まえていたが、今彼に向けられる視線は、わざとらしく少ないものである。その理由は、彼が人々の視線を思うまま引きつけていた頃と、何も変わっていない。

 

 けれど、変わったこともある。彼が成長し、ある適齢期を迎えたことで、彼はただ鑑賞するべき美しさ、庇護の対象から、恋の対象へとその性質を転じたことである。

 

 

「僕の美しさを、君が一人占めしたいって?」

「そんなつもりじゃ...!!」

「でも君は、僕が恋の眼差しを向けられるたびに、無関心ではいられないだろ」

「......」

 

 

「君が僕と釣り合うと言うのかい?」

「そんなこと思ってないよ、私はただ気持ちを...」

「じゃあ、用が済んだなら帰れ。邪魔だから」

「...うん、ごめん」

 

 

「正気か?」

「ああ、僕は本気なんだ!」

「男を好きになるなんて理解できないね。無駄だよ」

「それでも俺は、君のことが...!!」

「気持ち悪い。触るな」

 

 

 彼の傍に立ち続けられる者はいなかった。

 

 

「これ以上、何度も言わせるな」

「俺は、君の近くにいられるだけでいい」

「嘘つくな、下心が透けてるんだよ。気持ち悪いんだよ」

 

 

 何人も、何度彼に想いを告げようとも、その傍に立ち続けられる者はいなかった。

 

 

 美しいのは外見だけ。

 その妖艶な皮の下は、ひたすらに傲慢な心が隠されている。

 あの男は、己の美しさに溺れている。他人のそれが、己に及ばないことを、よく理解した気でいる。自分より美しくないなら、目を向ける価値さえないと。あの男は、鏡の自分さえ知らないのに。

 あの男に、一度でも恋を抱いた俺が愚かだった。あの男の内側には、愛すべき人はいなかった。

 俺だけが愚者であるのには耐えられない。あの男もまた、愚かで愚かで愚かな男だと、そうなのだと。

 

 しかし、しかし、俺は二度と、あの美しい男に恋をできない。あの美しい姿でなければ、俺は誰かを愛することなどできない。あの美しさを愛することができない。そんな人生を、どう生きていけという!

 この呪いは、俺がかけたわけじゃない。俺の些細な真面目さがそうさせたんじゃない。あの男が、よりにもよってあの男が、その姿で生まれ、その心で生まれ、あの男が、この心に呪詛をかけたのだ。あの男が、俺から恋を奪った!

 

 なら俺も呪う。俺は二度と恋のできない絶望を知った。あの男には、決して叶わぬ恋が訪れればいい。

 

 俺はもう、生きていなくていい。ただ、どうか、この呪いの叶うように。

 

 

 

 

 

 ある日ナルキッソスは森へ狩りに出た。

 美しさは人に限るものではないのだろうか。人でなくとも彼に魅せられてしまうのだろうか。そのせいか、彼の狩りは大抵上手くいった。

 その美しさは動物さえをも殺すと言うのか。

 

 そんなナルキッソスを、影から見ている者がいた。エコーだ。彼女もまた、彼に魅せられた一人。彼女は深く魅せられて、苦しいほど恋焦がれ。けれど、彼女は多くの者とは違った。彼女は、自由に想いを告げる術を持たない。

 

 その昔、エコーは活発な少女だった。誰よりも、お喋りが得意な少女だった。彼女は給仕として働いていた。

 主人は妻のいる身でありながら、多くの給仕と関係を持っていた。彼らが夫人によって咎められることのないよう、得意のお喋りで以て夫人を引き留めておくのがエコーの役割だった。

 それに気づいた時、夫人は激怒した。その罰は彼女の身体に残り、その時の苦痛は彼女の心にさえ傷跡を残した。彼女は自らのお喋りに、恐怖を抱くようになってしまった。

 今の彼女は、その恐怖故に、他人の言葉を少し返すことしかできない。自ら言葉を紡ぐことのできない彼女は、借り物の言葉がなければ、話す事さえできないのだった。

 

 だから、彼女は時折森に訪れるこの青年に心焦がれながら、決して声をかけることができないのだ。できることと言えば、こうして木の陰から彼のことを見つめることだけだった。

 

 不意に、彼がこちらを向いた。息を呑んで、咄嗟に木の陰に身を隠す。その視線が、彼女の両眼を捉えたような気がした。

 

「そこに、誰がいるのかい?」

 

 初めて聞く彼の声に、エコーは震えた。あの人は、その姿だけでなく、その声まで美しいの?

 けれど、エコーを激しく揺り動かしたのはそれだけでない。あの人が、私に声をかけてくれた!

 

 彼女はぎこちない喉を震わせて、慣れない音を絞り出した。彼女の声が震えていたのは、興奮だけではない。

 

「い..."いる"!」

 

 彼の言葉を借りて、初めてエコーは自分の声を彼に届けた。

 

「いるならこっちにおいで!」

「"いるならこっちにおいで!"」

 

 私は今、あの人と会話している!

 その喜びだけで、エコーは満足だった。人と会話することさえままならない彼女にとって、形だけでも、たとえそれが中身のないものであっても、彼と会話している気になれるだけで、彼女の喜びは胸を切り裂くほど高まるのだった。

 

 けれど、ナルキッソスにとっては、こっちにおいでと言いながらその姿を見せないのは、いささか不自然だった。彼がどれほど辺りを見回しても、声の主の姿は見えない。

 からかっているのか? この僕を?

 

「なんで逃げるの?」

「"なんで逃げるの?"」

 

 このまま隠れてはいられないかも知れない。その不可避な事態は、むしろ彼女の胸をさらに高鳴らせた。

 

「会いたいよ」

「"会いたいよ"」

 

 彼女の耳はその言葉に蕩けた。次いで同じ言葉を返す時、すり抜けていくその言葉は、彼女の唇をくすぐった。

 悩み竦む脚は、まだ震えている。けれど、一歩、また一歩と、木々を抜けて光の方へ。彼がそう言うのなら。私がそう言ったのなら。一歩は歩みとなり、歩みはやがて駆け始める。

 恐怖も迷いも、すべては少しずつ脱げていく。駆けていくとともに、彼女の瞳は恋する乙女のそれに変わる。乙女の頬は果実を零したように紅く色付いて、瞳は潤み、涙を予感させる。

 

 エコーはその体に手を伸ばす。その両手で、彼の身体を捉えようと、その滑らかな首筋に、腕を巻きつけようと。

 

 突然現れた少女の姿に、一瞬驚いたナルキッソスの瞳は、すぐさま冷めて彼女を睨み、その手を払いのけた。触るな! と鋭く声を荒げて。

 

「君に触れたいなんて、死んだって思わない」

 

 君に触れたい...。

 そう小さく返すエコーの声は、弱く消える。指先は諦めきれずに、彼の胸元を指したまま。腕を降ろす時、或いは伸ばす時をただ待っている。

 

「いっそ死んでやろうか?」

 

 エコーの彼に向ける眼差しは揺れていた。それは迷いの揺らぎである。彼を見つめ続けるべきか否か。逃げるべきか否か。

 涙が頬を伝い、エコーは逃げた。泣いている顔を、彼に見せてはいけないと思った。泣いていなくても、きっとそうだと思った。

 彼の視線がまだ背中に刺さっている。貫いて、何度も、何度も刺してくる。

 もっと森の奥へ。けれど、いくら木々の奥へと逃げ込んでも、まだ彼が、まだ。

 

 

 ナルキッソスは森へ消える彼女をぼんやりと見ていた。彼女の姿が木々で隠されても、なお彼女の消えていったあたりを見つめていた。長く見ていても、何も変わらない景色。彼は少し視線を左右へ広げたが、それでも何も変わらなかった。木々は風に揺れ、草は静かに騒めくだけ。

 ナルキッソスはやがて見つめるのをやめ、狩りに戻ることにした。

 

 

 彼女は岩窟へ辿り着き、漸く足を止めた。脚は今も震えている。息は、涙と息切れで細く震えるように、喘ぐ。もう何もない。倒れてしまえばいい。けれど、彼女はなお立ったまま、奥へと進んでいく。

 岩窟のその陰で、その奥で、一人きりになっても、涙が止まらない。悲しみは尽きることを知らず、やがて涙は彼女そのものから生み出され、彼女の生きる糧さえ流れ出した。彼女は弱っていった。

 日の差さぬ洞窟の中では、もはや何者も時間の流れを知らない。本当は一瞬だったのかも知れない。これほど長く、悲しみが続くわけがないから。

 けれど時は流れる。どれほど短くとも、どれほど長くとも。彼女の身体は確かに痩せ細っていっていた。骨のような体には、もはや彼女が自身を名乗るための、あのお喋りな明るさの影など、もうどこにもなかった。

 

 

 

 

 

 その日の彼は、いつになく、喉の渇きを覚えていた。水を求めて歩き、やがて池にたどり着いた。彼は水面に唇を寄せる。風のない、穏やかな日。

 彼の瞳が、閉じたままならよかった。喉の渇きと水の気配だけを感じて、瞼を開くことがなければよかった。

 

 彼の瞳には、一人の青年が映った。

 宝石を惜しげもなく砕き散りばめたような、丸く円を描く虹彩。白濁のミルクの海がそれを囲む。その外には、生まれてから時が経ち、表面に僅かな乱れさえもなくなった、白亜の淡い象牙のような、乳白色の肌が広がっている。

 

 ナルキッソスは、うんと近付けた顔を水面から少し引き離し、その全景を求めた。

 

 彫像のように滑らかな隆起を持った首筋から、肉体は服の下へと伸びる。石と違って、その筋肉は滑らかに動き、服を揺らす。緊張した、浅い息遣いが、服の胸元がゆっくりと動く様から分かる。

 

 気付けば、彼の頬は赤く色付いている。瞳は切なく潤んでいる。曇りなく白く澄んでいた瞳は、慣れない涙に赤く血を滾らせて、浅かった呼吸は、喘ぐのを無理やり隠すように小刻みに震えながら。

 

 無意識に、その顔へ手を伸ばす。震えているその頬に、手を当ててあげたくて。

 

 彼もまた、その手を求めるように、ナルキッソスの差し出した手に視線を落として。少しずつ近くに来るその手を見つめている。

 

 指先に冷たい感触が走る。彼の姿がぼやけ、光の散乱が、その奥へ彼の姿を隠してしまう。慌てて彼を捕まえようと腕を伸ばせば、一層眩い白の光の粒が、彼を覆ってしまうのだ。だから、仕方なく腕を引っ込めるほかなかった。腕を胸の前で曲げ、衝動を堪えて待つうちに、光は少しずつ落ち着きを取り戻して、彼の姿が現れてくる。

 祈るような、不安そうな瞳に、目が合った瞬間に、明るい光が灯るのだ。安堵と絶望の入り混じる涙が、その瞳を潤ませるのだ。そんな目で見つめられれば、また手を伸ばしてしまう。それをすれば、再び、彼の世界を乱してしまうのに。だから、堪えなければならないのに、衝動は止め処なく押し寄せる。

 

 彼の視線が、僕の目を、僕の手を、必死に見つめているんだ。

 届かせなきゃいけない。僕だって触れたいのに。その度に、たくさんの光が、たくさんの揺らぎが、僕たちの邪魔をする。

 

 果たしてナルキッソスは何度手を伸ばしただろう。彼は何度その手を待ち望んだだろう。やがて彼はその無意味さに気付き、奇跡は起こり得ないと悟り、力なくその手を地面に置いた。その両手は、向こう側へと乗り出す上半身を支えるため。

 けれど、ナルキッソスは今もなお焦燥感に駆られ続けている。手の疼きは、未だ消えていない。

 

 僕の恋心が分かる? 分かるんだろう? なのに僕は、君のその手の温もりさえまだ知らない。このまま、僕を一人にしないよね? ここから、まだ離れないでいてくれるよね?

 

 ああ、ああもちろんだ。

 

 そんな目で見なくったって、君の気持ちは痛いほど分かる。僕だって、心臓のあたりがどうしても苦しいんだ。

 

 ナルキッソスは、震える表情で頷き返すしかできなかった。なんとかするから。そう言えればよかった。言ったとしても虚しいだけの嘘を、どうしても零すことができなかった。

 なんとかして、彼に触れる手立てを、必死に考え続けた。湖畔に座ったまま、土に手をついたまま、憔悴しきった顔で、口で浅く息をしながら、ひたすら彼を見つめながら、けれど答えが見つかることはない。

 

 彼の向こう側の景色が暗くなり、ぼんやりと、彼の白い肌が淡く蛍のように光る時がある。ナルキッソスは、それが夜の訪れであったことを知らない。

 手を伸ばしていないのに、彼の姿がほとんど見えなくなる時がある。朧げな彼が、不安そうに見つめる日。ナルキッソスは、それが新月の夜であったことを知らない。

 

 繰り返される昼夜の数多、ナルキッソスは弱っていった。かつて艶やかだった無縫の肌は、しわがれ、渇き、ひび割れていた。名匠の描いた筋肉は、余すことなく萎れ、失われていた。思考は鈍り、もはや手立てを考える力などない。枯れ枝のような体で、なおも彼を見つめているだけ。

 

「なあ森の木々よ、君たちなら見たことがあるのか? 数々の逢瀬を見届けてきた君たちなら、長い年月を過ごしてきた君たちなら、見たことがあるというのか? 恋のためにここまでやつれはてた誰かを、他に知っているのかい...?」

 

 このまま、ここにいては死んでしまう。今離れないと。僕が弱っていくのが分かる。彼が枯れていくのが見える。彼も死んでしまう。離れないと。

 彼を置いて?

 

 誰も愛してこなかった、ナルキッソスは己の美しさだけを信じていた。けれど、彼の自己愛は、今彼を生かすには足りない。今生の一手を取らせるには足りない。そしてそれは、今の彼の一番ではなかった。

 

 彼を置いてなんてあり得るものか。彼をこれ以上一人にするものか。彼にこれ以上孤独を味わわせるものか。彼にこの手の温度を教えることもなく、ここを離れられるものか。

 

「もし、僕が僕でなかったら、どれほど良かったか。愛するものが近すぎれば、温めてやることさえできない。恋の相手が遠ければよかったのになんて思うのは、世界で僕だけだろう。そしたら、君を慰めてあげられるのに」

 

 

 

 

 

 エコーは湖畔に青年の姿を見つけた。

 やつれきって、もはや人の姿とも言えないような体の彼女は、その日彷徨うように森を歩き、たまたまこの湖にたどり着いた。

 

 みすぼらしい骨のような青年。肉を失えば、その姿は全く別のようになる。それでも、エコーには分かった。あれはナルキッソスだ。

 

 彼は、ただ湖面を見つめ、吐息をもらす。

 

「ああ...」

 

 彼はとても静かに居続けている。

 

「"ああ"」

 

 ナルキッソスは腕を地面につき直した。水面に身を乗り出して、次の言葉を落とす。

 

「愛してるんだ、心の底から」

「......"愛してる"」

 

「僕もだよ」

「"僕も"」

 

 ナルキッソスの口はもう一度だけ動いた。けれど、その声がエコーの耳に届くことはなかった。エコーはその言葉を、返すことができなかった。

 

 

 

 

 

「そうか、君はこんな声だったか」

 

 ナルキッソスは、少しばかり、視線を落として呟いた。

 

 もう、終わりにしよう。迷いの時は終わりだ。

 これ以上、君が一人でいなくて済むように。君に初めての温もりを、僕が与えるから。僕が、彼を抱きしめてやらなくてはいけない。

 

 ナルキッソスは、ずっと支えにしていた左手さえももろともに広げ、彼の方へ体を傾けていく。

 彼もまた、仰向けに倒れて、ナルキッソスに応えるようにその両手を広げた。小さな、小さな一言とともに。

 

 

 

 

 

 エコーは小さく息を呑んだ。微かな飛沫とともに水面下に消える彼の姿を、長い長い一瞬を、見つめていた。

 

 そして告げるのである。

 

「"さようなら"」

 

 

 

 

 彼の消えた湖畔には、一輪の花が咲いた。美しい花だ。

 その花は、後に彼の名をとって、ナーシサ(水仙)スと呼ばれるようになった。

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