檻が壊れている。天井近くの採光用の小さな鉄格子の、縦に刺された鉄棒の部分。それが二本折れている。生まれた時からずっと。
それが”壊れている”という状態なのだと知ったのは、物心がついてしばらく経ってからのことだった。世界は壁と檻でできていて、それに囲われた内側だけが赦された空間だった。鉄棒が折れていることが、”檻から出られる”という状態を作り出しているということさえ、気付かなかった。壊れていても、檻は檻だった。そう教えられたから。みんながそうしているから。
ある時、壁から小石がぽろぽろと剥がれ落ちていることに気が付いた。何という気もなしに、その小石で壁に落書きをしようと思った。ひっかいて痕を残せそうだと思った。
石を当て、いざ線を引こうとしたときに、力を加えた部分からばらばらと勢いよく壁が剥がれ落ちた。壁はこの方法で線を引くのには適さない。だから、床に落書きした。
絵を描いたことなどない。見たこともない。絵と言うものを知らない。線を引いて、形になって、それが何かに似ているのに気付いて初めて、絵と言うものを知った。さらに線を足すと、”母”の顔になった。”母”は自分の顔を知らない。”母”に似ていると言ったら、拙い落書きとどの程度で似ているのかわからず、顔をしかめた。”父”に言ったら、似てないと言われた。”母”はどこかほっとしたようだった。
その時は、壁ただ落書きに適さないと思っただけだった。しかし、成長するにつれ、壁に穴をあけられたら、という考えを思いついた。そして、壁が脆いことを思い出した。
それでも檻は檻だった。
教えられたままの、みんなと同じ、檻だった。
このままここにいても、死を待つだけなのに。
成熟されば屠殺される。例外は”父”と”母”だけ。偶然にもその役に空席が出来て、幸運にもその役に選ばれなければ、必ず同じ結末を迎える。
なぜ逃げないのか、と”父”に聞いた。逃げるのは不可能じゃない。確実な死から逃れる方法がそこにあるのに、なぜ誰もそうしないのかと。
”父”は答えてくれた。自分たちは劣等種だからだと。この檻の中でなければ、ほとんどは成熟するまで生きることすら叶わない。この檻の外に出ることで、天寿を全うできる者もいるだろう。けれど、それはほんの僅かな数に過ぎない。子孫を繋ぐことなど不可能だ。
この檻は、最大値でなく平均値を優先した、契約そのものだ。確実に生きるために、自分たちが選んだものだ。この檻の中にいることを許される限り、病気で死ぬことはない。何かに襲われることもない。決して快適ではないかも知れないが、生存に最も適した環境には違いない。
お前もまた、檻の外で生まれていたら、そんな疑問を抱けるほどには成長できなかっただろう。
”父”の言葉に納得したふりをした。
朝、目が覚める度、あの壊れた鉄格子が目に入る。立ち上がるために壁に頼る度、その脆さを手のひらで感じてしまう。
鉄格子は高い。けれど、頑張れば届かないというほどでもない。
夜、眠ろうとする度、僅かな月灯りが壊れた鉄格子の影を映しだす。静けさの中で目をつぶる度、壁から落ちた欠片が、床に当たる音が耳に残る。
鉄格子は小さい。けれど、今の自分の身体なら通れないというほどでもない。
もう、目を離せない。
ある日の”母”の点呼の時間、一人足りなかった。
いなくなったのは、少し前に”父”に変わった質問をしていた子だった。
檻の外へ逃げたのだろうか。
そうだとすれば、果たしてどれほど生きられるだろうか。
わずらわしい体毛はほとんどなく、うっとうしい小骨もない。適度に運動を強いられてきて、過剰に食料を与えられてきた。
とても食べやすい体で、果たしてどこまで行けるだろうか。
そもそも、檻の外には.――。いや、その言うまでもないか。