「…勇者よ、お前は何を相手にしているのか、理解していないのだ」
魔物を統べるその大王は、満身創痍の勇者に優しく語りかける。勇者は膝をつき、肩で息だけしている。
「勇者よ、世界は進歩するものだ。決して停滞は許されない。世界はそういうものだからだ」
魔王はため息をついた。疲れ切ったため息を。
「そして勇者よ、進歩は淘汰のなかでしか生まれ得ないのだ。残念なことに、それは生き残っていくために避けることのできない代価なのだ。」
魔王はゆっくりと玉座に座る。理由は異なるかも知れないが、疲れてしまったのは魔王も同じだった。
「貴様と我々と、姿は殆ど変わらない。2本の足で立ち、尻尾はなく、指は同じく5本。肌の色こそ貴様から見れば気味の悪いだろう青色をしているが、血は同じ真っ赤な色をしている」
力ない勇者の手と己の手とを重ねるように広げ、魔王の話は続く。
「馬とロバでさえ子を作る。彼らは種は違うがよく似ていて、だからこそ時に、その間に子をもうける。しかし、我々とお前たちとの間に子が生まれることはない。これほどまでに似ているにも拘らず。勇者よ、何故だかわかるか?」
勇者は答えない。答えられるはずがない、この人間には。
「それは、我々と貴様たちとは、捕食者と被食者とであるからだ。その鎖だけが我々と貴様たちとを繋いでいるのだ」
「被食者などと言うな。俺たちは、家畜じゃない。喰われるために生まれてくるわけじゃない」
「…自分で言っておるではないか。被食者の前で喰われまいとすればこそ、淘汰は起こるのだ。喰われまいと抗う被食者の前で初めて、捕食者の進歩は起こるのだ。これが摂理だ。この世の理の外からやって来た貴様には、すぐには受け入れられないかも知れないが」
大きく見開かれた勇者の目は、なぜお前がそれを、と強く訴えるものであった。
「貴様の世の理では、淘汰の摂理は失われていたのだろう。思い返して見るがいい。貴様の世は衰え始めていなかったか? 滅びの気配を感じてはいなかったか? それが、淘汰から弾き出せれた者たちの辿る、必然の運命だ。貴様は愛する者の子孫たちに、滅びの運命を握らせたいのか? 違うだろう。貴様がどのような選択をしようと、運命の知るところではない。私がいかなる抵抗をしようとも、それもまた運命の知るところではない。摂理は変わらず流れ続けるだろう。さあ、剣を取れ勇者よ。もう疲れは取れただろう? 貴様が選ぶべき道を選ぶがいい。私は知っている。摂理は変わらず続くのだ」
魔王は目を閉じた。肩の力を抜き、眠ろうとするかのように無防備に座っている。
勇者は残された僅かな力で剣を持ち、情けない叫び声とともに魔王へとそれを振り下ろした。
同じ赤い血が、飛沫となって飛び散った。
さて、晴れて魔王は死んだ。魔物の脅威は永劫失われたのだ。
勇者は愛する人のもとへ帰った。愛する人の命が魔物によって奪われることは、もうない。安らかで穏やかな時間へ、勇者は帰った。
愛する人が、自分の生還を喜んで笑顔になっている。それでめでたしめでたし。そうなれば良かった。
喜びのままに抱き合った。
腕と胸と、すべての肌で感じる、その柔らかな肉感。キメの細かい肌の下に、滑らかな脂を含んだ肉の存在を、どうしても意識してしまう。
気付けば噛んでいた。はっとして気付いても、嚙み千切りたい衝動を止めることはできなかった。犬歯の間を肉の筋が引っかかり、生ぬるい血の温度が舌の上にぬるく広がる。
男は慌てて彼女から離れ、腰を抜かして倒れた。彼女を喰らおうとした事実に恐怖したわけではない。それを美味なるものなどと感じる己に慄いてしまったのだ。普通なら、その事実にさえ絶望しただろうに、彼はもはや、そんな倒錯に驚くような人間味を失ってしまっていた。
よろめくように家から出る。怪訝そうな顔の隣人たちが見える。隣人? 肉塊だろう?
よだれが出るほどの無防備な四肢に、むしろ嗚咽さえ覚えながら、勇者は逃げる。青く染まり行く指先を、足先を、腕を、腹を、脚を、決して見まいとしながら走る。森の奥へ、人の及ばざる地へ。
それが摂理だよ。
そう言ってくれる者はいない。
けれど勇者はそれに敗北したのだ。
それで、かの魔王の玉座に青くなって座っている。