人は、誰かが別の人に愛を注ぎ始めた時、自分に注がれる愛が減ってしまうのではないか、と怖がる。故に、ライバルとなるその別な誰かを敵視し、攻撃することさえある。そうして、あなたの醜い一面が露わとなり、皮肉にもあなたの愚かな振る舞いによって、本当に愛を失ってしまうことさえある。
ああ、本当に愚かだ。愛とは、与えられて初めて存在し始めるものではない。愛とは、受け取ったとあなたがそう思って初めて存在するものだ。一人の人間が与えられる愛の総量は、決して有限ではない。どれほど受け手が増えようとも、その一人一人が愛を実感し続ける限り、愛の総量は際限なく増えてゆける。
愛は、受け手によって決まるものだ。
時に愛は、最高のスパイスと呼ばれる。最高のスパイスと呼ばれるものには、他に空腹がある。
空腹は、食べられるものならどんなものであっても美味しいと思わせくれる。最高の一品にまでは変えられないにしても、普段ならとても食べられないようなものでも、空腹は食べられるようにしてくれる。それは、空腹が肉体に直接影響を与えているからだ。
一方で、愛にそこまでの力はない。不味いものは不味いままである。けれど、美味しい食事を最高の一品には変えてくれる。それは、愛が直接働きかけてくるものではないことを示唆している。
愛情をこれでもかと込めた食事と、それを隅から隅まで再現した食事。その二つを区別できるだろうか? まさに味は同じである。違いは愛が込められているか否か。食材の切り方から火の通り具合の一つ一つまで、何もかも同じであったなら、きっと何も違いが分からないだろう。料理そのものに込められる愛は、全て技術に還元できてしまう。
けれど、それでは説明しきれない愛の作用がある、と私も思う。
既にそれが何であるか、答えは出ている。その愛は、料理そのものに含まれているわけではない。愛は常に受け手に委ねられている。
料理を美味しくしているその愛は、君が愛を感じていることそのものである。君が感じているのは、日常の中にある愛の文脈である。その文脈があってこそ、その料理の愛に”気付く”ことができる。
料理に愛を込めるだけではまるで足りない。それだけでは愛に気付いてはもらえない。日常からの端々に、愛を注いでいなければ、そうやって愛の文脈を作り上げなければ、そのスパイスは機能しないのである。
その文脈があれば、たとえあなたは調理した料理でなくても、そのスパイスはきっとよい仕事をしてくれる。その文脈の中にいることこそが全てだから。