書架棚   作:戒告

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未知

「人は目でモノを見るよね。まあ人に限った話じゃないけど」

 

 彼の語り出しはいつも突然だ。文脈なく私の世界に浮上する。

 いや、彼の脳内には相応の文脈があるのだろう。けれど、その文脈は何本も幾重にも彼の中を巡っているのに、私の知り得る彼の文脈はあまりにも少ない。私と彼とが何をしていようと、それは彼の数多ある文脈の一つに過ぎない。

 

「そうだね。目を見るための道具だから。見るのは目の役割だから。当然?」

 

 我ながら無難以外の何物でもない返しだ。いや、無難を通りこして中身がない。まあ、相槌みたいなものだ。私が、彼の話を聞くよという合図。彼の文脈を壊さなければなんだっていい。

 

「見るときに、君は何を意識する? それがなんであるか、君が理解する前の段階で」

「うーん、それはやっぱり、色と形、じゃないかな」

 

 無難な答えを口にする。それ以上を彼は必要としない。私にも分からない。たとえそれ以上の答えを私が言ったとしても彼は嫌がらないだろうし、喜んでくれそうな気もするが、彼が導いてくれるのに甘えて、私は分からないままでいる。

 

 ほら、彼の瞳が輝きだして――

 

「色と、そして形。形って、見えるのかい?」

 

 こんなことを言うのだから。

 

「君の答えは何も間違っていない。まあ、質感が抜けているというのはあるけれど。それらはモノを判別する重要な手掛かりだし、視覚から得られるのはそれだけ。でも、形は目が視ているものじゃないね。目が知るのは色の配置だけ」

 

 

 

 

 

 

 目が視ているのは、色の配置だけ。両眼があればその奥行きを知ることもできるだろう。けれど、形は目が知るものじゃない。色の配置を、君の頭が整理して、形に落とし込んでいるだけだ。

 丸や三角や四角。単純な形の組み合わせに落とし込んでいく。そうやって色の配置に輪郭をつけていくんだ。それは言葉や概念を知った者だけができること。それは特別な能力だけど、ある種の足枷でもある。

 脳の機能が制限されたある者は、世界に潜むフラクタルを認識することができるようになったと言う。いや、この言い方ではよくない。まるで彼が僕たちと同じようにも世界を見ることができるかのようだ。彼は、世界がフラクタルにしか見えなくなってしまったというんだ。

 

 脳の機能が制限されて、と言ったね。彼の制限された機能は、そのフラクタルを整理して見る機能だったんだろう。脳にイレギュラーが生じて、突然フラクタルを見出したわけじゃない。彼が見ている世界は、僕たちもどこかの段階で見ている。それを整理して、形に名前を付けてしまっているだけだ。

 

 聞けば人間は、物体を4個くらいまでしか認識できないらしい。それが十も百も分かるのは言葉のおかげだと言う。じゃあ、言葉も知らない赤ん坊には、星型はどんな風に見えているんだろう? あれには5つも角がある。

 赤ん坊には分からないだろう、それが角が5つもある形だなんて。けれど赤ん坊は、その色の在りかをそのままに瞳に写し取っているだろうね。

 

 これは何に見える? 分からないだろうね。もちろんこれは君のまるで知らないものだから。似たようなものでさえ、君は知らないはず。

 でも、君にはこれの形が見えている。君はこれにつけるべき言葉を知っているということだ。

 じゃあ質問を変えるよ。これはどんな風に見える? どんな形に見える? どんな質感をしているように見える? 正確に答えられなくてもいい。けど君は、何かしら口にすべき答えを掴んだはずだ。君はやっぱり、これにつけるべき言葉を知っているんだよ。

 

 じゃあさ。

 形も質感も、まるで分からないものに出会った時、それを僕たちは見ることができると思うかい?

 それがなんであるか、呼ぶべき名前を知らず。それがどんなであるか、つけるべき言葉も知らず。そんなものに出会った時、言葉で世界を見ている僕たちは、その姿を見ることができるんだろうか。

 

 完全なる未知に、気付くことはできるんだろうか。

 

 

 

 

 

「神様っていると思うかい?」

「え?」

 

 突然の質問に驚いて、聞き返してしまった。まさかこんなところで別の文脈が出てくるなんて。

 彼の文脈を濁してしまっていないだろうか。彼の語りを淀ませてしまっていないだろうか。そんな不安を抱いて彼を見る。

 しかし彼は、こんな私の不手際さえ、文脈に織り込まれているかのように、動じていなかった。

「この世界を包み、超越して存在する神、僕たちには起こせないような、法則に反した奇跡を起こせる神。君はいると思うかい?」

「さ、さあ。私には分からないよ。感じたこともないし」

 

 つまらない答え、中身のない相槌、でさえない。放棄された回答。

 落胆させただろうか。

 

「だって、見えないもんね」

 

 けれど、彼は飄として答えた。

 こころなしか、その言葉は笑っているように聞こえた。

 

 ああそうか。

 そうか。

 彼にも見えないのか。

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