時に異教徒は、神にあたる存在さえ教義に持たず。
それを知るのは容易なことであった。しかし、それを真に理解するのは容易でなかった。
幼き日より神とともにあった者に、それのない世界を想像する力はなく、彼らに神を説く上で、神とはなんたるかと自問する。
神は神として、姿を見せずとも、その力を直接見たことはなくとも、そこにいるものだと思っていた。或いは、その存在の片鱗はこの空気に乗って、この世界に満ち満ちているものだと、そうだとばかり考えてきた。
はたと異教徒の不思議そうな顔に立ち返れば、この五感のどこにも、神と触れる術はないことに気付く。彼らがおかしいのでない。私もまた、神を知らないのだと。
しかし、私は神とともにある。その確信が揺らいだことはかつて一度もない。
いつから、どうやって、私は神とともにあったのか。
そう思い返せば、神は私の心から生じていた。
私の心が神を感じられるようになったのか、神が私の心に現れたのか、本当のところは分からない。
けれど、漠然と教えらえてきた神という存在が、ある種の実態を伴うものとして私の認識に現れるようになったのは、私の心が成長し、己を律する意味を、或いは救済を待つ必要を、理解できるようになった頃だった。
神が成熟した心に宿るのなら、それを神と呼ぶことを知らずとも、神のない異教徒たちにも同じものを感じる力はあるのではないか。
神なるものが存在しなければ、それは神を信ずる人の心より現れたとしかいいようがない。
神なるものが実在するとしても、その姿を捉えられるのは神を生む心だけである。
とするならば。
神は人の心を依り代に、その力を人の前に現すのである。
では、成熟した心とは?
神は言う。謙虚たれと。それがお前に手を差し伸べる要件であると。
神は言う。我を信じよと。信じぬ者に用はないと。
神は言う。我の救いは、お前に幸福を再び訪れさせると。
神が救うのは、神を信じる者。己を律する者。過去の幸福で足ることのできる者。すなわち、神が過去の幸福が再び与えることを信じ、苦痛を耐え抜ける者。苦痛を耐えるために縋るのは、ただ過去の幸福だけである。
神はそれを成熟と呼ぶのか。
かつて己らの力で幸福を見つけ、それを神の力であると、己を納得させられるようになることを。
神はその力を示しもせずに、その信仰を私に強いたのだ。
なんと神は残酷なことだろう。
真に神を必要とするのは、まさに未だ幸福を知らぬ者。しかしそのような人々に神を視る力は宿らぬのだ。
今神を知る者たちにでさえ、最初の幸福を与えたのは神ではない。そののち二度目の幸福を与えることさえ確約せず、神は何のために何を以て人々を率いようというのだ。
神よ、私はあなたが分からなくなってしまいました。
幸福を知らぬ者に、その力を示す事さえしないのは、それは神の怠慢なのか、それとも。