その日、私は海辺で彼と出会った。
砂浜の感触を素足で確かめながら歩いていたその日、海辺には横たわる彼の姿があった。
彼にはひれがあった。彼のからだは鱗に覆われていた。私とは、似ても似つかない。
海の民である彼。岸辺に倒れこむ姿は苦しそうだった。日差しが彼から水を奪う。呼吸さえも辛そうに。
私は彼に駆け寄った。
彼は私の足音に気が付いたのか、視線をこちらに向け、少し驚いたような表情を浮かべた後、小さく呟いた。
人間か。
私は声をかけた。
大丈夫?
彼は答えた。
問題ないよ。
でも、あなたは海に生きる者。ここにいたままでは死んでしまうわ。
彼はまるで気にしない。私の彼を憂う声も、心配する眼差しも。
ただ、心地よい日光浴のように腹を太陽に向けて寝転がる。
じきに潮が満ちれば、ここは海になる。海になれば僕が死ぬことはない。それまで少し、この苦しいような海への恋しさを、感じていたいだけだよ。
こうして風に全身を預けるのも、砂がぺたぺたとくっつくのも、太陽に焦がされるのも、海の中にいては感じられないものだから。ちょっとの苦しさも、苦しくないよ。
そうして彼が心地よさそうに瞼を閉じた瞬間、私は恋に落ちたのかも知れない。苦しさも苦しくないと言った、彼の言葉に、憧憬に似たときめきを感じた。潮の香りと磯の香りのしみ込んだ彼のからだに、懐旧に似た愛おしさを覚えた。
私が彼から離れようとしないからか、彼は他愛もない話をはじめた。
私も、彼の傍に留まる理由が欲しくて、彼の言葉に応えた。
海の中よりも、陸のものはなんでも重いね。僕の身体さえも重く感じるよ。
そうね、空気は水ほどしっかりしてないから。
それでか、ひれを動かしてもちっとも動けないのは。空気が頼りないからか。
不思議な感じだよ。ここでは、体を押さえつけてくるものはない。
ええ、自由でしょ。
自由っていうのかな。海は僕らを抱きしめてくれるのに、大気も大地も僕らには興味がないみたいで。そこに生きる民として、悲しいことなんじゃないかと思ったけど。
愛のかたちが違うだけじゃないかしら。
空に生きる民はその広い空の中、制約なくどこまでも続く景色に、大気の愛を感じていると思うわ。陸に生きる民は、空高く飛ぶことも海深く泳ぐこともできないから、その体を支えてくれる大地に愛を感じている。
そうかも知れないね。海に生きる僕らが、海の包み込む暗さに愛を覚えるように。まあ、君が感じている愛は、脚の無い僕には分からない感覚だけれど。
‥‥。
歩くのは楽しいかい。
その時、とつぜん足裏に冷たい感触が走った。私の足もとと、彼のからだを、波がさらったようだ。さっきまでは、ここまで届かなかったのに。
その僅かな海とのふれあいで、彼の身体はうるおいを取り戻しはじめている。乾いて褪せていた鱗には、かがやきが戻りはじめている。
けれど、まだ、少しだけ。
潮が満ちてきているようだね。
まだ大丈夫よ。すぐには満ちないわ。
彼は呆れたような顔をした。
けれど、私を追い払ったりはしなかった。もちろん、そんな力はないというのもあるのだろうけれど。
海は好きかい。別に来る理由もないだろう。
歩けるなら、こんな砂浜に囚われてる必要もない。どこへだって行けるだろうに。
どうかしら。
君は海が好きだと思うけどなあ。
じゃあ、海は私を好きでいてくれるかしら。
今の君に、ひれがないとしても。海は君を同じように包み込んでくれると思うよ。
それは、別に好きだからとは限らないんじゃ。
そうだね。でも、僕にするのと同じようにってのは、間違ってないと思う。だから、あとは君がどう受けとるかかな。
大地は、君にするのと同じように、僕を支えてくれている。それを、僕が海に戻れないようにする罰だと思うんじゃなくて、大地なりの愛の示し方だと、僕が思うように。大気が僕らを包み込んではくれないのを、君が自由と呼ぶように。
‥‥。
僕は海を裏切ってここにいるわけじゃない。海を愛するのとは別に、その外を知りたいと願っただけ。結果は、ただ海が恋しくなっただけだけど。
だって、あなたは海に帰る術を捨ててないもの。
ひれの有無で海は民を区別したりしないって言っただろう。
君がどう思っているかはさておき、海はそれを裏切りとは思っていないよ。
砂浜は、少しずつ海底へと姿を変えている。
波が浜辺を洗うたびに、彼のからだは海の中へと消えそうになる。
そろそろ、君とはお別れだね。潮が満ち始めているね。満ち始めたら、いっぱいになるまであっという間だよ。ここにいたままでは、君は死んでしまう。
波は押し寄せるごとに深く、高く、脚をさらっていく。
彼の言う愛の手が、貪欲にこちらに伸びている。やがては、彼のからだを飲み込んで、連れ去ってしまう。
脚から名残惜しそうに、ひきずりこまれるように離れていく海。
大気は決してこんな風には私を包もうとはしてくれない。大地は決してこんな風には私にや柔らかく接してはくれない。
海の抱擁は、いかなる民にも分け隔てなく、訪れる。
大丈夫よ。
そう答えて、私は彼の横に寝転ぶ。
歩くのは楽しかったかい。
彼は少し悩んだ末に、もう一度その質問を口にした。
楽しかったわ。でも、もう疲れちゃった。
波が来るたびに、頭から海に染まる。
やがて、海とぶつかる感覚も減っていく。代わりに、穏やかな揺らぎが、まだ大気の中にいるからだの境目をくすぐるようになる。
そのうち、光も海の深さに飲まれて、私は海の暗さに包まれるのだろうか。
ごめんなさい。やっぱり今の私には愛だとは思えないわ。苦しい罰。だって、あなたとは違うもの。ひれを捨てていないあなたとは。
当然ね。
彼は彼女の手をそっと振り払って泳ぎ出す。
まだ浅瀬。太陽の光が散乱する中を、その光を鱗で映し出しながら、銀色に光る全身を揺らして。