「心ってどこにあると思う?」
不意に彼が訊いた。いつになく感傷的な雰囲気で。
普段から心ここにあらずといった表情をすることが多い彼だが、感傷的という表現が似合うことも珍しい。
「うーん、やっぱりここかなあ」
少し悩んだ末に、自分の心臓のあたりを指さして答えた。
無難な答えに落ち着くのは、やはり私らしい。
「じゃあ、心はどこから生まれるの?」
「それは‥‥、脳とか?」
そう答えた後で、少し嫌な予感がした。
じゃあ、心は脳から生まれて心臓のあたりに移動するのかい?
なんて訊かれたら、どう答えたらいい。
けれど、彼の言葉は違った。
「どっちもよく言われるよね。でも、どっちにしても、心は僕らの身体の中にある」
「そりゃ、体の外にあったら変だよ」
その瞬間、自分の失言を悟った。
ほら、彼の目がきらきらとして――
「じゃあさ、心がふれあうとき、君は互いの体がめり込んでいるとでも言うのかい?」
「そんなことはないけど‥‥」
「じゃあ、心に触れるってのは間接的なものだって? けど、そんな曖昧な感じじゃないだろう」
「うん」
心が触れる。心に触れる。それはとても直接的なもので、深い衝撃を伴う。肉体の分厚い壁を隔てているとは思えないほど、それは私の心に突き刺さるようなこともある。
分かっているとも。けれど、彼の指摘する矛盾を、見事に解決する術を私は持たない。
彼の言葉を聞くしかないようだ。
彼は私が待っていることに気が付いて、ゆっくりと言葉を吐き始めた。
「心のふれあいは、まさしく心の重なり合いだよね」
君は心は脳から生まれるものだと言ってくれたね。助かったよ、僕も同じ考えだから。
心を形作るのは、脳を駆け巡る電気信号だ。それが思考をなして、心になる。だから、心を生み出しているのは、正確に言えば脳というよりも神経の寄せ集めだろう。
神経が走っているのは脳だけじゃない。そんなことは当然君も知っている。神経は脳から、運動と感覚とを司るため、この体表から体の深部まで隈なく張られている。ただ、まさかそれを脳の一部が頭からはみ出たものだなんて、そんな考え方はしたことがないと思う。でも、そうなんだ。
体の動きは脳の動きの一部だ。君の心を表す一つの形だ。知覚が脳に伝える信号は意識を形作る信号の一部だ。君の心をなす一部だ。
だから、心は神経に沿って広がっている、と思う。
体表の神経は、直接触れないまわりの温度さえ感じる。
瞳の神経は、遠くの光さえ映す。
耳の神経は、遠くの音さえ聞かせる。
それら全てが君の心を形作る信号に変わる。君の心は君が感じられる世界全てへと緩やかに広がっている。
今こうして近くにいて、僕が君の息遣いを感じられるなら、君は僕の心の中にいるんだろう。
熱狂のライブ会場とか、激戦のスタジアムとか、凄まじい熱気の中では彼らの心は強く外へ溶け出す。だからそうした時、彼らの心は一つになったように感じるんだ。
けれど、一番君の心が濃く存在しているのは、その体表数ミクロンまで。君が触れたと感じられる距離まで。
その中では君は、緩やかにぼやけた形では存在していない。確固たる混じりけの無い君の心がそこにある。
「だから、こうしてその数ミクロンが重なり合う時――
彼はそっとその手を私の頬にあてた。
温かな温度が私の頬に伝わる。同時に私の体温が、彼の手のひらを通じて伝わっていくのを感じる。
いつもの彼の、見透かしたような瞳とは違う形で、私の内側が彼の掌中へ晒されていくのを感じる。
僅か数ミクロン。しかしそれは重なり合っている。
――心が強く重なり合うのを感じて、強い感情を引き起こすんだろうね」
「君のことが嫌いならそれは強い嫌悪に、君のことが好きならそれは強い好意に、って? 私は君のことが嫌いじゃないから、後者だね」
飄々とした彼の表情が、珍しく淡い喜びの色に変わる。
未だそれは感傷の中にあるけれど、見間違えはしない。
「それが触れ合う面積に比例するか、試してもいいかい?」
「何かあったの?」
私の質問には答えず、彼は思い切り私に抱きついて、体重を私に預ける。
重心が崩れて、そのまま後ろへと倒れこんだ。
「断らなかったから」
彼は私の肩の後ろの見えないところで、そう言った。
答えないならそれでもいい。私だって彼の質問にいつも答えれてるわけじゃない。彼にだって答えられない時はあるだろう。
試してみてどうだった? なんて聞く必要はないだろう。
私を掴んで離さない彼の力を見れば、そんなことは明らかであるから。