集史ウマ娘   作:暫定P

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ファシスト・イタリアとウマ娘

「ナポリ=ウマ娘もフィレンツェ=ウマ娘も同じイタリア=ウマ娘ではないか」

 

 

若きベニート・ムッソリーニはお兄様であった。

 

「イタリア人を創出する」イタリア・ファシズムはこうして産声を上げる。

 

彼ははじめ熱烈なウマ娘社会主義者であった。

亡命先のスイスで「狂ったお兄様」ウラジミール・レーニンの熱にあてられ、「ヒトはウマ娘とともにあるしかない!!」と大演説をぶってはお兄様たちの喝采を浴びていた。

 

ここまでならただのよく居る一般ウマ娘社会主義者だが、彼には類稀なる演説力と体力があった。

 

張り出した顎、雄大な身躯、4か国語を解するインテリでありながら肉体労働を嫌わず、スポーツを愛し決闘を挑まれれば負け知らず…しかも最初の恋人はウマ娘。

 

 

彼は「男らしさ」の体現者だった。

 

 

レーニンも彼を高く評価していたようで、のち彼の社会党除名の報せに際し「社会党は革命を起こす力を失った。奴らは大馬鹿者だ。」とこぼしている。

 

 

そんな彼は第一次世界大戦勃発時、所属する社会党が他国の社会党と共同して非戦を呼びかけると激怒した。

 

「優しきウマ娘たちが戦っているのに我々人間が尻込みするとはどういうつもりか!」

 

…彼は除名された。その顔は誇らしげだった。

 盟友のウマ娘ビアンキを筆頭に、数人の同志が彼とともに社会党を離脱した。

 

 

党を除名されたムッソリーニは戦場に赴き、生まれも育ちも「種族も」違う同志たちと前線に立ち続けた。

そうしている内に塹壕の中で驚くべき「変化」を発見する。

 

それまで、フィレンツェ=ウマ娘とナポリ=ウマ娘といえば犬猿の仲で有名であった。

出会うと普段より3割ほど会話が減り、目も反らした。その耳は垂れ下がっていたという。

 

争いを好まないウマ娘でさえこうなのだから、人間においてはご想像の通りである。

 

それがどうか。

3分先には命失われるやもしれぬ極限の塹壕で、彼らは「イタリア人」になっていた。

もはや生まれの違いは問題ではなく、共通の敵のために団結し、協力し、友人となった。

 

のちに「塹壕精神」と呼ばれるこの「歴史的和解現象」はムッソリーニに天啓をもたらした。

 

 

 

―「ナポリ=ウマ娘もフィレンツェ=ウマ娘も同じイタリア=ウマ娘ではないか」

 「全てのイタリアウマ娘は一つになれるはずだ」―

 

 

 

戦後、彼はかつての戦友たちとともに「イタリア戦闘者ファッシ」を立ち上げる。

 

その目的は共産主義からの防衛、何より「全イタリア人の団結」を訴えるものであった。

 

ここで不思議に思った人も居るだろう。

ムッソリーニはウマ娘社会主義者だったではないか?と。

 

ここでイタリアにおける共産主義の暴走について述べておこう。

イタリアの社会主義は、穏健な社会党と過激な共産党に大別された。

争いを好まないウマ娘たちはこぞって社会党に属していた。

 

戦後の厳しい経済状況で、ブルジョワ打倒と弱者救済を掲げる共産党は急速に人間の支持を集めた。

彼らは積極的にストライキ・破壊活動を実行し、鎮圧に動く資本家勢力と衝突を繰り返した。

 

農村においても、土地を独占し高い小作料をガメている腐敗地主を打倒すべく破壊行為を繰り返すようになる。

―そこはウマ娘ちゃんたちの生きる場所だった。

 

 

  ムッソリーニは激怒した。

  必ず、あの邪智暴虐のアカどもを除かねばならぬと決意した。

  理由など一つで良かった。地主打倒を叫ぶ奴らは土地を焼いていたからだ。

  ウマ娘が愛した土地を、何より大事に大事に育てた作物をだ。

 

 

怒れるお兄様の行動は早かった。

一瞬の内に元兵士を集めてファッシを立ち上げ、イタリア中のウマ娘愛好家から資金を得た。

 

「懲罰遠征」が始まった。

 

「ウマ娘の生きる場所を守る」

この美しいスローガンの下、ファッシは驚くべき残酷さを発揮した。

土地を占拠する共産主義者を片端から殴り飛ばし、土地の用心棒のような存在になっていく。

アカから土地を守ってくれたファッシに地主たちは喜んで用地や資金を提供した。

そしてまた、アカに困る農村へ版図を広げていった。

 

そうしてある日、ムッソリーニは新たにアカを粉砕した農村に足を運び、現地の農業ウマ娘と話した。

「もう心配は要らない。これからもこの畑は君たちのものだ」

胸を張るムッソリーニに帰ってきた言葉は意外なものだった。

 

 

 

  「バットで人間さんを殴るような人たちは嫌い」

 

 

 

―「懲罰遠征」は終わった。

 

ムッソリーニはファッシを再編し、極端に暴力的な勢力を排した。

古参の幹部からは支持の低下を恐れられたが、穏健化してなお共産主義者に対抗できるのはファッシだけだったため、富裕層・中流階級からの支持は薄れなかった。

むしろ穏健化したことで王宮や貴族、知識人からの支持が強まり、全体として党勢は強まった。

ビアンキの手引きでたくさんの社会党系ウマ娘が流入したのもこの頃である。

 

この予想外の支持増加をムッソリーニは見逃さなかった。

 

1921年、ムッソリーニはイタリア戦闘者ファッシを「国家ファシスト党」に改組、選挙でも多くの議員を出し国政政党とする。

さらに翌1922年には党員を集めて「ローマ進軍」を強行、とうとう政権を獲得した。

 

 

政権獲得直後ムッソリーニは立て続けに国家事業や娯楽事業を発表し、共同作業を通じた国民意識の醸成に着手した。

それに加えて、ムッソリーニは政治社会での人間とウマ娘の共同参画を実現した。

 

新たな選挙法、通称「アチェルボ法」である。

 

この選挙法には第一党に2/3の議席を与える特異な条項があり、これが独裁体制の象徴として取り上げられることが多いが、一方、これは世界で初めてウマ娘の政界進出を保障した法律でもあった。

 

 

改正案の第1条第1項(ここにムッソリーニの思い入れが現れている)にはこう示されている。

 

 

「全議席の5%をウマ娘候補者に比例式を用いて優先的に配分する」

 

 

当初ムッソリーニは15%を主張していたが、ビアンキにおこられたので撤回され、当時のイタリアにおけるウマ娘の人口比に設定された。

 

官僚制度におけるウマ娘の大量登用の実験がソ連で行われたとすれば、代議士制におけるウマ娘の大量登用の実験はイタリアにおいて展開された。

 

アチェルボ法成立以前からムッソリーニはイタリア中を回ってウマ娘の立候補者を発掘し、次々に党員、そして政治家へと導いている。

このウマ娘の政界進出を見て、多くのウマ娘が大学に進学し、公務員・官僚の道に進むようにもなった。

 

さて、当時のイタリアでも他国の例にもれず、一般には「ウマ娘は政治活動に不向きである」との見方が支配的であった。

ウマ娘はその正直さと優しさから、時に口汚い罵倒が飛び交う政治の舞台には耐えられない、それはかわいそうだと思われていた。

 

しかし彼はウマ娘の正直さと強さを信じていた。

ウマ娘はただ守られる存在ではない。「同じイタリア人」として社会を支えられる存在だと。

 

彼の熱意は無事伝わった。

ちょうどその頃ソビエトでのウマ娘官僚がどうやら上手く行っているらしいという噂が広まりつつあったことも追い風だっただろう。

多くのウマ娘が彼に従って入党し、驚くべき勤勉さを発揮しめきめきと頭角を現していく。

 

 

結果としてウマ娘の正直さは、イタリアに巣食っていた腐敗を一掃した。

 

「我々の精神的模範はウマ娘の正直さである」

「常に心にウマ娘を置かなければならない」

「ウマ娘の前でも出来る行動こそイタリア人の示すべき姿勢である」

 

これはムッソリーニの亡命時代からの演説での決まり文句であった(多くの聴衆はやれやれと聞き流していた)が、人々はここに来てその本質に気付かされたのである。

 

 

ウマ娘は決して賄賂を取らなかった。

党員ウマ娘は党と国家にとって、官僚ウマ娘は国家にとってプラスのことを、公平に選択し提案した。

ムッソリーニは立場の違う彼女らの提案を時々の都合に合わせて選び取り、決定した。

そして決定された政策を、彼女らは迅速に、無駄なく、徹底的に実行した。

 

結果、政府の政策は増えた一方で、予算規模はむしろ縮小した。

地方の行政においても腐敗が一掃されマフィアの力も激減、治安と行政の効率が回復された。

 

この地方イタリアの病ともいうべきマフィアの弾圧において、ムッソリーニは極めて暴力的な方法を取ったとされる。

しかし一方で、下っ端マフィアの救済・再教育が広く行われたことも明記しておくべきだろう。

 

マフィアたちの社会復帰政策を主導したのはウマ娘党員であった。

過激な弾圧を嫌う彼女らに対し、ムッソリーニは対話不可能な上層部のみの抹殺で応えたのである。

 

違法なシノギしか知らない下っ端マフィアたちは、その多くが開墾活動に従事させられた。

この運動が発表されると農業ウマ娘が次々に志願し、彼らとともに汗を流した。

マフィア社会と違い優しく、公平で、丁寧に指導するウマ娘ちゃんに接した元マフィアたちは次々に更生し、そのほとんどは二度と犯罪に手を染めなかった。

必然、イタリア全体の犯罪率も大幅に低下した。

また、同じ土地で同じ事業に携わる中で、人間・ウマ娘ともに地域対立も消えていった。

 

 

現在のイタリアではかつてほど地域対立が酷くないが、その背景にはこうしたファシスト党による国家事業を通した共通意識の蓄積があったのである。

他にも完成した高速道路を用いたリレー式長距離レースなどの娯楽事業も良い影響を与えたとされるが、ここでは割愛する。

 

 

こうして、ウマ娘の政治参加を通してイタリアは、ヨーロッパ一と謳われる清廉な政治社会を作り上げた。

この結果はソ連の成功と並び驚きをもって迎えられ、かなりの毒舌で知られるチャーチルもムッソリーニの指導力を高く評価している。

 

間違いなく、イタリアの1920年代は幸せな時代であった。

 

 

 

 

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しかし大恐慌がイタリアの運命を狂わせる。

混乱する経済、緊張を増す国際情勢において、ムッソリーニは立つ岸を間違えてしまった。

敗北が決定的になっていた1943年、ムッソリーニは失脚し、監禁される。

 

その後ナチスによって北部イタリアの傀儡政権の指導者に立てられるが、そこにウマ娘政治家の姿は無かった。

彼は失政によって愛想を尽かされたのか?そうではない。

実際には彼を慕う多くのウマ娘党員が政権への参加を申し出たが、彼は頑として受け入れなかった。

 

彼は最後までお兄様であった。

 

ドイツ降伏の直前、ムッソリーニは亡命途中でパルチザンによって拘束・銃殺される。

その傍らには頑として最期まで付き従った、クララというウマ娘の愛人がいた。

 

 

―戦後、反ファシストによって立てられた共和政府はファシズムの痕跡を社会から消し去った。

現在のイタリアの町並みに、不自然に削り取られた跡があればそれはファシズム関係の意匠の跡である。

 

しかし、反ファシストたちにも消せなかったものがあった。

ムッソリーニが「彼女らこそ我が遺産である」と誇った政治参加するウマ娘たち、そしてそれを支えたウマ娘へのプレミアム議席制度である。

こうして、政治にウマ娘を見出したムッソリーニの名前はイタリアの政治社会に深く刻み込まれた。

 

 

ー戦後多くの争いを経て、現在ムッソリーニは故郷プレダッピオに埋葬されている。

 そこには現在も多くの人々、ウマ娘が巡礼や献花に訪れている。




イタリアを話題にしたウマ娘世界史が無かったので書きました。

ソビエト建国とウマ娘については友爪氏の「歴史の中のウマ娘」へ。
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