◆シャーロック・ホームズ綺談 ラノク湖の怪◆   作:mizumega

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1・失踪人

 この恐るべき事件は、あまりに常軌を逸したものなので、事件簿の中に入れることはできなかった。しかし、それらは全て本当にあったことなのだ。ーーー ジョン・H・ワトソン

 

***

 

 

 10月のある晩、わたしは病院での忙しい仕事が一段落したのでベーカー街を訪れた。するとそこには先客がいた。

「やあワトソン、ちょうどよかった。君も話に加わりたまえ。

 彼のことはご存知ですね?ジョン・ワトソン博士はぼくの優秀なパートナーです。彼が耳にすることはぼくに言ったも同然と考えて下さってけっこうです」

 遠慮して帰ろうとするわたしの袖を握って、ホームズは中へ引き入れた。

 

 先客は中年の夫婦だった。一人は大柄な男で、歳の頃は三十半ば、赤ら顔に丸い鼻の頭と頑丈な顎を備え、ゴワゴワした顎ヒゲで囲っている。ウールのツイードのジャケットとズボンはどちらも綻びが目立っていた。ソフト帽を被り、擦り切れた革の短靴を履いている。

 女房の方は男よりも幾らか歳上のようだった。ウールのショールを被り、飾り気のないつばの短い帽子を両手で所在なげにいじっている。地味なドレスは裾の破れを直した跡があった。顔には愛嬌があり、生活の苦労で刻まれた皺の下に美人だった面影がわずかに残っている。

 二人とも小綺麗な221Bの室内に気おくれしたかのように、ハドスン夫人が淹れてくれた紅茶にも手を出さず、堅苦しい態度で座っていた。

 

「少々難しい話らしいんだ。

 …で、マカラムさん、すみませんがワトソン君に分かるよう、最初からお話を聞かせてくれませんか」

「その前にはっきりさせてえことがある」

 マカラム氏は叛骨心旺盛なスコットランド訛りで言った。

「幾らだ?」

「それは事件によりますね」

「あんたは貴族や金持ちの御用達なんだろう」

 ホームズは(酷い侮辱だな!)とでも言うように私へ苦笑してみせた。

「料金は一定していまして、依頼人の身分や社会的地位は関係ありません。気前の良い方からボーナスを受け取ることもありますが」

「金は必ず払う」

 マカラムは挑むように身を乗り出した。私はどう見てもこの夫婦が大金を持っているようには見えなかった。

「まあ落ち着いて」

 ホームズは相手が話しやすいように、くだけた口調に変えた。

「お金よりも大事なのは事件だ。わかりますね。ぼくがそちらの依頼を引き受けるかどうかは、事件の中身が決める」

「そりゃどういうこった」

「つまりだね、あんたの話が警察で済むなら、そっちへ行きなさいということだよ」

 今にも立ち上がりそうなマカラムにわたしは言った。

「人の頼みも聞かないのか」

「いやいや、そうじゃない。警察に解決できることなら、あんたもわざわざ金を払わなくたっていいってことだ。だから、まずホームズにお話しなさい」

「そう。話を聞いて、ぼくが警察へ行くべきだと判断したなら、そう言いますよ。お金のことはその後だ」

「探偵は仕事を選り好みするのかい」

「他の探偵なら別さ。でもシャーロック・ホームズはつまらない事件には興味がないんだ」

 マカラムは理解できないのか眉をひそめた。

 わたしは言った。

「つまりだね、時速60マイルで走る汽車にここからカムデンまで突っ走れと言うようなものさ」

「あらたまげた!そったら、あっという間に着いちまうべ」

 マカラムの女房が呆れたように田舎弁丸出しで叫んだ。

「汽車賃の無駄だべさ」

「そういうこと」

「さて、あなたたちの話に戻ろう。誰かを探していると言っていたが…」

 するとマカラムはにわかに身を堅くし、唇から押し出すように言った。

「息子がいなくなったんだ」

 女房がこらえきれずシクシクと泣き出した。

 ホームズは両手を頭の後ろに組んだ姿勢を崩さなかったが、ちらりとわたしを見た。

「さあさあ奥さん、元気をお出しなさい」

 わたしはブランデーの小瓶を懐から取り出し、数滴紅茶に入れて女房に勧めた。

「シャーロック・ホームズがなんとかしてくれますよ」

 一瞬ホームズがとがめるような視線を送ったが、わたしは意に介さなかった。

「息子さんの年齢は」

「今年で12になる」

「失踪したのはいつ?」

「今月の15日」

「どういう状況で気づいたのかね」

「息子は羊の番をするのが仕事だった。夕飯に帰ってこなくて、それで気づいたんだ」

「おらたち、必死こいて探したけんど、どこにも居なくてなあ」

「出掛ける時、いつもと変わった様子はなかったですか? 少し元気がないようだったとか、思い詰めた様子は」

「いいや。俺の見る限りじゃ普通だった。息子のことは女房の方が分かるがな」

ホームズが促すように妻を見ると、彼女は肩をすくめて首を振った。

「なるほど。息子さんがトラブルに巻き込まれたことはありますか? たとえば子供たちと喧嘩したとか、そういう些細なことでもいいのだが」

「いんや。まあ喧嘩はなくもないが、ガキどもの他愛ないじゃれ合いでね。次の日はケロリと忘れて遊んでまさ」

「うちの村はえらくちっこいだで、みぃんな家族みてえなもんなんす。恨みとかそういうのはねえっす」

「では人間関係のもつれは無さそうですね。確認しておく必要はあるが⋯。最近、見知らぬ者が訪れたとか目撃したことは?」

「ずっと前にロンドンから旅してきた人がいたが、別になんてこたぁなかったね」

「これは必要なことなので聞かなければいけないが、家庭に問題はありましたか。例えば、息子さんが出掛ける前に口論があったとか」

「あの子はとっても良い子です。わたしらに口ごたえしたことねえだ」

 ブランデーが効いたのか、顔色の良くなった女房が言った。

「特に問題がないのにいなくなったと?」

「ああ。ただ…」

 口ごもるマカラム氏へ、ホームズは片眉を上げた。

「あいつは…ショーンは頭の良い子なんで。親に似ず。金があったら学校へ行かせてやれるんだが…」

「学問に興味があるんだね」

「牧師様からいただいた本をしょっちゅう読んでた。俺も分からねえような難しい本だ。親バカで言うんじゃないが、大きくなったらオックスフォードに入れるかもしれねえ。生まれがよかったならだが」

「その事で息子さんからお願いされたことはないかな。学校へ行かせてくれとか」

「あの子はやさしい子なんで、親が困るようなことは言わんねえっす」

「でも、なんとなく分かるんでさ。もっと学びてえってことが」

「家はハイランドでしたね」

「ああ。グランピアン山脈より少し南の、ふもとにある村でね。ど田舎でさあ」

「仮にだが、息子さんが一念発起して学問のために家出したとしよう。そこからパースやスターリングのような街へは行けるものかな?」

「行けなくもないが、えらく長い距離を歩くはめになるね。途中で馬車に拾ってもらわない限り、丸二日は歩きどうしだ。一番近い駅だって30マイルはある」

 少し考えてマカラムは言った。

「汽車賃をくすねたってことはないかな?」

 わたしの問いに彼は首を振った。

「あいつに限って考えられねえが、万が一と思ってヘソクリまで調べてみた。金は盗まれてなかった。第一、俺らにそんな余裕はねえ」

「となると家出の線は薄いな…事故は考えたんでしょうね、もちろん」

「そこら中を村中総出で探し回ったが、どこにもいなかった。湖で溺れて沈んだなら別だが」

 亭主の言葉に女房は身震いした。

「警察に失踪届は出したかな」

「警察だって!」

 マカラムは軽蔑したように言った。

「警察だって!あんたは知らないんだ。ロンドンみてえにスコットランドヤードなんていやしない。村に交番すらないんだぜ」

「今日は26日だが、それほど時間が経ってからぼくの所へ来たのはなぜなんだね」

「他に手立てがないからさ」

「いつかは帰ってくるんじゃないかって、待っていたんだけんど…」

「俺は諦めろと言ったんだが、こいつがどうしても聞かなくて」

「じゃあ、君は、息子さんが…」

「あの子は生きてるだ!」

 わたしの言葉を遮るように女房が叫んだ。

「あたしには分かる。生きて、あたしたちの助けを待ってるだよ!」

 血を吐くような言葉だった。

 ホームズは鋭い目で女房を見つめたが、彼女はたじろがなかった。

「…ふむ!」

 ホームズが立ち上がると、桜材のパイプをマントルピースから取り上げ、煙草を詰め、火を点けて一口二口吹かした。それからパイプの細い吸い口で額をコツコツと叩いた。

「では、もう一度事件の始めに戻ってみよう。どんな些細な事でもいいから、最近気になることはなかったかな?息子さんのことでなくてもいい。あなたがたの周囲に変化はなかっただろうか」

 夫婦は顔を見合わせた。

「なんでもいいんだよ。ホームズはね、小さな出来事から事件を解決するのが得意だからね」

「事件というか…」

「ほら、あれさ、悪魔の…」

「悪魔?」

 私の問いにマカラムは渋々頷いた。

「実は、人が消えたのは息子だけじゃねえんでさ」

「ほう」

 初めて興味が湧いたのか、ホームズが姿勢を正した。

「誰がいなくなったんだね」

「ひい、ふう…全部で三人。息子を入れたら四人になる。酔っ払いが一人と村の後家さんが一人、あとはお偉い貴族みてえな男だ」

「失踪したのはいつ?」

「そうだな…始めはボイルっつぅ呑んだくれだ。あれはたしか4月も終わりの頃だったか。あいつは女房に働かせっぱなしで自分は始終酔っ払ってて、村の鼻摘みもんだったんだ。いつもパブで酔い潰れてたもんだが、いつの間にか来なくなってよ。家にも戻らないから、やっこさん、おおかた借金が苦で黙って逃げ出したんだろうって、みんなに思われたんだ。

 その次はエイリーンっつぅ後家さんでな。これがその…まだ三十路の若い女だったもんだから、色恋沙汰が絶えなくてなあ。やれ誰の旦那を寝取っただの、よその女房と喧嘩したり、村中に浮名を流しててえらい評判が悪かった。で、その女も夏になるとどこかへふいと行っちまったさ。今頃金持ちの旦那を引っ掛けてよろしくやってるんだろうって噂したもんだ。

 その次は9月の半ばだった。アクランドとかいう紳士が村へふらりと寄って、あちこち出歩いてた。あんな辺鄙な所へ遊びに来るなんて物好きもいたもんだ。そいつは懐具合が良くて身なりも立派だったが、ケチでお高くとまってたぜ。だけどその旦那も、ふっといなくなってよ。どこへ行っちまったもんだか…」

「故郷に帰ったんじゃないのかな」

 わたしの問いにマカラムは首を振った。

「旅行鞄を置いてか?なんだか値の張るブツだったぜ」

「とすると、荷物を置いて出て行ってしまったわけだ」

 ホームズはパイプを吹かし、

「で、『悪魔』とは?」

「…こいつぁ、迷信深い村のもんが噂してたんだが…」

 マカラムは身じろぎした。

「そいつらは、いなくなった人間が悪魔に喰われたって信じてるんでさ」

「まさか」

 思わずわたしが言うと、マカラムの女房は身を乗り出した。

「気味の悪い声がするだよ。遠吠えのような…」

「声?」

「んだ。今年になってから、なんだか変なんですだ、おらの村は。村だけじゃねえ、あの辺でなんだか悪いことが起きてるって、みんなして言ってるっす」

「具体的には」とホームズ。

 女房は指折り数えながら、

「湖の方から太ぉい声が時々するようになったんす、今年になってから。ありゃ犬じゃねえ。カラスでもねえ。あんな声は聞いたことがねえだ。

 それから嫌ぁな臭いが漂ってきて…。

 それと、夜中になんだかザワザワいう音がして、地震が起きたですだ」

「地震?」とわたし。

「床がユッサユッサ揺れてよお。そんな大きくもねえが、おらの村で地震なんて起きたことがねえだに」

「事件とは関係が薄そうだな」

「先生、それだけじゃねえだ。人の悲鳴を聞いたってもんもいるがんす」

「悲鳴…」

 雲を掴むような話に、ホームズとわたしは顔を見合わせた。

 わたしは言った。

「声がして、臭い匂いがして、地面が揺れたんだね?しかし、それと悪魔とどう関わるのか分からんな」

 今度はマカラムと女房が顔を見合わせ、肩をすくめた。

「あっしの村の近くに湖があるんでさ。そいつには伝説があって、大昔に化け物が棲みついたって話でね」

「化け物?」

「なんでも偉い聖人が退治したそうなんだが、詳しいことは知らねえ。牧師様ならご存じかもしれねえが…それで、今でも悪いことをしたら悪魔に喰われるっつぅ言い伝えがあるんでさ」

「その悪魔が本物なら、ぼくの出番はないな」

 ホームズがそっけなく言うので、夫婦は肩を落としかけた。

「…しかし、息子さんの行方が気がかりなら、調べる価値はあるかもしれない」

「ほんとですかい」

「ぼくは忙しくてね、事件を二つほど抱えているんですよ。だから今すぐというわけにはいかないが、2、3日すればそちらへ行けると思う。それでどうだろう?」

「先生!」

 女房が跳ねるように駆け寄って、ホームズの腕にすがった。

「おねげえです、あんたしか頼れる人がいねえ、なんとかしてくんろ」

「奥さん、安心して下さいとは言えませんが、できるだけの事はするとお約束します」

 ホームズは彼女を助け起こした。

「よろしく頼んまさあ」

 おずおずと差し出された大きな手を、ホームズは力強く握った。それからマカラムの村へ行く道程や、村の様子について詳しく聞き、向こうで会う日時を決めた。わたしは彼らを玄関口まで送り出した。

「ほんとに来てくれるかね」

 マカラムは自信なさげにわたしに言った。

「ホームズは一度約束したことは違えませんよ」

 わたしは頷き、夫婦を見送った。

 

「安易な慰めはよくないな」

 わたしが戻るとホームズは苦言を呈した。

「励ましは必要だろう」

「希望を持たせて最悪の結果だったら?その分だけ絶望に陥いる羽目になる。ぼくは昔そのせいで依頼人を傷つけたことがあった。だから下手な慰めはしないことにしているんだ」

「君でダメなら誰だってダメさ。それだからこそ君に頼ったんだろう?」

「まあそうだが」

「高い汽車賃を払ってロンドンへ来たのは、あの夫婦にしてみればよくよくのことだ。大事な息子が行方知れずなんだから」

「ワトソン、君も忙しいんだろう?見れば羽振りがよさそうなのは分かるよ」

「実は共同経営者を見つけたんだ。ほら、君も知ってる隣の病院のアンストラザーだよ。わたしがあまり頻繁に代診を頼むので、いっそのこと二人で一つの病院を経営して、不在の時は彼がわたしの儲けをそっくりいただくという寸法さ」

「スコットランドでゴルフをしたいと思わないか?」

「いいとも。釣りも楽しみだ」

「は!条件は整っているな」

「…しかしホームズ、彼らの話を真に受けるのかい?なにしろ『悪魔』だぞ」

「まあ、そいつはどうにもならないかもしれんが、母親の嘆きを見て見ぬふりもできまい?それに女の勘ってやつは何度もぼくを出し抜いたことがあるからね。マカラムの奥方が息子の生存を信じているなら、なにかしら根拠があるかもしれない。どっちにしろ、ロンドンを一時離れるのも気分転換には良いだろう。…やあハドスンさん、電報ですか。うむ…よし…これでドレパー卿の盗まれた宝石の手掛かりは掴んだ。あとは犯人を捕まえるだけだ。ワトソン、ぼくは出掛けるよ。二日後にユーストンで会おう!」

 

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