◆シャーロック・ホームズ綺談 ラノク湖の怪◆ 作:mizumega
二日後、わたしとホームズはユーストン駅からグレート・ノーザン鉄道の寝台車に乗ってグラスゴーを目指した。
その間、わたしは時間を無駄にしなかった。マカラムの村のある地方の地図を手に入れ、ホームズが電報で指示したように、新聞の尋ね人欄で消えた紳士について探してみた。その結果、サー・セドリック・アクランドなる勲爵士がスコットランドへ旅行に出掛けたまま帰ってこないことが判明した。
スコットランドヤードへ問い合わせてみたところ、その人物に関する失踪届は出されていないそうだ。レストレード警部は親切にもアクランドについて調べてくれ、彼が成功した貿易商人で身寄りのない独身であると教えてくれた。尋ね人欄に投稿したのはアクランドの会社らしい。1週間の旅行の予定が帰ってこないので、やむを得ず新聞を使ったようだ。
「レストレードも雇いたいところだが、遠いスコットランドまでは出向きたくないだろう」
列車の中でホームズは言った。彼は事件を2つ解決し、大急ぎで最終の寝台車に乗ったところだった。
我々は予約していた一等席のベッドに寝そべった。
「銃は持ってきたんだろうな、ワトソン?愛用のブルドッグをさ」
「ああ。けど必要なのか?」
「失踪人を探すだけなら無用だな。だが、なんとなく予感がするんだ。この事件はどうも虫が好かない」
ホームズはベットになる長椅子に寝転んで、紙煙草を吹かしながら言った。
「単なる家出じゃないってことか」
「話を聞くぶんなら、ごくごく単純だ。しかし、孝行息子が理由もなくいなくなるものだろうか?」
「きっと事故だ。湖で溺れ死んだんだ」
「それか人目に触れない穴に落ちたか、そんなところだろう。…だがねえワトソン、ぼくはあの女房の確信が引っ掛かるんだ。仮に彼女が正しいとしたら、話は全然違うものになるぞ」
「それこそ悪魔の跳梁ってやつだな。…じゃあ、わたしは寝るよ。朝が早いし。ああそうそう、煙たいからって窓は開けないでくれ。寒くてかなわん」
ガタゴトと単調な線路の音を聞きながら、汽車の揺籠に揺られてたちまちわたしは寝入っていた。
***
早朝グラスゴーに到着した我々はスコットランドの地方線に乗り換え、パースを経てインヴァネス行きの汽車に乗った。
アントニヌスの長城を過ぎてカレドニアへ入る辺りから風景は変わり始め、低い山の連なりと渓谷を縫って列車は進んだ。山々の間には小さな湖が目立ち、城跡がここかしこに点在している。遥か地平線にグレートブリテン島最高峰のベン・ネビス山の微かな山陰が見えた。はるばるロンドンを離れ、緑に塗られた大地を走り抜けていると、中世の時代に戻ったような気がしてくる。
我々が途中のブレア・アソール駅で降りると、石造りの小さな駅舎がある。ホームズは荷物を下ろす駅手へ何気なく聞いた。
「ああ君、ちょっと尋ねたいんだが、近頃少年が一人で汽車に乗るのを見掛けなかったかね?歳は12くらいなんだが」
「いんや、見ねえす。子供が一人で乗るなんざ見たことねえです」
「ありがとう」
チップを渡してホームズは頷いた。
駅舎を出るとマカラムが待っていた。彼は我々が辺境の田舎へ約束どおり来るか半信半疑だったようで、ホームズの姿を見ると顔をわずかにほころばせた。
「ここからは長くなりますぜ。ワトソンの旦那はゴルフでもするつもりですかい?」
わたしが持参したゴルフバッグから覗くゴルフクラブと釣竿に怪訝な顔をする。
「マカラムさん、我々は休暇でここを訪れたということにしたいんだ。事件の捜査というと何かと角が立つものだからね」
ホームズの説明にマカラムは頷きながらも、
「あちらじゃもう噂になってますぜ。村じゃ隠し事をするのは難しいでね」
「構わんよ。話が早くて助かる」
一頭立ての小さな馬車に乗り込み、我々は村を目指した。村の名前はイナハといい、近くにラノクという湖がある。
旅は確かに長かった。波のようにうねる丘陵の間の細道がどこまでも延びていた。道とほぼ並行して小川が流れ、両岸に狭い森が続いている。川と丘の間に放牧地と畑がキルト模様を描いていた。
「いやまったく、ロンドンの煙たい空気から逃れられるとはね」
「静養にはもってこいだな」
秋も終わりのこの頃、丘の斜面はヒースに覆われ、赤茶けた大地は冷たく清涼な空気に包まれていた。絨毯のような広々とした草地で羊たちが熱心に食んでいる。
「旦那方は忙しいんだあね」
訛りの強い言葉でマカラムは言った。
「ワトソン君は流行りの医者なんだ。色々繁盛しているよ」
「そしてホームズは仕事の虫で、健康を害するほど沢山の事件を片付けてる。実際、主治医に忠告されたほどだ。わたしも主治医の意見に同感だね」
「ならハイランドは休暇にゃいいかもしんねえ。ここじゃきれいな空気がたっぷりありまさあ」
ホームズは延々と伸びる道の両側を眺めながら言った。
「確かに家出をするとしたらこの距離は長いな。たとえ駅に着いたとしても、都会へ出るには鉄道を使うしかない。誰かが目撃するはずだ」
私は頷いた。
「ブレア・アソールの駅員は見ていなかったから、あちらの方へ行ったとは思えん。それに、こう見通しがいいと、ここまで歩いてくる間に誰かが見ているはずだ」
「道を歩くとしたらだがね。ここの丘は幾重にもうねっているから、人目を避けようとすればルートはいくらでもあるはずだ。とはいえ、かなりの回り道になってしまう」
「だったら30マイルじゃきかないぞ」
「大人でも相当な体力がいるな」
我々の議論を聞いて御者台のマカラムも頷いた。
「あっしも駅の方へ行ったとは思えねえ」
「行方不明になった他の人なんだが、彼らならどうだろう?」
「さあね。ジョナサン…ジョナサン・ボイルっつぅ酔っ払いなんだが、あいつが自分の足で半マイルも歩けたか怪しいもんだ。なんせシラフより酔ってる時の方が長かったからなあ。カー家の後家さんは男を引っ掛けない限り街へなんて出ませんぜ。紳士の方は分かんねえが、荷物がなあ」
「なら東の方は考えから外してよさそうだ」
そんな話をしている間に、馬車は幾つかの村や農場を過ぎて行った。始めは白塗りの小粋な二階建ての家が多かったが、奥へ進むにつれ次第に石造りの古めかしい家が取って代わっていった。石の家は地面へ這いつくばるように低く、厚い藁の屋根で覆われている。その家もだんだん距離が離れてゆき、家と家の間が1マイルも空くようになった。川をさかのぼるにつれて谷間の土地は次第に狭くなり、低い石塀で仕切られた狭い畑や牧草地にとって替わる。
周りの風景も変わってゆき、樹々は徐々に後退し始め、のっぺりした山肌が道へ迫ってきた。勾配のゆるい斜面に奇妙な形をした岩が点々と置かれている。それは大地から生えた錆びた剣のようだった。
「メンヒルか」
ホームズが興味深そうに見つめた。
「ワトソン、君もダートムアで見たろう。謎の遺跡を」
「確かに似ているな」
不気味な岩たちは我々を無言で見つめている。ここまでの道程で日は傾き、そろそろ地平線へ沈みかけていた。奇怪な岩影が地面に長く伸び、こちらへ手を差し伸べてくる。わたしはなんとなく背筋が寒くなり、厚手のコートの襟を立てた。
「あっしの村の周りはちょっと変わっててね」
マカラムが鞭でそれらを指した。
「色んなヘンテコな岩がそこら中にあるんでさ。スコットランド中を探し回ったって、うちの村ほどおかしな場所はねえ」
「ほう。なにかいわくがありそうだな」
「あっしは学がねえんで知らねえが、牧師様ならご存じかもしれねえ。あるいは学者先生か」
「学者がいるのかい?」
わたしの問いに、
「よそから来たんだがね、ずいぶん変わったお人だあ。そこらを歩き回って何かを探したり、地面を掘ったりしてら」
言外にそいつは頭がおかしいという意味を含める。
「その学者は消えた人々を見ていなかったんだろうか?」
「残念だがホームズさん、そいつはなんにも知らねえとさ。まあ地面ばかり見てるような人だから、人間なんざ目に入らねえんだろうよ」
そうこうしているうちにイナハ村に到着した。といっても村を示す看板があるわけでもなく、いつの間にか道沿いに十数軒の家があるというだけだ。広場らしい空き地もなく、ひどく簡素な所だった。
通りすがりの村人がマカラムに声を掛けた。
「ようデヴィット、例の先生かい」
「ああ、シャーロック・ホームズ先生とジョン・ワトソン博士だ」
馬車を停めずマカラムは答えた。彼は宿屋はここに一軒しかないと言い、自分の家まで案内したら引き返してそこで降ろすと言った。彼の家は狭過ぎて客を泊められないと言うが、我々のような人間は粗末な家に居たくないだろうと思っている様子だった。
やがてゆるい坂道を登りつめると視界が開け、眼下に湖が広がっていた。夕闇の迫る中、黒い水をたたえた湖面は不気味なほど静まり返っている。
湖畔から2マイルほど離れたところにマカラムの家はあった。亀がうずくまるような格好の、石壁をモルタルで固めた長方形の平家で、窓は小さく奥へ引っ込んでいる。煙突のない藁を敷いた屋根は毛の長い牛の背中を思わせた。
中へ入るとすぐ居間になっていて、床は土を固めたものだった。部屋の真ん中にある囲炉裏で乾燥させた泥炭が音もなく燃え、土の香りのする煙を吐いていた。囲炉裏の周囲にソファがわりのベンチや箪笥が置いてあり、ここが生活空間の全てだと物語っている。天井は屋根の木組みが剥き出しになり、黒光りする梁で支えられている。梁から吊るした大きな鉄瓶が静かに湯気を吐く。片隅の台所で女房が料理していた。
隣に寝室があり、そのまたその向こうに小さな部屋があり、息子のために増築したのだった。反対側の端に広い物置きがあり、寒い時は家畜を入れておくらしい。狭苦しく牛の糞の臭いが充満しているが、部屋は暖かく、質素ながら快適だ。
ホームズはマカラムの女房への挨拶もそこそこに、行方知れずのショーン君の部屋を見学した。大人が二人もいれば身動きもままならぬ狭さだ。
残された衣類や予備の靴を調べ、特に短靴は靴底を裏返して念入りに観察していた。
「身長は4フィート8インチほど、体重は約82ポンド。痩せているが丈夫な体だ」
呟くように言うホームズにマカラムは驚いた。
「なんで分かるんで?」
「このサイズの靴ならだいたい想像がつくよ。爪先と踵が均等に擦り減っているのはバランスがいいからだ。土踏まずが凹んでいて、しっかり歩く。靴底はかなり減っているから長い距離を歩いたのが分かる。病弱な子供がこんなに歩けるはずがない」
靴を見ただけで言い当てる彼に、マカラムはすっかり感心してしまった。
ホームズは木箱を改造した小さな机の上に乗っていた1冊のノートをめくった。ノートは裏返しまでびっしり書き込まれていた。
「確かに頭は良さそうだ。伝説に興味があるらしい。誰が教えたのかね?」
ちびた鉛筆を取り上げて彼は言った。
「牧師様でさ。あっしは字が読めねえ」
「服はきちんと畳んでいるし、机もきれいだ。行儀のいい子供だな」
マカラムの女房は我々のために夕食を用意してくれていた。羊の内臓を煮た肉団子と豆を煮たお粥に酒が添えられる。地元産のスコッチウィスキーは素晴らしい出来で、スモークの効いた深い味わいがあった。一流の酒に比べて洗練さに欠けたところもあるが、素朴な風味が肉料理にとても合っている。わたしは貧しい農家でこんな見事なもてなしを受けて感激してしまった。
夕食がすむと、我々はマカラムの馬車でイナハ村へ戻った。
投宿する家は瓦屋根の白壁の家で、この辺では唯一の二階建てだということだ。部屋数が多いので旅行客に供されているらしい。
ペッパー夫人は羊が立ち上がったような丸々としたご婦人で、夜遅く訪れた我々を快く迎えてくれた。
「あんたがたが例の探偵さんなんだねえ!」
早くも噂が届いて、ホームズは苦笑するしかなかった。
「ぼくは添え物でね。ワトソン君の休暇に付き合っているだけなんですよ」
約束の宿賃50シリングを前払いしながらそう言った。
「ここらじゃゴルフも釣りもできねえだよ、旦那」
背負っているゴルフバッグを見て、女将が釘を刺す。
「ゴルフはそれほど期待していなかったが、湖もあるし魚くらいは釣れるんじゃありませんか」
わたしの問いに女将は首を傾げ、
「いつもならウナギかイワナが釣れるんだがねえ。今年は春頃からさっぱり釣れなくなっちまったって漁師がこぼしてたわさ。鮭も昇ってこねえだよ」
「春頃というと何月ですか?」
ホームズが口を挟んだ。
「さあて、ええと…5月の始めだったかいね、よく覚えてねえけんど」
「なるほど、ありがとう。残念だったなワトソン、この村では静養に効き目のあるきれいな空気で我慢したまえ」
「それだけじゃねえよ、うちの料理とうまい酒がありまさあ。この辺はへんてこりんな岩が多いから見物には良いかもしんねえ」
「期待していますよ」
「マカラムさん、我々は明朝9時に伺います。そこから始めましょう」
「よろしく頼むぜ、先生」
マカラムは帰っていった。
ホームズは女将に頼んでアクランド氏が残していった旅行鞄を見せてもらった。鞄は丈夫な革の高級品で、中身は着替えと煙草道具に旅行案内書、暇つぶしの小説、洗面道具くらいで特別な物はなかった。旅行案内書にはいくつか印を付けたページがあり、彼が遺跡や城跡に興味を抱いていたらしいのが分かった。
「奇妙だな、ワトソン。失踪を匂わせるものは何もない」
この村でただ一軒の居酒屋はまだ開いていたので、我々はさっそく出向いた。『豚の騎士』亭は石造りの軒の低い長屋で、伝統的なカウンターとテーブルが三つ四つ置いてある。イナハの住民の大事な娯楽場らしく、その夜も老若男女合わせて大勢の客がいた。村中の人間が集まったように感じられたが、あながち間違いでもない。というのも、今日ははるばるロンドンから珍客が来るというので期待して待っていたのだ。
「やあみなさん、こんばんは。お邪魔しますよ」
目玉の見せ物であるホームズは陽気に挨拶し、地元産のエール酒と羊のソーセージを注文した。熱いエール酒は大麦の香りの効いたコクのある逸品で、ボイルした肉汁豊かなソーセージの脂っこさを和らげてくれた。
普段のホームズは人付き合いを極力避けていて、いわゆる世間話を毛嫌いしていた。単に親交を深めるだけの天気の話題だの、いつも同じネタを繰り返す近所の噂話だのは、彼にとって時間の無駄でしかなかった。歓迎されるのはせいぜいレストレードやグレッグソンくらいで、むろん事件の話やスコットランドヤードの内情が聞けるからだ。
しかし、こと犯罪捜査となると、ホームズはガラリと人格を変えることができた。というのも、彼は目撃者から話を引き出すのが非常にうまく、人を信用させるすべを心得ていたからだ。時おり乞食だの行商人だの牧師だの化けても怪しまれないのは、巧みな話術があってのことなのだ。
今夜もホームズはその術を大いに発揮し、たちまち民衆に溶け込んでしまった。居酒屋にいた客全員に酒を奢ると、村人は大いに盛り上がり、他所者である我々を歓迎した。
「だけんど旦那がた、ここらは見てありがてえもんなんざ、ありゃしませんぜ」
聴き取るのが難しい訛りで酔客が言った。
「旦那ぁ、マカラムん家の坊やをお探しなんでがんしょ?」
「そんな話もあったかねえ」
とぼけるホームズ。
「しかし、ちょっと怖い噂も聞いているよ。なんでも人が消えるんだそうだね」
すると客たちは顔を見合わせ、それまでの陽気さが鳴りをひそめた。彼らはマカラムの息子が居なくなったことで胸を痛めていた。そればかりでなく、最近消えた人々がいることに不安を覚えているようだった。
ホームズはうまく酔客たちを煽って、失踪した人物について話させた。
その結果マカラムの証言が裏打ちされ、アル中の男ジョナサン・ボイルは4月の終わり頃に、未亡人のエイリーン・カー夫人は6月の下旬に、旅行客のセドリック・アクランド氏は9月の下旬に消えたことが分かった。三人とも目撃者はおらず、出奔する理由もなかった。またこの三者に共通する部分が何もないのは明らかである。
これらの事実を知ると、ホームズは目を細めながらパイプをくゆらせて考え込んだ。
マカラムの女房ライザ夫人が言っていた『悪魔』の噂も話題にのぼった。村人たちは声をひそめ、次々に悪魔について言い出した。いわく、真夜中に湖の方から奇妙な唸り声が響き、その辺りから怪しい光が見えただの、風に混じって女の泣き叫ぶ声が聞こえただの、異様な臭気がたびたび流れてくるだの、どれも信憑性のないものばかりだった。だが間違いなく言えることは、イナハ村の住民が一人残らず怪異を恐れており、失踪人の行方がそれに拍車をかけているということだ。
もうひとつ、事件とは関係なさそうだが、1年前から男が一人住み着いているという。名前をチャールズ・オルコットといい、本人の自称では博物学者なのだそうだ。
「えらくおっかねえ先生で、何が面白ぇんだか年柄年中地面を見つめてまさあ」
明らかに変人だと思っているらしく、村人たちは肩をすくめていた。
他に話題もなさそうなので、我々は適当なところで切り上げ、ホームズは最後にもう一杯全員に奢ると『豚の騎士』亭を後にした。
白い息を吐きながら我々は夜道を歩いた。空に月はなく、辺りは闇に塗り込められていたので、ペッパー夫人から渡されたカンテラがなければ道に迷っていたに違いない。周囲は沈黙に支配され、鳥の鳴き声ひとつしない。真夜中でもどこかしら物音がするロンドンに慣れていた者からすれば、音のない世界は気味の悪いものだった。
「どう思う、ホームズ」
「失踪人の方かい。それとも迷信の方かな」
「迷信は論外として、わたしには単なる事故か家出にしか思えんね。たまたま事件が重なっただけのことじゃないか」
「確かにそう思えるな」
ホームズは背中を丸め、地面を見つめながら、
「しかし、ショーン君ら四人にいずれも家出の理由がないのが気になる。そのうちの一人は半マイルも真っ直ぐに歩けたかどうか分からない男だ。そんな人間が遠くへ行けるものだろうか」
「酒が醒めたら村が嫌になって出ていってしまったのさ」
「カー夫人は近隣の男たちとイチャつくのは目撃されているが、金持ちの紳士と一緒にいるのを見た者はいない。ついでに言えば、裕福な男が村へやって来たのは、ここ数年ではアクランド氏以外にいないし、彼が来たのは9月に入ってからだ。時期的に合わない」
「それこそ秘密にしておくべき事柄だ。立派なパトロンとできたなら、噂を避けようとするだろう。誰かに気づかれるような行動は取らないよ」
「ではアクランド氏が手荷物を放置したまま宿を出払ったのは?」
「散歩の途中で急な用事を思い出して、慌てて帰ったんだな。あるいは電報を受け取ったか。もっとあり得るのは、小川か湖で足を滑らせて転落し、溺れ死んだまま死体が沈んでいることだ」
「で、ショーン君は羊の番をしている間になんらかの事故に遭ってしまったか…なるほど、どれも辻褄は合うな」
「きみはそう思わないのかい」
「可能性としては大きいと思うよ。それも真相の候補の一つだ。ただ、今年になってから4人もこの村から居なくなるというのは偶然にしてもおかしな話だと思わないか」
「まあそうだが、他に説明がつかないだろう?」
「確かめてみるしかないな、ワトソン。明日からひと働きするとしよう。…ああどうもペッパーさん、遅くなりました」
「構わねえだよ。うちはお客さんに慣れてますんでねえ。ただ旦那さんがた、あんまり遅くは出歩かねえ方がいいだ。悪魔に喰われちまうだで」
「はは、肝に銘じておきますよ」