◆シャーロック・ホームズ綺談 ラノク湖の怪◆ 作:mizumega
翌朝ポリッジと目玉焼きの朝食を摂ると、我々はマカラムの家へ出掛けた。わたしは恰好ばかりに釣竿を入れた袋を背負っていた。
彼の他に数名の男たちが集まっていて、ショーン君を捜索した場所へ案内してくれた。わたしは持参した地図と首っ引きでそれらと照合してみた。
イナハ村は北と南の丘陵地帯に挟まれた低い谷間にある。西のラノク湖から流れるイナハ川が東へ延び、北海へ続くティー川へ合流している。東のブレア城へ続く川沿いに村々が点在し、ラノク湖から西は人跡未踏の荒野だった。谷間はまばらな森林と畑と牧草地で覆われている。谷間をのぞむ南北の斜面はヒースに覆われるか岩肌が剥き出しになっていて、ほとんど樹木がなかった。
ラノク湖に面する丘の向こうもさらに丘が連なり、荒涼とした山地になっている。
マカラムたちはショーンが羊の番をしていた牧草地から丘か川遊びに出掛けて、そこで事故を起こしたのではないかと考えていた。彼らは散開してかなりの広範囲を探し回ったが、何も見つけることはできなかった。湖の方もあるだけの舟を出して底を漁ってみたが、魚すら引っ掛からなかったそうだ。
マカラムは念のため近隣の村を巡って息子の消息を尋ねたが、どこも少年の姿を見かけた者はいなかった。
それらの説明を聞きながら、我々はマカラムたちが探した場所を歩き続けた。ホームズはほとんど口を挟まず、黙然と地面を見つめていた。
「ご覧のとおり、隠れるところなんざありゃしません」
マカラムは肩をすくめた。
「妖精にさらわれたんでもなけりゃ、ショーンのやつがどこへ行ったか見当もつきませんや」
「ありがとうマカラムさん、大変参考になったよ」
ホームズは礼を言って皆を帰らせた。
「さてワトソン、仕事だ。手始めにどこから探す?」
目の前に広がる放牧地とどこまでも続く荒地を眺めると、わたしはすっかり途方に暮れてしまった。
「わたしにも分からん。手掛かりすらないんじゃな」
ホームズは落ち着いた手つきでクレイパイプに火を点け、煙草を吹かした。それからステッキを振り回し、丘の斜面と放牧地を示した。
「まず、ここらは除外していいな。見通しはいいし、彼らが少年を見落としたはずがない。同様にイナハ川沿いも考慮しなくていいだろう。もし彼が荷馬車の藁の山に隠れて駅まで行ったとしても、そこから先へは進めまい。ましてや、行くあてもないのに、さらに行くものだろうか?全く可能性がないわけではないが、今のところ注目すべきではない。同様に、小川の水深の浅さを考えると、そこに死体があったとしたら、捜索者の目に留まらないとは到底思えない。
南と北の丘も考える必要はまずない。向こうは人の住めない場所だ。誰かが踏破しようとしてもかなりの困難を伴うだろう。だめだ、考慮に値しない」
石突でトントンと草むらを突く。そこはマカラムが所有する牧草地の一角だった。羊たちが人間の困惑をよそに草をのんびり食んでいる。
「そして、出発点はここだ。ショーン君が失踪した時、いつものように羊飼いの番についていた。そこから何かがあって彼は消えたんだ。さあワトソン、ここから何が見える?」
「…湖だ。…それに教会が見える」
ラノク湖の近くに古びた教会の姿が小さく見えた。
「ショーンが死んだとしたら、死体は水の中に沈んでいるかもしれない。川沿いはマカラムたちが徹底的に捜索したし、丘は論外だ。しかしあの湖の水深は500フィートもあるそうだ。通り一遍探したところでそう簡単に引っ掛からないだろう。見つからない理由としては有力だと思わないか?」
「じゃあ湖から始めよう、ワトソン」
ラノク湖はハイランドに典型的な細長い小さな湖で、東西に5キロ、南北に1キロの幅をもっている。中央に小さな島影が見える。周囲を丘陵で囲まれ、静かに水を湛えていた。水面は泥炭の粒子が流れ込むせいで濁って青黒く、透明度はほとんどなかった。これなら何が沈んでいても分かるまい。
ここではブラックトラウトやサーモンが獲れるそうだが、なぜか今年は全く釣れないらしい。幾つかの釣り小屋があり、網が掛けられ、舟も何艘か岸に上げられていたが、人影はなかった。
マカラムが言ったように、湖の光景はたしかに変わっていた。というのも、イナハ村へ行く途中で見た奇妙な立石が、ここでは丘の斜面にいくつも見られたからだ。まるで太古の生き物である剣竜の背びれのような岩が建てられ、ある法則に従って並べられている。円陣だったり直線だったりするが、その意図するところは不明だった。特に目立ったのは北と南の頂上付近にあるドルメンだ。どちらも大きく、異様な外観で威圧している。
湖畔にたたずんでいると大昔の世界へ迷い込んでしまった気がする。沈黙が辺りを支配し、時おり聞こえる鳥の声だけが生命の証だった。
ホームズはここまでの道程で地面を一心に見つめ、猟犬のように嗅ぎ回っていた。
「靴だ」
ふいに一言呟くと、指差す。
「ショーンの靴底と一致する」
屈んで顔を近づけると、なるほどサイズの小さな踵の跡が微かに残っていた。かたわらに沢山の蹄の跡がある。
「よく見つけられるな」
「あると思って探したからね」
「じゃあ…」
「いや、何も示してはいないよ。これだけではね。つい最近彼が湖まで歩いていったらしいことを証明しているだけだ。たまたま道が粘土質だったから雨が降っても残っていたんだ。だから足跡がある」
ステッキで行路を示す。
「牧草地から羊を連れてここまで来て、また帰った。日課だったんだろう」
岸辺を一周してみたが、収穫はなかった。我々は南側の斜面を登り、さっき見たドルメンを目指してみた。
頂上へ辿り着いたわたしは思わず感嘆の声を上げた。
そこからの眺望は素晴らしいものだった。太陽が赤茶けた草と苔の絨毯に包まれた侘しい大地を照らしている。瘤のように盛り上がる丘は幾重にも波打ち、複雑な模様を描いている。遥か向こうに青く霞む山の峰が浮き彫りになり、空の境界と溶け合っていた。一瞬で幻想の世界へ惹き込まれ、わたしは胸を締めつけられるような懐かしさを感じた。それは人類が等しく共有する美への郷愁に違いなかった。初めて訪れたにもかかわらず、わたしはこの地の美しさに打たれ、畏敬の念を覚えずにはいられなかった。もしこの美に何も感じない者がいたとしたら、それは人間ではない。
「なんという美しさだ」
「スコットランド人には誇るべきものがあるね、ワトソン。だが、残念ながらショーン君はいないようだ」
ドルメンを覗き込みながらホームズが言った。
その遺跡は小規模ながら見事な出来栄えで、大きな岩の土台の上に小さな石を重ね合わせ、さらにその上に途轍もなく大きな平石を屋根代わりに載せていた。大きさは縦20フィート、横幅は12フィート、高さは5フィートほどあった。
「これはちょっとした謎だぞ、ワトソン」
身を屈ませて中へ入りながら、ホームズがわずかに頬を紅潮させた。彼は音楽の他に歴史に興味があり、古代の遺跡や言語に関心があった。事件のない時はヴァイオリンを弾くか、考古学の文献を漁って暇を潰すのが近頃のお気に入りだ。
「見たまえ。この石組みはちょっと見たことがないな。グレートブリテン島では非常に珍しい。アイルランドのニューグレンジを思わせるが、これは…」
「ーーーおいっ、何をしている!」
外から怒声が響いた。
我々が遺跡から首を出すと、ライオンのような男がこちらへ走ってくるところだった。
その男は滑稽なことにブッシュハットを被り、サファリジャケットを着て、その上から腰にキルトを巻いていた。ズボンの下肢をゲートルで巻き、丈夫な短靴を履いている。顔は白い肌をした野蛮人のようで、ふさふさした赤毛の顎髭と口髭をたくわえ、太い眉の下にあるアンバランスなほど小さな眼で睨みつけている。それは怒れる小さなライオンのようだったが、鳥打ち用の散弾銃を構えているので笑い事ではなかった。
「この脳なしの野次馬ども、ちょっとでも傷をつけたら膝を撃ち抜いて二度とまともに歩けないようにしてやるからな!さっさと出ていけ」
「オルコット博士ですね」
ホームズは少しも慌てず微笑んだ。
「博物学者だとお聞きしましたが、ご専門は考古学で?それとも文化人類学?」
「へん、それを聞いてどうする。お前の知ったことじゃないだろう」
「それがそうもいかなくてね。なにしろだだっ広い荒野で人探しをしているもので。雨宿りできる場所なら覗いて見ずにはいられんのですよ」
オルコットは胡散臭げな顔で我々を交互に見た。
「あんたたちは誰だ。旅行客か」
「こちらは諮問探偵のシャーロック・ホームズ氏で、わたしはジョン・ワトソン博士です」
わたしは胸を逸らして言ったが、オルコットに感銘を受けた様子はなかった。
「へん、探偵だ?人の粗探しをして稼いでる連中だろう。こんな辺鄙な所で何をしているんだ」
「ショーン・マカラムの行方を追っているのですよ」
ホームズの答えにオルコットはわずかに首を頷かせた。
「マカラムの息子か…まあ、あいつは見所のあるやつだ」
「会ったことがあるんですか」
わたしが聞くと、
「わしがいつからここに居ると思っておるんだ?あの子は探検が好きで、わしによく質問してきた。なかなか観察眼の鋭い頭の良い少年だ」
「ショーン君が失踪してから見かけたことは?」
ホームズの問いに彼は首を振った。
「いや、残念ながら。マカラムは気の毒だ。無理もないが。見つけていたら真っ先に知らせていた」
「ところであなたは何をしているんですか」
わたしは言った。
「銃なんか持って狩猟ですか」
「馬鹿を言え。この辺の連中は学がなくて迷信深い。だから何も知らずに貴重な遺跡に傷をつけるんだ。こうやって脅さないと耳を貸さないからな。いいかね、あんたたちが今踏んでいる足元の下に数千年前の秘密が眠っているかもしれんのだ。そこを勝手に踏み荒らしたりすれば、何があったのか分からなくなる。痕跡は消えやすい」
「個人的な興味なんだが、この遺跡は変わっていますね。イギリスにはないタイプのようだが…」
「そうだ。この石組みを見ろ」
ホームズの質問にオルコットは銃身で下の大きな岩を指した。
「これほど大きな物がピッタリ噛み合っているだろう。しかも切り口は不規則なのにカミソリ1枚入らないほど隙間がない。岩は少なく見ても十数トンはある。こんな技術は現代でも不可能だ」
キルト模様のごとき複雑な石組みを示しながら、まくしたてる。
「その上の石組みは違うようですが」
「それはピクト人が後から付け加えたものだ。本来は下の土台だけが遺跡だったのだ」
わたしは興味をそそられた。
「とすると、ピクト人より前の人たちが造ったんですね。それは誰なんです?」
「分からん。文字が残されておらんし、土器は新石器時代のものだ。しかし、その時代の技術でこれが建築できたとは思えん」
「となると、謎の民族が我々よりも高い技術力でこの土台を創り上げたことになりますな」
ホームズの言葉にあらためてわたしは遺跡を眺めた。
悠久の時を経た巨大な石たちは沈黙の中に叡智を隠しているように見えた。
「そういうことだ。だから貴重なのさ。それを君、面白半分にいたずら書きなど掘られてみたまえ。どんなに侮辱的で破壊的な行為か分かろうというもんだろう。だからわしはこいつを振り回さにゃならんのだ」
「頼むから引き金に指を掛けないで下さいよ」
「安心しろ、ワトソン君。弾は入っとらん。わしもそこまで馬鹿じゃない」
オルコット博士は銃身の中折れを開いて薬室が空なのを見せた。
ホームズは質問を変えた。
「ショーン君はここへ来ましたかね?」
「わしが特別に見せてやった。あの子は他の連中と違って、きちんと説明を聞いたよ」
「もし博士のお話が本当なら歴史が変わりますな。学会は大騒ぎでしょう」
「へん、学会なんか!」
軽蔑し切った様子でオルコットは吐き捨てた。
「あいつらは『定説』とやらを守るのにご執心なのさ。人類ってのは進歩一辺倒で、過去に自分たちより優れた者がいるはずがないって決めつけおる。昔の人間は皆未開人なのだ。だからこんな石組みは存在するはずがないって跳ねつけおる。自分の頭で理解できないことには全く興味を示さんよ!」
頭を指で突きながら毒づく。
「だが、わしはこの地方の詳細な記録を採って、必ず一泡吹かせてやるつもりだ。いいかね、南米でも南太平洋諸島でも、こうした考えられない遺跡があって、世界中に散らばっているのだ。帆船もない時代になぜか同じ遺跡が何千マイルも離れた場所にある。これを誰が説明する?必ず真実を突き止めねば」
「素晴らしいですな。ぜひ成功していただきたい」
あながちお世辞でもなさそうにホームズは頷いた。
「ところでこの辺りには人が隠れられるような穴場はありませんかね、他に」
「ないわけじゃないが…」
オルコットは丘を見渡した。それから銃で北の斜面を指し、
「あっちの方なら穴の跡が多く残っている。けど住めるほどのものじゃない。昔の住居跡もあるが、屋根がないんでね。それにショーンが隠れたとして数日も持たんよ。寒さで凍え死ぬのがおちだ」
「穴場へ落ちて亡くなった事故は」
「聞いたことがないな。穴居人の骨もないね」
「なるほど、ありがとう。ところで博士、あなたは『悪魔』を信じますか?」
「…ああ、村の者から聞いたんだな?」
わたしは聞いた。
「村人たちは夜中に奇妙な遠吠えを聞いたり、異臭を嗅いだりしたことがあるって言ってましたが…」
「それはわしも聞いたことがある。ほんの微かだったがね。あれは鳥じゃないな。犬でもない。では何だと言われたら答えられんが」
意外なことにオルコットは真面目な顔で応じた。
「悪魔に関してこの湖には伝説があってな。昔、ここに怪物が棲みつき、聖人に退治されたという話が残っている。それについては牧師のファーガソンの方が詳しいだろうな。あいつは地方の伝承を集めていたようだから。
ホームズ君、伝説や伝承というものは必ず元ネタがある。火のないところに煙は立たぬってやつだ。逆に煙があるなら、燃えた物がそこにあるのかもしれない。あんたたちは馬鹿にするだろうが、注意はしておくことだ」
「最後にひとつ。遠吠えを聞いたのはいつ頃のことでしたか」
「日付は忘れたが春だったね。4月に入ってからだった。そのあとも、ちょくちょく聴いたよ」
「大変参考になりました」
「君たち、遺跡には足を踏み入れんでくれたまえ。近々発掘調査つもりなんだから」
我々はオルコットと別れ、南の斜面を降りて湖を巡り、反対の北の斜面を登ることにした。
その前にわたしはペッパー夫人手作りの弁当で昼食を摂ることにした。対岸に適当な岩があり、座るにはちょうどいい。チーズとレタスのサンドイッチを頬張り、水筒の地ビールを飲んだ。
「君も食べないか」
ホームズは首を振り、辺りをあてどなく散策した。捜査に集中している時は食事を摂らないのが彼の流儀だ。
昼食が終わると釣り糸を垂らしてみたが、村人が言ったようにピクリともしなかった。
ホームズが、わたしの立っている岩の上に並んで、湖の周辺全体を眺める。
「釣果はどうだい」
「さっぱりだね」
30分しても埒があかないので、私は諦めて釣竿を袋にしまった。
「どこかにいるはずなんだ」
ホームズが独り言を呟く。
「ぼくの勘がささやくんだ。ショーンはイノハ村の近くにいると」
「ははあ、『勘』なんて非科学的なことを言い出すとは、君も村人に感化されたな?」
返事がないので振り返ると、ホームズはこちらをジッと見ていた。そのまま彫像のように動かない。
とまどったわたしは、彼が自分を見ているのではないことに気づき、視線を辿ってみた。だが地面が見えるだけで何もない。
「ホームズ?」
彼は身軽に飛び降りると、ポケットから愛用の巻尺を取り出した。
「そっちを持ってくれ」
わたしが降りてメジャーの端を持つと、屈んだ姿勢のまま後ずさりする。
「15フィート」
巻尺をポケットに入れると、また岩に飛び乗る。彼が手招きするので、私はその隣に再び立った。
「ワトソン、ぼくの見ているものが分かるか」
「…何も見えないが」
「そこだ」
ステッキで眼下の地面を指す。
「草の向きに注目したまえ。潰れたところと、倒れているところ…」
わたしが目を凝らすと、薄っすらとだが、形が見えてきた。
それは幅広い跡だった。
枯れ草が左右に倒され、その間の草は押し潰されている。幾筋か線上の傷跡が地面を細く抉っていた。その幅はちょうど15フィート。
「なんだろう…?」
「分からん」
ステッキの示す方を辿ると、その跡は曲がりくねって北の斜面を這いずっているように見えた。
地面に降りると、ホームズはその跡を追っていった。
「左右に別の足跡がある」
「足跡?」
「この引きずった跡の右左に、地面を掻いた跡が等間隔に続いている」
言われてみれば、なるほど、薄く地面を土ごと掻き取った跡があった。それは四角いスコップで浅く削ったようにも見えた。
「なんなんだろう」
「何か大きな物体が、左右に取り付けられた脚か鰭を押しながら動いたんだ」
「なんだって?」
わたしはあらためて岸辺まで駆け戻り、よく地面を観察しながら跡を辿った。ホームズが指摘したとおり、その跡は水辺の砂利を跳ねながら這い上がり、丘の上を目指しているのが分かった。
「一体何物だ」
「ぼくには説明できないが、非常に大きな生物かもしれない」
「しかし…それじゃまるで鯨が這ったようだぞ」
わたしはこんな跡を付ける物を想像してみた。15フィートの胴体と3フィートはあるヒレを持った生物…それはゾッとするほど巨大な何かだった。
ホームズは這い跡に鼻を近づけた。
「…雨に流されているが、微かに異臭がする。村人が嗅いだ悪臭はこれかもしれないな」
わたしも嗅いだが、魚の臓物を腐らせたような臭いにすぐ頭を引っ込めた。
「まさか例の『悪魔』じゃないだろね?」
「なんとも言えないが、事件に関係するかもしれない。もう少し調べる必要があるな」
這いずる跡を追って斜面を登ってゆくと、あちこちに奇怪な立石が立っている。その間を縫って跡は続いていた。そして北の丘の頂上にある巨大なドルメンで終わっていた。
そのドルメンは南のものとは一転して、非常におぞましいものだった。というのも、大きな石舞台の周りを立石で囲んでいるのだが、どれも奇怪な彫刻が施されていたからだ。石段が三つ四つ重なって階段となり、その上に石舞台が設置されている。
石舞台は上がきれいに平らになっていて、そこに幾つもの溝が彫られていた。明らかに人身御供と分かる儀式の模様が、荒削りの石の土台の側面に稚拙な技法で彫られ、それを髑髏が彩っていた。まわりの立石にはそれぞれ一つずつ怪物の図像が刻まれ、悪意を孕んだ目で笑いかけていた。陽が傾き色褪せた大地にそれらの影が暗く投げかけられると、知らず鳥肌が立ってくる。
「おいホームズ、こいつはちょっと似ているんじゃないか?わたしたちが想像しているのと」
わたしは土台のレリーフの下を指差した。それは樽のような胴体を持った怪物だった。四つのヒレがあり、ひどく長細い首が蛇行しながら土台を一周し、頭が尻尾を噛んでいる。
「たしかに興味深いな」
ホームズは念入りに観察した。
「こちらの遺跡はあまり文明の発達した者が作ったわけではなさそうだ。…見ろ、ワトソン、これを」
草むらの間から目ざとく見つけた布の切れ端を取り上げる。
「これは繻子だ。女性用の」
「どうしてこんなものが」
ホームズは石舞台の上面を眺めた。
「ここはどうだ?血の跡に見えないか」
全体の一部に不自然なシミが広がっている。特に溝は黒く汚れていた。わたしはそのシミをこすってみた。
「断言はできないが、そのように思える」
「話が変わってきたな、ワトソン。これは実に示唆的だ」
「何を考えている?」
「まだ話せないが、ぼくは別の可能性を見出している」
それ以上のことは教えてくれなかった。彼は確信がない限り安易に憶測を口にすることはない。
陽が地平線に沈みそうなので、我々は今日の探索を切り上げた。
「もっと早くに来るべきだった」
ホームズは考えに沈みながら呟くように言った。
「どうやらぼくは事態を軽く見ていたようだ。さっさと事件を片付けてここへ来ていれば…」
「わからんよホームズ、彼らだって十分時間をかけて探したんだから。君を責めるのはお門違いさ」
「この事件は奇妙だ」
ホームズは一言いうと、それきり押し黙ってしまった。我々は立石たちの長い影が伸びる斜面を下って行った。影たちは我々を意地悪く見つめている。
その時、些細だが奇妙な事に気づいた。
湖の中の島が消えていたのだ。
立ち止まるわたしにホームズが声を掛けた。
「どうしたんだ、ワトソン」
「いや、…なんでもない」
「なんでもないという顔じゃないぞ。いいから話したまえ」
そこでわたしはその事を話した。ところがホームズは眉根を寄せた。
「島?」
湖の方を振り返り、
「どんな島だ」
「どんなって…普通の島さ。すごく小さいけどね」
「ぼくは見なかったな」
「えっ?」
我々は顔を見合わせた。わたしはラノク湖へ来た時、確かに湖中に島を見たのだが、ホームズは地面を見ていて気づかなかったらしい。
「にしても、おかしな話だな。ぼくもあの後すぐに湖を見たよ。島はなかったと断言できる」
「それは変だ」
夕陽が山影を作り、湖を覆わんとしている。太陽の残光を受けて光る湖面は鏡のように平らだった。
「たぶん、わたしの見間違いだろう。水面の影を島と勘違いしたのさ」
「それはおそらくあり得ない。君はこの話をした時、素直に驚いた顔をした。ということは、ごく自然に島の存在を確信していたのだ。ならば確かに島のような『何か』を目撃したに違いない」
「魚…」
「1匹も釣れない湖で?」
「ううむ。なんだろう」
「ぼくも見ていないので分からんな。おかしな話ではある」
マカラムは気を揉みながら帰りを待っていた。
「何か見つかりやしたかい、先生」
「焦ってはいかんよ、マカラム君。興味深い発見はあったが、まだ話せる段階ではない。ところで、ショーン君はオルコット博士と親しかったのかね?」
「あの先生かい?あいつぁ変わりもんだが、息子には親切なようだ。ショーンはオルコットのやってる事が知りたくて、暇があれば遊びに行っていたな。もっとも、あっしら大人が行っても、奴は追い返しちまうがね」
「1年前に来たというが、誰か昵懇だった人はいるかな、村の中で」
するとマカラムは探るような目つきで言った。
「いんや、誰とも仲は良くねえ。カーんとこの後家さんもてんで相手にしなかったよ」
「その他も想像に難くないな」
「話し相手になれるのは牧師様くれぇのもんでさ」
「なるほど。そうだ、今日ラノク湖の周囲を廻ってみたんだが、たいそう珍しい遺跡が多いね。君は知っているかい」
「あそこら辺に近づく村人はいねえや。あんたたちは迷信深いと思うんだろうが、ああいう岩には悪い妖精や悪霊が棲みついてるって昔から言われてるだ。ショーンは別だが、誰も知りたがるやつはいねえよ」
「ところで念の為にカー夫人やボイル君のことを調べてみたいのだが、それは可能かな?」
「村長に言えばいいだ。あっしが掛け合いまさ」
息子の安否とは関係なさそうな事柄に興味を持つホームズへ、マカラムは不審さを隠さなかったが、口には出さなかった。彼にしてみればショーンの行方について一刻も早く知りたいのだ。しかしホームズは何も言わず、捜査を続けるとだけ言った。
ペッパー夫人の宿へ戻り、羊肉のシチューとスパイスで炒めたライスで夕食を摂ると、我々は『豚の騎士』亭に出かけた。昨日と同じく酒をふるまい、村人の舌がゆるんだところで、ホームズはイナハ村の事情をさらに聞いた。しかし昨日と違うのは、この地方の伝承により興味を示したことだ。わたしは妙な話題に首を傾げながらも、村人たちの話に聞き入った。
意外なことに昔話は面白かった。城跡や教会の廃墟に棲みつく幽霊や、誰かの霊が訪れたとか、妖精のいたずらだとか、ありきたりな話の他に、この地方特有の話が聞けた。ケルピーと呼ばれる水馬が人をたぶらかしたとか、メンヒルの下に妖精の国があってハロウィンの夜に遊びに出てくるとか、悪魔が人間の姿になって巨石の向こうから誘惑してくるなど、いかにも立石の多いところらしい。
とりわけ話題が豊富なのはラノク湖にまつわる伝承で、先ほどのケルピーが棲んでいる話以外に、魚が女に化けて男と結婚する話や、湖の底に御殿があるなど、話が尽きない。バイキングが攻めてきて村を劫掠したが、湖の妖精に騙されて皆溺れ死んだとか、なかなか凄まじい話もある。わけても印象的なのは、湖に棲んでいるのは水馬ではなく、邪悪な竜であり、村人を襲って喰っていたが、聖人がやって来て退治した話だった。その聖人は有名なアイオナ修道院を建てた聖コルンバとも、スコットランドの守護者聖アンドリューとも云われている。その聖人は火の点いた十字架で追い払ったのだそうだ。
ラノク湖の竜が犠牲者を食べると、遺体はなく肝臓しか浮かんでこない…という話が出たところで、それまで酒場の片隅で陰気な顔をして飲んでいたマカラムが店を出て行った。
わたしは彼を追った。
「マカラムさん」
「ワトソン先生、こんな事は言いたかねえが、ホームズさんは何しにこの村へ来たんで?あんな昔話を熱心に聞いてよ」
赤ら顔でマカラムは吐き捨てた。
「断言してもいいが、シャーロック・ホームズは君の息子を見捨てたりせんよ。必ず考えがある。だけど、それが固まるまで決して言わないのだ。辛いだろうが、もう少し辛抱してくれたまえ」
「そりゃあ…わかってまさあ」
「さあ、自分の家までは遠いだろう。気をつけて帰りなさい。何か進展があったら必ず知らせるから」
足元がふらつく彼を手伝って馬車に乗せ、見送る。
「マカラムは辛抱し切れないようだな」
店を出てきたホームズが言った。
「子供を持つ親だ、無理もないさ。何か一言いってもよかったんじゃないか?」
「憶測でいい加減な慰めを与えるよりはいい。今は捜査に専念すべき時だ」
肩を並べて歩き出す。
「今日は実に面白い晩だったよ」
「まさか迷信を本気にするんじゃないだろうね」
「しかし、この村の住民が迷信深いのは十分わかった。それが手掛かりになるかもしれない」
「一体何を考えている?」
「明日だワトソン、明日」
それきりホームズは宿へ帰るまで口を開かなかった。